Episode02:家庭菜園のカウンター・インサージェンシー Chapter1:陽動と接敵準備
――アラームは鳴らない。必要がないからだ。
東雲和維は、あまりに静かな動きで床から起き上がると、そのまま無音のステップでキッチンへと移動した。室内の空気は前夜から一切乱されておらず、窓の外で小さく風が揺れるだけ。初夏の気配が、薄く、しかし確実に植生を加速させている。
任務開始。
背筋を伸ばしたまま、冷蔵庫を開く。温度管理は良好。野菜室の小松菜とピーマンが昨日よりわずかに水分を放出していた。出汁パックは残弾十分。鶏むね肉も低温調理の下処理済みで待機状態。想定通り。
「本日も異常なし」
微かに独りごちて、和維は台所に立った。
菜園の作業を午後に予定している本日は、高カロリーではなく、持続力を重視した栄養構成にする必要がある。よって、主食は雑穀米入りの炊き立てご飯、副菜は菜園から収穫したラディッシュとミニトマト。主菜は塩麹に漬け込んだ鶏むね肉を軽くグリルし、野菜と共にプレートに盛る。
出汁は前夜のうちに引いておいた。香り高い一番出汁に、自家製の冷凍ストック味噌を溶かし、油揚げと小松菜を投入。温める間に、サラダには和風のすりごまドレッシングを選ぶ。
動きに無駄はない。鍛え抜かれた兵站技術と経験が、家庭の朝に完全擬態する。
やがて時計の針が、彼の起床予定時刻に近づいた。
「……ふぁあ……おはよう……」
タオルケットを半分被ったまま、圭人が寝室から顔を出す。まだ片目が眠っているような顔だが、においに誘導されていることは明白だ。視線はすぐに食卓へ吸い寄せられた。
「うわ、今日も朝から豪華すぎじゃない?」
「大したものじゃないよ。冷蔵庫の掃除を兼ねてるだけ」
「いや、鶏むねってこんなに柔らかくなる? これ……なんか魔法かかってる?」
「下処理してるからね。あとは火入れの問題」
「“火入れ”……? あっ、ごめん、意味わかってない。でもすごく美味しい」
その“意味わかってない”が、和維には心地よい。
圭人は、彼女の料理に何か“違和感”を覚えるときもあるが、それを言語化しようとはしない。素直に「うまい」と言って、あとは仕事へ向かう準備をする。それでいい。情報の遮蔽は成功している。
箸を置き、味噌汁を啜る彼の口元に、ほのかに笑みが浮かぶ。
「なんかさ……この味噌汁、ちゃんと味噌汁してるよな」
「それ以外の存在があるの?」
「いや、うちの実家のやつって、粉末で作ってるからさ。味噌汁風の液体というか……いや、美味しいんだよ、実家のも。けど、なんていうかこう、“出汁の意志”を感じるっていうか……」
「ふふ。うん、それは嬉しい」
圭人が洗面所へ向かうと、和維は食器の後片付けを開始する。いつもと変わらぬ、静かな、そして一瞬一瞬が研ぎ澄まされた朝。
それでも今日は、わずかに風向きが違う。
キッチンから窓の外に目を向ければ、陽光を受けた自宅裏の小さな庭が、まるで呼吸をしているかのように緑を膨らませていた。
そこは、戦場だ。
もともとこの家にはわずかながら畑スペースがあったが、本格的に運用し始めたのは和維が主婦となった“あと”の話。だがそれは、単なる趣味でも節約術でもない。
環境制圧。
自家供給網を形成するというのは、家庭戦術における大きな利点である。
何が植えられ、どのタイミングで収穫され、どの資源が不足し、どう敵(虫、病害、雑草)が侵入するか――すべてを“戦域”として管理することで、生活インフラそのものが高い防御力を持つようになる。
だから今日、彼女は“出る”。
草取り、整地、畝立て、小さな播種作業。それらはすべて接敵前の進軍だ。
「……ただの草むしり、では済まない」
言葉にするつもりはなかったのに、口を突いて出た独白。彼女の目に映るのは、朝露に濡れた葉の連なりでも、風に揺れるネットでもない。
あの戦地で見た、廃墟となった市街地の路地。遠くから迫る即席爆発装置(IED)の兆候。地雷原に似た小さな異変。
あの感覚と同じものが、ここの庭にも確かにある。
和維は一度、黙って拳を握った。ゆっくりと指を開く。
……違う。これは“あの頃”ではない。これは、戦争をしないための戦いだ。
リビングに戻れば、圭人が鞄を肩にかけて、玄関に立っていた。
「今日は畑?」
「うん。トマトの支柱が傾いてたから、倒れる前に直しておきたいの」
「支柱って、あれか。斜めに立てるやつ?」
「それは“合掌型”。でも今回は垂直支柱でいい。防鳥ネット張るから、上にもスペース作っておきたいし」
「……やっぱなんかプロいなあ」
「そんなことないよ。素人でも、本と動画で勉強すれば」
「俺が動画見ても“すげえな”って言って終わるだけなんだけどな……」
笑いながら靴を履く夫の姿を見送り、和維は小さく息を吐く。足音が遠ざかり、ドアの開閉音がして――“しばらく無音”が訪れる。
次の瞬間、和維の表情は切り替わる。
鏡のような無表情。かつて敵陣に潜入する直前の、それに近い。
換気窓を開け、手袋と帽子、UVカットのアウター、ゴーグル型のガーデンメガネ、膝を守るためのニーパッド。動きやすさと隠蔽性能を両立させた服装。音を立てないようスニーカーの紐を確認し、裏庭へのドアを開く。
任務、開始。
風上からのアプローチ。足元に注意しながら畝間を歩き、まず敵影(雑草と虫)を索敵。水やりは陽が高くなる前、最初に済ませておく。だが今日は――敵がいる。
プランターの隅に、侵入種のアブラムシが定着しかけていた。
「確認。局地戦、不可避」
殺虫剤は使わない主義だ。自然共生圏の維持が第一任務だからだ。
和維は指先にだけ薄手のニトリル手袋を重ね、静かに一匹ずつ除去を開始。これは、正確な手先の動きが求められる仕事。スコープなしのスナイピングに近い。
ミニトマトの茎の裏、バジルの新芽。陽の光に隠れる小さな侵入者たちを、確実に無力化していく。途中、蜂のような影が横を通るが、敵意はない。放置。
「午前の敵影掃討、完了」
確認していたエリアをすべて見終わると、次は支柱の補強だ。
既存のアルミ支柱に対して、園芸用ビニールタイで結束を再調整。和維の手元は、まるでCQB(近接戦闘)時の装備調整のように正確だった。
ロールの結束バンドを回しながら、彼女は頭の片隅で、予備補給路――つまり、台所の備蓄状況を確認していた。
午後はおそらく追加収穫がある。夕食に回せる材料は、ラディッシュ、ミニキャロット、小松菜……そして鶏むね肉がもう一枚。つまり、兵站は問題なし。
「夕方には小規模播種任務……やれるか?」
独り言のようで、戦況確認の声だった。
日常に埋もれた潜伏任務。誰にも見られない、誰にも知られない作業。
しかし彼女は、確実に“戦って”いた。
“敵”がいないからこそ、本物の戦場よりも疲労は大きい。
陽動は終わった。だがここからだ。
次の任務、接敵が始まる――。
Status: Operation ongoing→Chapter2