Episode01:非対称戦とお弁当 Chapter3-ピンチハンガーは戦術装備-
ドアが閉まる音のあと、私は五秒だけ待ち、窓際へ移動する。
カーテンの隙間から外を一度だけ確認。通学途中の子どもたち、郵便配達のスクーター、駐車場でエンジンを吹かす会社員──特に異常はない。
静かな日本の朝に目立った脅威は存在しない。
それでも“確認”は外せない。これは習慣ではない。訓練と実戦を繰り返した結果、体に染み込んだ生存反射だ。
私はソファに腰を下ろし、深く息を吐いた。
「……ふう」
ようやく、肩の奥からじわじわと緊張が抜けていく。
弁当を詰め、味噌汁の出汁を引き、寝癖の夫を送り出す日々。そんな朝がくるなんて、かつての自分には想像もできなかった。
──いや、できていた。だから辞めたのだ。
思い出す。無線の向こうに響く、少年兵の断末魔。焦げた金属と焦土の匂い。救えなかった味方。日没後の砂漠の風。死の足音。誰かの涙。
でも一番強く残っているのは、憧れていた「日常」の温度だった。
「私、結婚したいんです」
そう言ってPMCを辞めたとき、部隊全員が絶句した。
誰も信じなかった。愛だの家庭だの、私がそんなものを選ぶはずがないと。
それを笑わなかったのは、副官だけだった。
「じゃあ、いい弁当作れるようになれよ。そっちの世界じゃ“食”が最強の装備になる」
──今もその言葉が、背中を押し続けている。
私は立ち上がり、キッチンへ戻る。
洗い終えた食器、整った調理台。ふと目に入ったまな板の端に、うっすらと走る傷。昨日、ミニトマトのカット時に刃の角度を誤った痕跡だ。
……ミス。
その一語に体がわずかに強張る。
たったそれだけの違和感に、生理的な警戒反応が走る。
戦場では、小さな判断ミスが即、死に繋がる。
けれど今の私は、PMCじゃない。傭兵でも護衛でも、掃討班でもない。
ただの、東雲和維という名の主婦だ。
私は洗濯機の方へ移動し、タイマー設定していた洗濯が終わっているのを確認する。
中を覗く。まだ湿っているタオルと下着類が山になっていた。
私はひとつ深呼吸し、ベランダに出る。
乾燥状態:天候晴れ、湿度55%、風速毎秒2メートル。乾燥時間の見積もり:90分前後。
かつて敵の移動時間を気象から逆算していた頭で、いまは洗濯物の乾燥効率を計算している。
滑稽だが、悪くない。
シャツをひとつ手に取り、ピンチハンガーにかける。
その動作が妙に手馴れているのは、スナイパーのギリースーツをたたむ動きとどこか似ているからだ。
ふと、隣家のベランダを見る。
斜め向かいの奥さんがこちらに気づいて手を振ってきた。
「おはようございます〜」
私は笑顔で小さく会釈しつつ、内心で自分の表情筋の動きをチェックする。
以前、微笑む訓練は表情制御の基礎として部隊内でも課されていた。
笑顔が引きつっていないか確認するクセが抜けない。
あの奥さんにとって、洗濯とは穏やかな家庭生活の一部であって、気象観測や乾燥予測ではないだろう。
きっと、ピンチハンガーの重心配置なんて気にもしていない。
それが正しい。正しいのだ。
だから私は、ずれている。
自分がこの社会の「正規編成」ではないことは、ずっとわかっている。
民間人として順当に育ってきた人たちとは、たぶん見えている地形が違う。
私にとっては家庭も任務であり、生活は戦術であり、朝食の塩分も戦況に応じた火力調整だ。
圭人はそのことに一切気づいていない。だから、安心していられる。
気づいてしまえば、この日常は瓦解する。
いや、私自身がそれを破壊してしまうかもしれない。
干し終えた洗濯物の列を見て、私は満足げに頷いた。
乾燥戦域、確保完了。次のフェーズに進む。
私はリビングへ戻り、今日の任務リストを確認する。
「午後は……補給作戦か」
スーパーでの買い出し。
今週の目標は、高タンパク・低脂質・カリウム調整型のメニュー構築。主軸は“ひじき”と“大豆製品”。
補助装備として小松菜とカボチャを投入予定。塩分は圭人の好みと摂取上限を見極め、わずかに甘味寄りへシフト。
こうした全体設計が、“満足感のある弁当”を成立させる。
特売チラシのデジタル版をチェック。
陳列棚の位置、店舗内の最短ルート、ピークタイムの回避経路を構築。
ついでに、先週は見かけなかった新製品の棚がどこに出るかも仮設計。
かつて作戦地図に敵の火点配置を描いていた私が、今はスーパーの導線をなぞっている。
おかしい。でも、笑える。そして、たぶんそれでいい。
PMCの元傭兵が、ピンチハンガーとエコバッグで家庭を守る日々──
これは戦争ではない。けれど、私にとってはやっぱり「任務」なのだ。
午後、補給線へ展開開始。
Status: Operation ongoing → Chapter4