Episode02:家庭菜園のカウンター・インサージェンシー :Chapter3-撤収と整備 (Withdrawal & Logistic Reset)
Episode1、Chapter1〜4を全面加筆修正しました。
16時30分。
陽が傾き始め、庭の影が長く伸びていた。
東雲和維は、作業の最終確認を行う。
支柱の固定、ネットのテンション、土壌水分──すべて許容範囲内。
ベビーリーフに虫害の兆候なし。カラスの侵入痕も認められない。
「外縁部、警戒解除。撤収フェイズに移行」
声には出さず、思考だけで手順をなぞる。
何度も繰り返したプロセス。PMC時代の撤収作業と、構造的には変わらない。
それどころか、いま扱うものの方が、実のところ繊細だ。
この小さな葉を守るために張ったネットは、銃弾を防ぐ装甲よりも脆く、
だがその脆さゆえに、慎重な判断力と調整が求められる。
任務の規模こそ違えど、意識の密度は同等だ。
手袋を脱ぎ、スコップを洗い、ツールを折りたたみコンテナへ順に格納。
それぞれの位置と角度が自然に決まるのは、道具が身体の延長として染みついている証拠だ。
武装はすべて捨てた。けれど、この精度だけは手放せない。
ホースを巻き取り、水栓を閉める。ネットは緩みなし。ツールボックス、乾燥良好。
「庭域、封鎖完了」
門扉をロックし、スニーカーを脱いでスリッパに履き替える。
足裏に触れるフローリングの温度が、土の感触とはまるで違う。
無機質で、均質で、だが奇妙に落ち着く家の匂い。
踏みしめるたびに鳴る柔らかな音。
銃声でも、無線の雑音でもない。
その静けさが、今は何より貴重だと思える。
台所へ帰還。
⸻
冷蔵庫を開ける。
昨晩処理した鶏むね肉が、密閉容器の中で静かに待っていた。
「残弾、確認。主菜再構築、可能」
梅肉、紫蘇、庭で収穫したサンチュ。小松菜としめじ、卵と白味噌。
今夜の戦闘食は、梅紫蘇巻き焼き鶏むね肉を軸に組み立てる。
包丁を手に取り、鶏肉をそぎ切り。
厚さ6ミリ──噛みやすさと火の通りの最適点。
梅肉を塗り、刻んだ紫蘇を乗せ、くるりと巻いて爪楊枝で固定。
フライパンを中火で加熱。白ごま油を少量、焦げ付き防止と風味付けに。
鶏肉を側面から並べ、焼き目を確認しながら火加減を調整。
「焦げ色、三割。火力、維持」
その横で、玉子焼き用の鍋を加熱。
溶き卵に白だしと三温糖、小松菜の芯を刻んで混入。
栄養補強と色味の変化を両立する、擬装された副菜。
キッチンに満ちていく出汁の香り。
昆布、干し椎茸、鰹節。
それぞれの旨味が静かに調和していく音が、彼女には聞こえるようだった。
今朝、目覚めと同時に水に浸した素材たち。
無言で、だが確実に、時間という熱を吸い、役割を果たす準備をしてきた。
かつての任務では、一瞬の判断が命を分けた。
だがここでは、待つこともまた一種の戦術だ。
味噌を溶かし、しめじと青菜を投入。
味は控えめ、だが香りは濃い。
最後に、収穫直後のサンチュを冷水にさらし、質感を再調整。
氷の浮かぶボウルの中で、葉がぱりっと身を引き締める音。
音すら、武器になる──そう信じていた過去を思い出す。
だが今、彼女が守るべきは命ではなく、食卓だった。
タイマーが点滅。
調理時間、約20分。基準値内。
⸻
盛り付けは、定型に従う。
ご飯:茶碗八分目、平坦に。
主菜:右上。副菜:左上。汁物:右下。サンチュ:別皿。
視覚的なバランスと食べやすさの動線を確保。
皿の配置ひとつにも、彼女は意味を込める。
食事とは補給であり、心理戦であり、そして最も密やかな“通信手段”なのだ。
土鍋の蓋を開けた瞬間、玄関の鍵が回る音。
1803時、予定通り。
「ただいまー……おお、いい匂い!」
圭人の声。音圧中程度、足取り軽め。
靴音の反響から判断して、疲労度は低。機嫌は良好。
和維はエプロンを外しながら、柔らかく言う。
「おかえりなさい。先にシャワー浴びてきて」
「はーい!」
命令口調にならないように。
それが、日常擬態プロトコルのひとつ。
浴室から水音が聞こえはじめる。
和維はサンチュの皿を持ち、ふと窓の外を見る。
庭は、すでに沈黙していた。
今日の敵はいない。
だが、明日もまた虫は来るだろう。カラスが網を破るかもしれない。
乾いた風が吹き、撒いた種を流すかもしれない。
小さな葉も、穏やかな食卓も、何もしなければ守れない。
和維は、静かに茶碗に白米をよそう。
すべては、"穏やかな日常"のために。
――そして、この任務は、夜間遮蔽線の維持をもって継続する。
補給とは、もっとも静かな反撃。
Status: Operation ongoing → Chapter4