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完結『あの夏、甲子園の裏で──名門野球部暴力事件の真実。甲子園常連校の暴力問題 腹が立つので書いてみました。』  作者: カトラス


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第十三話『夏の影』

 転校から五か月が経った。


 新しい高校での生活は、最初こそ緊張の連続だったが、今では教室に入ると自然に笑顔になれる。クラスメイトに冗談を振られて、笑い返せる自分がいる。そんな何気ないやり取りが、少しずつ拓真の心をほぐしていった。


 昼休み、窓際の席で弁当を広げると、周りには自然と友人が集まる。

「おい、拓真。今日の体育きつかったな」

「ほんとだよ。最後の方で死ぬかと思った」

笑い合う声が、もう苦痛ではない。いつの間にか輪の中に自分がいることが、不思議でありながらも嬉しかった。


 夜も、以前のように胸を締め付けられる夢を見ることは少なくなった。枕に顔を埋めると、ぐっすり眠れる。悪夢のかわりに、夢の中では友人たちとくだらない話をしていることが多くなった。それが何よりの救いだった。


 けれども、心の奥に沈んでいるものは消えていない。野球への未練。グラウンドで汗を流す仲間の声を思い出すたび、胸の奥に小さな痛みが走る。取り戻せない時間の重さを、どうしても忘れることはできなかった。


 そんなある日の放課後。教室で机を片づけていると、クラスメイトの一人が声をかけてきた。

「なあ拓真、夏の大会見に行かない? 近くの球場でやるんだってさ」


 一瞬、心臓が止まったような感覚に襲われた。夏の大会――それはかつて自分が夢見ていた舞台。避けていた言葉だった。


 迷いが口の中で重くなる。けれど、相手の笑顔に押されるようにして、小さく答えが漏れた。

「……うん、行ってみようかな」


 その瞬間、自分の中でわずかな覚悟が芽生えた。新しい日々を受け入れることと、かつての夢を見つめ直すことは、同じ場所にあるのかもしれないと。


 夏の訪れを告げるように、街中のニュースが甲子園予選の話題で賑わい始めた。


 昼休みの教室。友人たちがスマホを囲み込み、ネットニュースを見ながら盛り上がっている。

「お、うちの県の初戦はあそこか!」

「広島はどこが強いんだ?」


 何気なく視線を向けた拓真の目に、見覚えのある名前が飛び込んできた。


 ――東雲学園。


 その瞬間、胸が強く締め付けられる。呼吸が少しだけ乱れ、手のひらがじんわりと汗ばむ。あの校名は、もう自分とは縁を切ったはずの場所。けれど、無機質に並ぶ組み合わせ表の中で、堂々とそこに存在している。


 画面越しに響くアナウンサーの声が、耳の奥に残る記憶を呼び覚ます。

「広島県予選はマツダスタジアムを中心に開幕。名門・東雲学園も出場します」


 まるで何事もなかったかのように紹介される言葉。

 自分に深い傷を残し、夢を奪い、居場所をなくさせた学校が、平然と夏の大会に並んでいる現実。


 ――あの時、俺が犠牲になったことは、一体なんだったんだ。

 ――何も変わらず、全部なかったことにされているのか。


 胸の奥からこみ上げるのは、怒りとも悔しさとも言えない感情だった。言葉にならない苦さが喉の奥に詰まっていく。


 しかし同時に、拓真はゆっくりと深呼吸をした。

 ここはもう、あの閉ざされた寮ではない。友人たちと笑い合い、眠れる夜を取り戻した、新しい生活がある。


 スマホに映る組み合わせ表を見つめながら、拓真は小さく息を吐いた。


 ――俺は、もうあそこにはいない。


 心の中でそう呟いた時、ようやく画面から目を離すことができた。


 夕暮れ時、窓の外から蝉の声がひときわ大きく響いていた。リビングのテレビには夏の高校野球予選のニュースが流れている。拓真はソファに腰掛け、黙ったまま画面を見つめていた。その横顔は硬くこわばり、どこか遠くを見ているように焦点が合っていなかった。


 台所から湯気を立てた鍋を運んできた母・真理子が、その様子に気づいた。テーブルに鍋を置き、エプロンの裾で手を拭いながら声をかける。


 どうしたの、拓真。なんだか顔色が悪いわよ。


 拓真はゆっくりとテレビから目を逸らし、しばし口を開けずにいた。唇を噛みしめ、喉の奥で言葉を押し殺すようにしていたが、やがて搾り出すような声で答える。


 ……あの学校だよ。東雲学園。夏の予選に出てる。


 真理子の手が止まる。驚いたように目を見開き、無言でテレビに視線を移す。画面にはマツダスタジアムの映像と共に「広島大会開幕」の文字。そして組み合わせ表に確かに「東雲学園」の名前が映っていた。


 俺は……あの事件で全部終わったのに。甲子園に行く夢だって、野球を続けることだって、全部捨てるしかなかったのに。あいつらは、何もなかったみたいに野球をやってるんだ……。


 拳を握りしめる拓真の肩が小さく震えていた。その瞳には怒りと悔しさ、そしてどうしようもない無力感が混じっていた。


 真理子はゆっくりと息をつき、拓真の隣に腰を下ろす。その肩にそっと手を置き、穏やかな声で言った。


 拓真……あなたが背負ったものは、決して無駄にはならないわ。夢を奪われたことは辛いけれど、あなたはちゃんと生きて、前を向こうとしている。それだけで、私は誇りに思うの。


 その言葉に、拓真は唇を震わせながらも何も返せなかった。視線を落とし、テレビ画面に流れる球児たちの笑顔が胸に突き刺さる。こみ上げる感情を抑えきれず、小さく息を吐き、心の奥で呟いた。


 ……俺は、もう、あそこにはいないんだ。


 リビングの空気は、重く沈んでいた。テレビの甲子園ニュースの音声が虚ろに響く中で、拓真は俯き、唇を噛みしめていた。拳を握る指先が白くなるほど、彼の心は張り詰めていた。


 真理子は、その小さな背中に積み重なった苦しみを感じ取っていた。母として、これ以上見過ごすことなどできなかった。このままでは、また誰かが同じ苦しみを味わう。誰が声をあげなければならないのか──そう自問したとき、答えはすでに心の中にあった。


 沈黙を破るように、拓真が押し殺した声でつぶやいた。


「……もう何を言っても、無駄なんだ」


 その言葉は、真理子の胸を鋭く突き刺した。息を呑み、彼女は喉の奥が焼け付くような感覚を覚える。息子の諦めに満ちた声を聞くことほど、母にとって辛いものはない。胸の奥から溢れ出す痛みを押し殺し、彼女は毅然とした声で返した。


「そんなことない。こんな理不尽、私が思うように許せない」


 言葉に力を込めた瞬間、真理子の中に燃えるような感情が走った。彼女は深く息を吐き出し、心に決意を刻み込む。学校も高野連も、もはや信用できない。だが、まだ残された道がある。世間に知らせるという方法が。


 ゆっくりと拓真の方へ向き直り、その瞳には迷いと同時に強い光が宿っていた。母の心が揺るぎなく固まった瞬間だった。


「拓真、母さんは考えがある。あなたのために、全部話す」



 七月下旬の夕暮れ。西の空は茜色から紫に変わりかけ、窓の外では蝉の声が絶え間なく響いていた。リビングのテレビからは、アナウンサーの弾むような声と観客の歓声が流れ出している。画面には「東雲学園、甲子園出場決定!」の文字。ユニフォームを汗で濡らした球児たちが、互いに抱き合い、拳を突き上げて歓喜している姿が映し出された。


 その光景は、多くの家庭に希望や誇りをもたらすだろう。けれど真理子の胸に突き刺さったのは、誇らしさではなく、鋭い刃のような痛みだった。手にしていた茶碗をテーブルに置くと、指先がかすかに震えていた。視線は画面に釘付けになり、口元はかたく結ばれて開かない。頬にあたる冷房の風さえ、妙に冷たく感じた。


「……どうして、あの子だけが犠牲にならなきゃならないの」


 声にならない呟きが、喉の奥から洩れる。あの夜、拓真が泣きそうな顔で自分に打ち明けたこと。上級生から殴られ、蹴られ、屈辱を強いられた記憶。監督から浴びせられた「ルールを守れないお前が一番悪い。あいつらは俺からしたら優等生じゃけ」という冷たい言葉。すべてが脳裏に蘇り、胸の奥で渦を巻く。悔しさと怒りが入り混じり、血が逆流するような感覚に襲われた。


 テレビのアナウンサーは「名門・東雲学園、堂々の甲子園へ」と力強く声を張っていた。その言葉が耳に突き刺さり、真理子の心をさらに掻き乱す。華やかな映像が、息子の苦しみを塗り潰していくように見えた。拓真が眠れぬ夜を過ごし、笑顔を失い、やがて転校に追い込まれたあの日々が、なかったことにされている。


「誰も、あの子の痛みを知らないまま……このまま終わらせていいの?」


 胸の奥で問いかけながら、真理子は両手を膝の上で握りしめた。手のひらにはじっとりと汗が滲み、心臓は早鐘を打つように暴れていた。視界がにじみ、涙がこぼれそうになる。それは悲しみの涙であると同時に、母としての決意の兆しでもあった。学校も高野連も信用できない。だが、世間に知らせることならできる。沈黙すれば、また別の子どもが同じ地獄に落とされるだけだ。


 テレビ画面の中で、選手たちが甲子園の切符を掲げ、笑顔を弾けさせていた。その眩しい光景を見つめる真理子の瞳に、やがて強い光が宿る。迷いを振り切り、怒りと愛情がひとつに溶け合うような鋭い輝きだった。


「拓真……母さんが声を上げる。あなたのために、そして、もう二度と同じ犠牲を出さないために」


 リビングは、静寂に包まれていた。家全体が寝息に沈んでいるようで、時計の針の音さえやけに大きく響く。机の上に置かれたスマホの画面だけが淡い光を放ち、真理子の顔を照らしていた。


 彼女の指先は小刻みに震えていた。画面に浮かぶ文字をひとつひとつ打ち込みながら、胸の奥が締め付けられる。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が耳の奥で響く。


「今年1月、私の息子は東雲学園の硬式野球部で暴行を受けました……」


 文字を打つごとに、その時の光景が胸に甦る。息子が夜食を口にしたことをきっかけに、複数の上級生に囲まれ、殴る蹴るの暴行を受け、屈辱を強いられたこと。監督やコーチにまで「お前が悪いな」「二年生の対外試合がなくなってもいいのか」と恫喝されたこと。形だけの安全対策で、息子だけが孤立し、最後には転校を余儀なくされたこと。そして、野球という夢を理不尽に奪われたこと。


 打ち込む言葉は、母としての証言であり、訴えだった。


「誰かに読んでほしいわけじゃない。隠されたまま終わらせないために」


 心の中でそう繰り返し、真理子は送信ボタンに指を重ねた。深呼吸をひとつ。息を止め、震えを抑え込むようにして押し込む。


 “公開しました”


 画面に浮かぶ文字を見た瞬間、張り詰めていたものが弾けた。手が震え、視界がにじむ。隣室からは拓真の穏やかな寝息が聞こえてくる。その音が胸をさらに揺さぶった。


 スマホを握りしめたまま、真理子の頬を涙が伝った。


 「拓真……母さんが守るから」

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