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Episode03:香辛料、シビル・ウォー Chapter1-香辛料前哨戦 ― 胃袋における戦略的流動展開

休日の朝は、ふとした一言で“戦線”が動く。


曇り空。気温23度。少し湿り気を含んだ風が、半開きの窓から吹き込んでいた。

東雲家のリビングは、いつもよりわずかに空気がゆるやかだ。

ソファの背には圭人の寝間着が脱ぎ捨てられ、ローテーブルの上には読みかけの漫画。「山ごはん無双 ~野営スキルで現代を生きる~」というまさに圭人の“ちょっとズレた好み”にぴったりなタイトル。

そして空になったコーヒーマグ。

食卓の上には、焼き鮭、味噌汁、卵焼き、しらすおろし、炊きたてのごはん――完璧な“平時”。


「ねえ……ちょっと言ってもいい?」


圭人は白米をひと口飲み込み、首をすくめるようにして切り出した。


「うん。なに?」


和維は湯呑みを指先でくるりと回し、やわらかく首をかしげる。


「いや、美味しいんだよ? 毎日。和食好きだし、でもさ、たまに……前に作ってくれた、あの……シャバシャバしてるカレーっぽいやつ……なんかスープみたいなやつ、食べたくなって」


和維は一瞬だけ目を細めた後、ふわりと笑った。


「スパイスカレーのこと、ね」


「あ、それそれ! それだ!」


「ベーススパイスを段階的に加熱して、香気成分のピークをずらしながら抽出するタイプの非ルゥ系カレーよ。基本はホールのクミンとマスタードシードから入って、そこにフェヌグリーク、コリアンダー、アジョワン、カロンジ(=ニゲラ)、少量のヒング、ロングペッパー、マジョラム、ベイリーフを加えて。酸味補強にはアムチュールかタマリンド、香りのレイヤーとしてスターアニスとカスリメティを。必要に応じてブラックソルト、カルダモン、クローブ、ナツメグ、そしてシナモン・バークも使うかな」


「…………え、ちょっと待って。俺、途中からもう固有名詞として認識できてないんだけど……」


「ふふ、ごめんなさい。でも、どのスパイスを、どのタイミングで投入するかによって、香りの立ち上がりも、持続性も、方向性すら変わってくるの。だから、こういう組み立てを考えるのって、すごくわくわくするのよ」



和維は一口味噌汁をすすり、湯気越しに微笑んだ。


「最近ちょっと蒸し暑くなってきたしね。……こういう季節になると、辛いものが食べたくなるっていうか。身体が“そろそろスパイス入れとこっか”って言ってる感じ」


「えっ、ほんとに? やった!」


「でも……同じものを作るのも芸がないから、今回はちょっと構成を変えてみたいな」


「……なんか“作り直す”じゃなくて“再編成する”って感じの言い方するよね」


「そうね。料理って、素材を指揮してひとつの部隊を動かすようなものだから」



すでに和維の視線は、冷蔵庫の方向に向けられていた。


扉を開けて瓶や袋をひとつひとつ確認していくと、スパイス棚から小さなガラス瓶が次々と現れる。そのたびに瓶の口元に鼻を寄せ、香りの立ち上がりを静かに確かめる。


「カルダモンは……香気が飛んでる。スターアニスは前回で使い切ったわね。フェネグリークは残ってるけど、クミンは酸化気味。マスタードシードも数が微妙だし、カロンジは……もう風味が抜けてるかも。ロングペッパーも仕入れ直したい。ヒングも微量でいいから新しいロットが欲しいな」


「えっと、なんかもう、何が足りてて何が無いのかすらわからないレベルなんだけど……」


「スパイスってね、単体でも複雑なのに、組み合わせると味と香りの相互干渉が始まって、香気の位相が変化するの。温度と時間のズレも計算に入れると、まるで小隊を動かしてるみたいになるのよ」


「相変わらず難しいけど……なんか“組み立ててる感”はすごいある……」


「そう。こういうの考えるのって、本当に楽しいの」



「そういえば、今日はライスじゃなくて、ナンにしてみようかと思って」


「ナン!? インド料理屋さんに出てくる、あの巨大な……?」


「そう。あれって実は、フライパンでもわりと焼けるの。高温短時間焼成を模倣できれば、外側が香ばしくて中はもっちり。シャバシャバ系のスパイスカレーと相性がいいのよ。吸収効率も変わってくるし」


「吸収効率……?」


「ライスだと、辛味成分が咀嚼中に粘膜へ届きやすいの。でもナンなら、表面積が広くて咀嚼時間が短いから、刺激を受けにくい。つまり、戦闘継続力が上がるってこと」


「なんかまた物騒な例えになってきた……」



「出発は10時でいい? スパイス専門店まで徒歩で20分。往復40分、滞在時間30分くらいで見積もってる。帰宅後はすぐ仕込みに入れるように段取り組んでおくね」


「了解……って、なんか今日の感じ……やたら本格的というか……」


圭人は笑いながら、和維の表情をそっと見る。


「スパイスって言い出した瞬間から、なんかちょっと雰囲気変わったよね。

……和維、今日すごく気合い入ってるなって」


「え? ……そう見える?」


和維は、少しだけ照れたように笑って肩をすくめた。


「久しぶりに作るから、つい。ちゃんと組み直すなら、補給から丁寧にしたいなって思って」


「うん、うん……なるほど。なんかこう……軽い“遠足”かと思ったら、急に“現地調査”みたいな空気になってきた気がする」


「ふふ。安心して、楽しみでもあるから。……でも、その分ちゃんと準備もしたいの」


「じゃあ、えーっと……マスク持って、エコバッグ入れて、お財布もって……」


「うん、それで大丈夫。でも念のために、香りに酔わない集中力と、レジ前で慌てない冷静さもあると助かるかな」



圭人はちょっとだけ笑った。

和維のテンションが、会話のたびに少しずつ上がっていくのがわかる。

その様子が、なんだか嬉しい。


「よーし、今日はスパイス遠征だな」


「目的は補給、戦場はキッチン。だけど本当の戦いは――そのあと、ね」



午前10時。

東雲夫妻はスパイス専門店へ向けて、静かに出発した。


それはまだ、香辛料をめぐる前哨戦。

本当の“内戦”は、このあと――調理卓の上で始まる。



           スパイスドクトリン、発令。

      Status: Operation ongoing→Chapter2

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