Episode01:非対称戦とお弁当 Chapter4-夜の遮蔽線-
玄関の開錠の音が、定時より三分早い。
圭人はいつも、数分単位で行動時間にムラがある。そこが、彼の“民間人らしさ”でもあるし、愛すべき部分でもある。
「ただいまー……あー、今日暑かった」
扉の隙間から、スーツのまま入ってくる夫の声。
「おかえりなさい。お疲れさまでした。アイスティー、ありますよ」
「おっ……神か」
靴を脱ぎながら、圭人がごそごそと足を振っている。たぶん靴下の端が脱げかけて気持ち悪いのだろう。
私は足音を立てずにキッチンに戻り、氷入りのグラスに紅茶を注ぐ。冷蔵庫の温度、製氷器の水質、グラスの冷え具合——すべてを計算済みだ。
「はい、これ。ミントちょっと浮かべてあります。リフレッシュにどうぞ」
「うわ、うま……カフェみたい……てかさ、この家帰ってくるたびに戦闘力上がってない?」
「戦闘力とは?」
「食生活が、って意味。あの弁当もやばかったし」
圭人はソファに倒れ込みながら、鞄を横に投げる。シャツを首元まで捲り、風を送りながら言った。
「あの卵焼き、だし入ってた? ふわっふわだったんだけど」
「はい。昆布と鰹節で一番だしを。冷ますときに巻きすで整えたので、食感が保てたと思います」
「そうなんだ……え、なんでそんなに料理に詳しいの?」
少しだけ身構える。表情は変えずに。
「家事は全部独学ですけど、海外での一人暮らしが長かったからですかね。レシピって、基礎を知ってれば応用ききますし」
「あー、なんか海外いたって言ってたっけ……? いや、そりゃそうか」
圭人はあっさり納得している。
ほんの数秒の間に、私は彼の疑問が本物かどうか、咄嗟の詮索かどうかを分析していた。
……杞憂だった。
この人は、優しいけれど詮索しない。
私がPMCにいたことなんて、考えもしない。
それでいい。
私は笑みを浮かべる。
「今夜は生姜焼きです。ニンニクは控えめ、脂は切っておきました」
「天才か……」
台所に戻り、手際よく夕飯の準備をする。
野菜を炒め、味噌汁を温め直し、米をよそい、盛りつける。
時間ぴったりに食卓が整う。これはもう訓練だ。
「いただきます」
ふたりで手を合わせ、箸を取る。
「うまっ……あー、疲れた体に染みる……」
「おかわりありますよ」
「あるんか! ありがてぇ!」
モリモリと食べる圭人を見ていると、私はほんの少し、任務中の感覚を思い出す。
“補給地点の確保完了”。
補給ができれば、生存率は飛躍的に上がる。
そして、敵の出現確率はこの家では“ゼロ”だ。
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夕食が終わると、圭人はシャワーを浴び、Tシャツと短パンに着替えてくる。
いつものルーティン。
ソファに座り、テレビをつけながら、ゲーム機の電源を入れる。
彼はゲームが好きだ。特に銃撃戦のあるシューティング系。
戦争ゲームではあるけれど、それが現実とあまりに乖離していることを、私はよく知っている。
「よーし、今日はストーリーモード進めるぞ……おお、グレネードあるじゃん。投げとこ」
画面の中で、キャラクターが壁の後ろにグレネードを投げ込む。
派手な爆発音。敵が吹き飛ぶ。圭人は「やった!」と笑う。
「……あの距離、炸裂遅延じゃ間に合いませんけどね」
「え、何?」
「いえ、グレネードって起爆にタイムラグがあるので。あの距離なら遮蔽に逃げられるかと」
「あ、そっか。そういう設定なのか……ん?」
ちがう。設定じゃない。現実の話だ。
でも、私は黙って微笑む。
「もうちょっと左にスモーク焚けば、進路が確保できると思います」
「なるほど? でも俺、スモーク使うと逆に混乱しちゃうんだよね〜」
かわいい。実に民間人らしい判断だ。
そう思っている自分が、なんだか可笑しくて、私は肩を揺らして笑ってしまう。
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夜は静かに更けていく。
圭人はゲームのセーブを終え、あくびをしながら立ち上がった。
「そろそろ寝るかー……お、先に歯磨きしていい?」
「どうぞ。タオル替えておきました」
「ありがとー。ほんと、完璧超人だよな、和維」
「そうでもないですよ。ただの主婦です」
洗面所に向かう夫の背中を見送りながら、私は心の中で“報告”する。
敵影なし。接敵なし。補給任務成功。日常維持継続中。
ふふ、と小さく笑う。
まだミッションは残っている。
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部屋が暗くなる。圭人の寝息が静かに聞こえはじめるのを確認してから、私はそっとベッドを抜け出した。
足音は無音。呼吸は深く。
廊下を通り抜け、リビングへ。
夜の点検は、もう“癖”だ。
ガス栓、電気、窓、玄関の施錠、ドアチェーン、カーテンの隙間から見える外の様子。
すべて確認。異常なし。静寂。
——接近経路ゼロ。監視対象なし。安全確認済。
手にしていたスマートフォンの画面を点ける。
メモアプリには、誰にも送らない「任務報告書」が記録されている。
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報告者:c/n Release(東雲 和維)
報告日:本日(標準時省略)
■ 作戦名:非対称戦環境下・弁当戦術投入任務(継続中)
■ 概況・戦況報告:
•朝哨戒完了。対象(東雲圭人)に外出前の食料支給成功。
本日の装備:ウインナー、ブロッコリー、卵焼き、おにぎり。
朝食時、味覚による索敵は及ばず。「うまい」の一言で情報遮蔽は突破されず。
•午後、家庭内補給路(台所)の物資調達実施。
補給対象:鶏むね肉、ひじき、乾物、味噌、減塩醤油、無塩出汁素材。戦闘食としての完成度を重視。
•夜間、対象帰還。入浴後に電子戦(家庭用ゲーム機)へ移行。
戦闘スタイルは索敵甘め、エイム甘々。遮蔽を軽視し敵弾を前面受領するも、敵情分析なし。
即時反応性は高く、根気と没入力に過剰戦力を割く傾向。
■ 戦術的観察:
•ゲームプレイにおける「待ち」の選択肢を捨てているため、現実戦闘なら即死案件。
•ただし、勝敗よりも「戦場で走る」こと自体に楽しみを見出す稀有な戦闘民族型。
平和圏でしか見られない個体特性。愛玩に値する。
■ 状況評価:
•家庭内異常兆候なし。
•対象による素性探知の動きもなく、過去情報の秘匿は完全。
•任務維持のため、弁当味覚戦術は引き続き有効。
■ 総括:
本任務は秘匿性を保持したまま、平常通りの行動フレーム内で完遂。
対象による索敵・懐疑行動は確認されず、カバーストーリー(主婦プロファイル)は依然有効。
潜伏状態を維持しつつ、日常擬態任務の継続が可能と判断。
——家庭は、いまのところ静穏。戦況、良好。
—次回任務予定:明朝0530—
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画面を閉じ、静かに息を吐く。
PMC時代、私たちは夜の闇を“危険域”と呼んでいた。
視認性が下がり、伏兵や即席爆発物の危険が跳ね上がる。最も警戒を要する時間帯。
でも今の私は、闇の中で安堵している。
私にとっての“戦場”はもう、銃声の鳴る国ではなく、調理器具が奏でる音と、日々の暮らしの中にある。
ミッションは変わった。武器も変わった。
だが、任務に挑む心構えは、きっと昔と変わらない。
私はソファに座り、もう一度、寝室の方向を見る。
任務終了、コードネーム《Release》。
解放、の意を持つそのコードネームを、私は今、ようやく自分のものとして引き受けられる気がする。
本日も平和な戦場を守り切った。
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静かな夜が訪れる。
ただの主婦として、元傭兵として、そして妻として。
明日も、同じように任務を遂行する。
たとえ、それが“ただのお弁当”でも。
——Episode1:Mission complete