豊作省初出勤
何かにいる。僕は逃げている、暗闇の中何かから逃げている。何も見えない。壁の気配はない。それは僕を追いかけている。僕は逃げている。疲れない、着かれない、終わらない。黒い。暗い。何もない平坦。どこだ。走っている。近い。ちかい。いやだ。もうそこにいる。おとがする。機械音。いやだ。たったったったった。振り向く。やつとがった。ふりおろ。。
『パン』
疲れからエンターキーを強く推してしまった。いつもよりタイプミスが多い。指がうまく動かせない。神経がつながっていない感覚がある。一度取れたからだろうか。
キーボードのカタカタ音と紙をペラペラめくる音に時々聞こえる人の声。疲労感がレンガの壁に掛かっている時計を見させる。正午少し前。ブラインドを開け喚起をし始めた事務員。冬特有の乾いた風が机の上の資料をめくろうと必死に紙を揺らす。
ジュリアと出会ってから毎日見る夢。ぼんやりと思い出せたり思い出せなかったり。でも飛び起きたりとか寝汗がひどかったりとかそんなことはない。けれど不吉な終わり方だったような気がする。慣れない場所に来て疲れているのだろうか。
夢を見ていると僕はこの世界に生きているということを強く実感できる。知らない誰かの体で見る夢で昔の僕が出演していた。
呼ばれている?ぼんやりと顔をあげた。
「カズさん。お疲れですか?」
「あ、はい。少し」
「またコーヒーで良いですか?」
「ありがとうございます」
ここは豊作省の物資科。僕の業務は過去、紙に書かれたプリントをデータに移す作業。まだ電子化して間もないのだろう。そのおかげか仕事のやり方を忘れたと言ったが優しく教えてくれた。ブラインドタッチを披露しただけで驚かれる始末。上司も優しく、事務員も僕が集中できるようにサポートしてくれる。 意味の解らない英文を自分のペースで打っている仕事にも簡単に慣れた。
オフィスチェアとデスクが並べられた部屋にはスーツを着た大人が仕事をしている。固い絨毯から鳴るコツコツと革靴の音。ピロピロとなる電話音。スゥっと揚がる煙草の流煙。
その中に僕がいる。
僕は今日何事もなくネクタイをして職場に行って仕事をしている。上司や後輩と普通に話している。
部屋から出るだけで大変だったあの頃が嘘のようだ。心機一転を実感している。またこうやってデスクワークをするなんて思っていなかった。ネクタイを結ぶ手が震えていた。スラックスの肌触りが痛くて涙を流していた日々からは想像できない。
それを喜んでいる自分とその自分が自分ではないことに悲しみを感じる。もし前の体に戻ったときにネクタイが結べれば僕は僕が壁を乗り越えたことを喜べる。と信じたい。
「カズ君。次これね」年配の上司が別のファイルを抱えて僕の机に置いた。
「はい。わかりました」
「最近何かいいことでもあったの?」
「そう見えますか?」
「仕事がとてもはかどっているからさ」
「明日が休みだからですかね」
「そうだ」上司が今思い出したように僕に聞けと目で訴える。
「あの話は聞いた?」
「何ですか?」
「スパイの話」
「初耳です」
「気を付けてね。かかわると君らまで危ないから」
「わかりました」
「今日は早く上がれそうだ。この後も頼むよ」
「はい。わかりました」上司からの期待に二つ返事で答える。あともう少し頑張ろう。
食堂は閑散としていた。昼休憩の半分を過ぎていた。職場と同じビルの三階。そこまで高いわけではない。周りの建物が低いからか外の景色がよく見えるが、景色が少し歪んでみる。電柱同士をつなぐ電線がうねうねしていた。
お昼ご飯は赤いスープにコッペパン。肉と豆の入ったキーマカレーのキーマの部分。思った以上に豪勢だった。
「休暇はどうだった?」
豊作省の食堂で黙々と食べている僕に青年が声をかけてきた。同じ部屋にいた部署の先輩だろうか。
「え?」
「とぼけんな。俺が進めたレストランに行っただろ」
「あ、あぁ。良かったです」
「急に他人行儀になるなや。俺たち同期だろ」
「え、そうだな」
「今日パブいこうぜ。おごるよ」
「いいよ。店は?」
「通ってるところでいいか?」
「仕事終わったら声かけてくれ」
「あいよ」
彼は僕に声をかけた後持っていたお盆を返却口に返していた。彼は同僚と話している。ノイアーと呼ばれていた。顔も話し方も僕がいた世界の同僚にそっくりだ。
もしかしたらあいつもこの世界に飛ばされたのか?
いや。ありえないか。もしあいつが僕の顔を見たら必ず笑うはずだ。『野垂れ死んでいなかったな。負け犬』と悪態の一つや二つ付いてくる。退社届けを出した後にわざわざ煽りに来たんだから。入社したては一緒に飲み会に言っていたが次第に敵意に変わっていった。
ぱさぱさのパンをスープに浸しながら考える。
なんであんなにも嫌われたんだろう。上司に奴の不正をチクった?飲み会での楚々をいじったんだっけ?あれだけ憎く思っていたのに名前すら思い出せない。悪態を付かれるほどの仲だったのか?全然思い出せない。
日常の情報量が多すぎる。何年も同じ場所で同じことをやっていたんだからそれが大量に押し寄せることは解かっている。僕の世界で真っ当に生きている人たちはそれを毎日行っていたと思うと戦ってもいないのに敗北を感じる。
それを受け入れられない醜い僕がいる。まだ僕はこの体の中にいるんだな、と安心できた。
明るいうちに豊作省を出た。長らく忘れていた労働の感覚。疲労も達成感もそこまでない。ただあっという間だったな、という感想が初めに出てくる。
「カズ。今日はいくら持ってるよ?」
豊作省から歩いて十分程度たった時、急にノイアーが声をかけてきた。部署で声をかけられてから会話がなかった。同世代との会話なんてどうやってしていいかわからない。ギャルゲーにはなかった。関係性を新しく作るのはヒロインだけで男の親友はいて当たり前だった。彼らはどうやって作っていたのだろうか。いいや。あれはゲームの設定。初めからプログラムされているものだ。考えたところで使いようがない。
「え?これくらい」二つ折り財布を広げて中身をみせた。
「少ないな。倍くらいないとつまらないぞ」
ノイアーはパンパンに膨れた長財布をみせてきた。その中に僕の持っていない紙幣があるようだ。アンフェミアは三種類しか言ってなかった。
「そんな色のお金なんてあった?」
「お前何言ってるんだ。本物のお金じゃないか。忘れたのか?」
「え?そうだっけ」
「ストンだぞ。軍が払ってくれるお金じゃないか」
「それ使えるんだ。捕まらない?」
「捕まるも何もこっちのお金のほうが得が高いんだぞ。ウィンストンが直々に発行している紙幣なんだから」
「そうなんだ」
「ユーロはそれ未満の紙幣だな。そうか先にユーロを使い切ったほうが賢いな。来月から全額ストンで支払われるらしいぞ」
「やったな」
「さ、景気よくつかおうぜ」
「そうだな」
「今日はどれくらい使うんだ?」
「半分くらい」
「俺は全額行こうかな」
「元気いいな。何かいいことでもあったのかい?」
「実は結婚しそうなんだ」
「良かったな。おめでとう」
「お前も早くしろよな。いい感じなんだろう?」
「まあな。なら絶対に負けられないな」
「当り前だろ」
「さ、はいろうぜ」
入り組んだ路地を三回曲がった先、普通の民家についた。
重い押戸を少しずつ同僚は力いっぱい押してパブに入る。扉がキーキーなるごとにつけたベルがチリンとなる。
内装は喫茶店とバーの合いの子のようなダークな世界。店内に日光は刺さない。代わりに柔らかい電球がテーブルと酒を照らす。体に悪そうな色のネオンが店の雰囲気を照らしていた。カウンター席で客とマスターを区分けし、カウンター席の後ろには四人掛けの椅子がテーブルを囲んでいる。それが3セット。 微笑む店主の後ろ、二段の棚には酒瓶がずらっと並んでいる。
マスターは何も言わずにワイングラスを拭いていた。
「マスター、これで」
同僚は胸ポケットから豊作省の名札を出した。
「」
マスターは無言で奥の扉を開けた。
「どうも」同僚は礼を言って扉へと入る。
僕も同僚の後ろについて扉に入る。
「」
マスターは居丈高にアイスピックを僕の首に当ててきた。
「」僕は無言でマスターを見た。
「」眉一つ動かさない僕に感服したような目をみせてきた。アイスピックが早すぎて体が追い付かなかっただけだ。
「」
僕も首にかけた名札を出した。
「」アイスピックを下げた。またワイングラスを拭き始める。
僕は逃げるように同僚を追った。
扉の先は地下への階段になっていた。光るものはない。携帯があれば照らせるのに。行き先から差し込む光で何とか階段を降りた。
結構広い空間が広がっていた。幅も高さも小学校の体育館サイズ。地下のおかげか冬を忘れるくらいあたたかい。が部屋の中央以外はうす暗い。上映前の映画館のよう。足元がギリギリ見えるような、注意深く足元を見ていないと転んでしまうような暗さ。
映画館で友達のポップコーンをぶちまけえた思い出がよみがえる。
部屋の中央にトルコ石色のリングがあった。ボクシングや総合格闘技をするようなあのリングだ。
百人強の屈強な男たち。スーツを着ている奴や、軍服を着ている人間がみな鉛筆をもって壁に掛けられている黒板を見ていた。
「おい。今日は大荒れだな」
同僚は人が集まる黒板を目を細め見ていた。
「そうか?」
「見ろよ掛け金。給料日前なのにとち狂ってやがる。当てれば数十倍だぞ」興奮した様子で僕に伝えてくる。
「当てればだろ」
「夢と希望溢れるこの場所でつまらないこと言うなよ」
「そうだな」
きっと戦いの勝ち負けを金で掛ける賭博場。そして大きな声で言えるところではないらしい。ノイアーが人通りの多いところでここの話をしないところを見ると違法なんだろう。上流階級の遊び場。ウィンストンに話したら僕の価値は上がるのだろうか。
ここに来た時点で同罪だ。何されるかわからない。やめよう。
「どっちにするよ」ノイアーが僕に聞いてきた。
「うーん」
「俺はオッズが高いほうにする。カズは?」
「堅実に行こうかな」
「そうか。受け付け空いているな。早くいこう」
受付前のテーブルに投票用紙?とペンが置いてあった。彼は二種類ある紙のうち緑色をもって近くの黒板を見ながら書き始めていた。僕はノイアーが選ばなかったピンク色の紙を手に取った。
紙には自分の名前と名札の番号、ラウンド数、たぶん氏名、掛け金を書く欄がある。書き方の大きな見 本が壁にかかっていた。文字のわからない僕にも理解しやすい。
番号は名札に書いてあるものだろう。あと十分で四ラウンド目の投票を締め切ると放送が鳴った。ほとんどの人は書き終わりリング周囲の座席へと流れている。僕はその流れに逆行するように黒板へと向かった。
ひと昔前の野球のスコアボードみたいだ。一番端の黒板には四ラウンドの対戦表が書いてある。三人の白黒写真とナイフのマーク。もっと何か書いてあるようだがよくわからない。
あてずっぽうで名前と掛け金を書いて受付に出す。受付では掛け金を払って引換券のようなものをもらった。受付を終えて座席のほうを見るとノイアーが少し遠くから僕に手を振っていた。
座席は少し上がった席。ここからだとリング全体が見える。いい席だ。
「誰にしたんだ?」
「この人だよ」
「俺と一緒だ。見る目あるじゃん」
「終わった…」
「え?」ノイアーが驚いた声を出した。
「え」
「そんなこと言うんだな」ノイアーが笑いながら僕に言ってきた。
僕は『はっ』とした。元の世界で働いていた同僚と話しているときと同じ流れで会話してしまった。慣れ慣れしすぎたか。
「あ、ごめん」
「違う。怒っているわけじゃないんだ。そのほうが話しやすい」
「今日はなんで俺を誘ったの」
「いつもと違うように見えたからさ」
「どこが」
「そういうとこだ。お前もっと壁がある人間だっただろ」
「そうか?」
「そうだぞ。十人くらい殺しているんじゃないかって事務員と話してたんだよ」
「そんなことないぞ」
「だから急にレストランを教えてくれと言われたときはびっくりしたよ。なんてったってあの上司の目が見ひらいてたんだから」
「大仰だな」だからスパイの話をしてきたのか。僕が洗脳されているとでも思っているんだろうな。
「不愛想な人間だと思ってたら、今日はえらく笑うからさ。面白そうだなって」
いったいこの体の人間はどういう人間だったのだ。彼女には気障で同僚にはドライ。心を開かない人間だったのかと考察すると他人事だとは思えないな。
「話しやすいから明日もこのままでいてくれよ」
「明日は元に戻るよ」
同僚は笑っていた。
僕も同じように笑っていた。
ご覧いただきありがとうございました。
この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。
次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!




