Episode04:First mission Chapter4-着地地点(Landing Point)
最初に彼女を見たときのことを、よく覚えている。
どこか浮いているような、ずれているような──うまく口にできない空気を纏った女性。
講義中、姿勢ひとつ崩さず、静かに座っていたあの横顔。
しっかり前を向いているのに、どこも見ていないようで。
まるで、そこに“いない”ような。
凛としているのに寂しげな瞳は、自分の居場所を必死に探しているような、そんな不思議な印象だけが残った。
たぶん最初は、「なんだこの人?」だったと思う。
でも気づけば、彼女のことを何度も目で追っていた。
理由なんてなかった。ただ、気になった。
そういう人間は、少なくとも僕の周りにはいなかったから。
ある日の研修、講師から出欠確認を手伝ってくれと言われ、名簿のリストを見た時、初めて彼女の名前を知った。
──遊佐和維。読めない。
こんなことがない限り、自分の性格では彼女に話しかけることはできないだろうことはわかっていた。
だから勇気を振り絞って、彼女に近づいてみた。
なんとなく、彼女の気配が鋭くなったような気がしたのは気のせいだろうか。
そして、名前を間違えた後の彼女の訂正は、恐ろしく機械的な訂正だった。
「該当しません」──なんて、今まで言われたことないよ。
焦ってめちゃくちゃ謝った。焦りすぎてたのかは自分でもわからないけど、口から出た言葉は、
「名前、すごく綺麗ですね」
自分でも何を言ってるのかはわからなかった。
彼女の瞳は──たぶん、動揺? でも表情は崩れない。
思ったことをそのまま口に出してしまったことが、たまらなく恥ずかしかった。
何かあればいつでもどうぞ、なんて、講師でもないのに偉そうに言ってその場を離れた。
なんで気まずいんだろう。
その後の研修でも、度々彼女を見かけた。
相変わらずの空気感。彼女の周りの席はいつも空いていて、決まって後方の端の席。
──行かなきゃ、きっかけがない。
隣に座れたのはよかったが、緊張でペンは転がり、メモは逆。
何か話しかけたいのに、言葉が出ない。変な人だと思われてるだろうな、たぶん。
今日のプログラムに、名刺交換の講習があって──ようやく話しかけるきっかけができた。
彼女の所作は完璧で、スッと名刺が出てくる。
僕は、自作の名刺をカバンから取り出した。
作業時間約3時間の力作だ。名刺ケースを買い忘れていたことは今思い出したが、今更仕方ない。
いつもの無表情で名刺を受け取る彼女。
──無表情なのに、瞳が揺れていた。
彼女はほんの一瞬、何かを言いかけて、それから口元だけを動かした。
それが“笑顔”だったのかはわからない。でも、その仕草が妙に記憶に残った。
そして、そこから鬼のような表情になり、無表情に戻った。
──まずい、怒らせたか……。
大げさに凝ったロゴを描いたせいでちょっと恥ずかしかったけど、彼女は何も言わなかった。
そっけない反応のはずなのに、僕を見る瞳がころころ揺れていて、ずっと心に引っかかった。
彼女が初めて僕の名前を呼んだ時、不思議な気持ちになった。
誰も見ていない彼女が、誰かではなく“人”として初めて僕を見てくれたと思ったから。
「かずいです、わいではありません」
わざわざ読み方を教えてくれたのは、やっぱり名前を間違えたことを怒っているのか。
焦りと緊張の中、妙に観察されていそうな彼女の瞳から目を離せなかった。
少し怖かったけど、嬉しかった。
なぜなら、どこにもいない彼女のどこかを、少しだけ掴んだ気がしたから。
その後の研修も、自分なりには真面目に取り組んだつもりだ。
周りの人は僕を見て笑ってたけど。
彼女と話せたことで、少し舞い上がっていたのかもしれない。
また会えたら嬉しいです──
完全にやらかした。思いつきの言葉はすでに口から放たれている。
カリキュラム上の必須の講習は今日が最後だというのに。
気まずくなって、慌ててその場を後にする。返事を聞く前に。
──いや、そもそも今日初めて少しだけ話すことができた相手に何を言ってるんだろう。
予想通り、準備やら何やらでその後の講習に行くことはなかった。
必須ではない以上、他にやることがたくさんある今の自分には、時間が足りなかった。
もう少し話してみたい──そう思う気持ちはずっとあって、言ってしまった言葉を何度も後悔した。
むしろ、あの場で断られた方がよかった気もする。
でも……なぜだか彼女に会いたい。あの瞳を、もう一度見たい。
彼女のことをもう少し知ってみたい。
これは好奇心なのか、恋なのか。自分でもよくわからないが、思ってしまったものは仕方ない。
仕事の帰り道は、用もないのに講習会場のビルの前を通ってみたりもした。
駅とは少し離れているのに。
これは“散歩”であって、彼女を探しているのではない。──謎の自己解釈。
もちろん毎日ではないが、僕は“散歩”をするようになった。
彼女に会える保証はない。
そもそも会ったところで、気持ち悪いと思われたらどうしよう。
考えは堂々巡りだった。
あれから、もう一ヶ月が経とうとしていた頃。
その日は、夕方からの雨が土砂降りになり、激しく道路を叩いていた。
──そして、本当に偶然だった。
傘も差さず、濡れたまま歩く女性。
間違いない、彼女だ。なんでこんな日に……
その姿は、言葉にできないくらい痛々しくて、何かが張り詰めていた。
追いかけなきゃ。今行かないと、彼女は雨の中に消えてしまう。
なぜだかそう思った。そう思ったら、彼女に向かって脚を動かしていた。
そして、声をかけた。
「遊佐さん」と。
でも彼女は返事をしなかった。振り向きもしなかった。
それでも、僕は傘を差し出そうとした。
──その時だった。
視線が、一瞬だけ彼女の胸元に落ちた。
インクが滲んでいるように見えた。何かが、布の下で浮かび上がっていた。
それを見た僕を、彼女は睨みつけた。
怒りとも悲しみともつかない瞳で。
静かで鋭い言葉が、彼女の口から僕に向かって放たれた。
英語だとは思うけど、何を言ってるのか聞き取れなかった。
でも──怒っていた。
理由はわからなかったけれど、ただその怒りだけが突き刺さった。
「どこ……見てたんですか?」
言われて、気づく。
──ああ、そういうことか。
彼女のシャツは雨に濡れて、下着のラインは透けていた。
僕は、下心を見透かされたような気がした。
会いたかったのは本当だから。
でも、そういうつもりで胸元を見たわけじゃない。
なんとか訂正しようとするが、うまく言葉にならない。
そして、吐き出される拒絶の言葉。彼女が歩き出そうとする。
待ってくれ。誤解されたのは仕方ないが、このまま彼女が去っていくのを受け入れるわけにはいかなかった。
彼女が、どこにもいなくなってしまう。そんな気がして。
「和維さん」
僕は、彼女の名前を呼んだ。
僕と彼女の間にある唯一の接点。
どこも見ていない、どこにもいない彼女の、唯一の痕跡。
──今度は間違えずに、真っ直ぐに。
振り返った彼女は、真っ直ぐに僕を見ていた。
何かを振り絞るように、「なんで今更?」と。
よく意味はわからなかった。
彼女が僕に対して何を伝えたいのかはわからなかったけど、こうすることがいちばん彼女に届く──そんな気がした。
やっと話を聞いてくれそうだ。
急に名前を呼んだことが恥ずかしくなって、僕はオロオロした。
「……あの、その……シャツ、です……」
「は?」
「胸ポケットのとこ、なんか……インク? シミが……」
出てきたのは、なんと僕の手作りの名刺。
冗談だと思った。なんでそこにあったかなんて知らない。
ただ、このシチュエーションも、彼女に言われた言葉も、すべてがよくわからないけど──嬉しかった。
インクの滲みなんかで申し訳ないけど、彼女に目印を付けたんだから。
何かが解けたような、張り詰めていたものが緩んだような、そんな瞳で僕を見つめる彼女は、たぶん……笑っていた。
それは初めて見た笑顔だと思う。
「……あなたって、どうしてそんなに、まっすぐなの?」
またしても、彼女の言葉は難しい。
「名前……ちゃんと呼んでくれた。まっすぐ、迷わず」
彼女と出会ってから、初めて温度が乗った言葉。
少し戸惑った。けど、初めての生身の言葉。
「……はい。今日は、間違えませんでした」
僕は、彼女を捕まえた。
インクの滲みくらいの面積だけど、しっかりと掴んで。
彼女は濡れた髪をかき上げながら、
「このまま帰っても眠れそうに無いわ」
???
「……さっきの勘違いの、お詫び。もしよかったら、一杯だけ付き合ってくれない?」
そう言った彼女の声が、雨の音よりもずっと深く、胸に染みた。
その時ようやく、“会いたかった”という気持ちの輪郭がはっきりした。
──ただそれだけで、十分だった。
あの日の雨音が、今もときどき耳に残ることがある。
今、リビングの飾り棚の一角に飾られている"それ"。
インクが滲んで読めなくなった文字。
角の潰れた、謎の模様が描かれた名刺のような“何か”。
名刺を見つめながら、ふと思い出す。
あれから── もう4年が経った。
私は、名前を呼ばれて初めて自分の立ち位置を知った。
過去の自分とは決別しなければならないと、そう思い込んでいた。
でも、そうじゃなかった。
《Release》と呼ばれていた自分を消すことはできない。
あの人に出会って、私は過去の自分を受け入れた。受け入れて──本当の、遊佐和維になれた。
たった2年で東雲和維になるとは思っていなかったけど、それもまた自然な流れだった気がする。
あんなに必死になって探していた“日常の温度”っていうのは、思ったよりも近くにあったみたいだ。
急にこんなことを思い出したのは、今日の天気が土砂降りだからだろうか。
時計の針が18:00を過ぎようとしている。
そろそろ──鍵の音がするはずだ。
「ただいまー、雨すごいよ! 靴までぐちゃぐちゃだよ!」
──何故だか、楽しそうな彼の声。
私は、用意してあったタオルを持って玄関に向かう。
「靴下、脱いで入ってね」
「了解!」
「今日は久しぶりにお酒でも飲まない?」
「いいね! 先にシャワー浴びてくる!」
そう言って笑った圭人の笑顔は、あの日と何も変わらなかった。
── あの日、あの雨の続きは、今もここにある
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