Episode04:First mission Chapter3-識別信号(Identification Code)
午前の講習は、始まってすぐに違和感を覚えた。
テーマは「ビジネス文書の作成と報告の基本」。プレゼンの構成、社内報告書のテンプレート、メールの署名文——それらすべてが“常識”として語られていく中、私はただ一人、わずかなズレと戦っていた。
たとえば、報告書の文面。「早急に対応いたします」は柔らかく、「至急ご対応願います」は強めの表現——その“強さ”の違いが、即座には判別できない。
なぜなら、“命令”か“指示”かは、明確な階級と目的に基づくべきもの。語調ではなく、任務の緊急度で区別されるべきだという感覚が染みついていたからだ。
……そうした思考は、一般社会では通用しない。
(理解はしている。だが、順応が間に合わない)
そう感じる瞬間が、何度もあった。
隣の女性が質問をし、講師が笑顔で答える。周囲が軽く笑い、教室が和やかに包まれる。だが私は、何が面白いのか分からなかった。
模範回答を述べたつもりでも、講師の目がわずかに揺れる。“正しいけれど、空気を読んでいない”という反応なのだろう。
(……間違ってはいない。でも、正解でもない)
周囲とのわずかな“ノイズ”が、徐々に歯車を狂わせていく。
(順応しきれてない)
それは分かっていたつもりだった。けれど、こうもはっきり結果が出ると、思いのほか堪えた。
次の講義までの休憩時間、私はノートを広げたまま、配布資料の整理をしていた。紙の間に何かが挟まっているのに気づき、指で引き抜く。
一枚の手書きの紙。乱雑で、それでも妙に力のこもった文字列。視線を落とした瞬間、息が詰まった。
東雲圭人。
その名前が、そこにあった。少しだけ折れた角。薄い紙に黒ボールペンの筆跡。そして右上には、例の——ミサイルのようでいて、うまく形容しがたいロゴ。
あの日、名刺交換をしたきり、彼は講習に現れなかった。
内定者であれば、基本カリキュラムを終えた時点で以降の参加は任意になる。つまり、「来ない理由」はいくらでもある。
(当然の選択。何も、おかしくない)
そう思おうとした。なのに、“残念”だと感じる自分がどこかにいて、その感情に苛立ちすら覚えた。
「また会えたら嬉しいです」と言ったのは、彼なのに——。
思い出すだけで、喉の奥がむず痒くなる。笑ってはいけないと、感情を押し殺したあの瞬間。そして。
名前を“綺麗”だと言われた、あの妙な温度。
それを思い出したとき、不意に背後から声がかかった。
「……すみません、午後の講義のプリントって、どこに……?」
講習仲間の一人。顔も名前も、記憶に残っていない。
(……しまった)
軽く動揺しながら、和維は手にしていた名刺を咄嗟に胸ポケットへ押し込んだ。
「多分、配布資料の下に……」
声が震えないよう、意識して低く整える。名刺の存在を知られたくなかったわけではない。ただ、うまく隠したいという反射が働いた。それだけだった。
午後の講義は、最悪だった。
敬語の使い方も、顧客対応のロールプレイも、どこか噛み合わない。自分の言葉が、翻訳を通してようやく届くような感覚。
(……もう、限界)
講義が終わる頃には、頭痛がひどくなっていた。
誰とも言葉を交わさず、そのままビルを出る。陽は落ちかけていたが、まだ空は明るい。
(今日は……まだ帰りたくない)
気がつくと、自然に足がバーの方へ向かっていた。
外観は落ち着いた木目調。店内も静かで、カウンター中心の大人向けの空間。数人の男女が、それぞれ一人で静かにグラスを傾けている。
一人で飲むことには抵抗がなかった。PMC時代、任務の合間に酒を口にするのはよくあった。強くはないが、顔に出ることもない。
ラフロイグのシングルを一杯。そしてすぐに二杯目。
考えたくなかった。
うまく生きられないということ。民間社会に馴染めないということ。それを、認めたくなかった。
三杯目は、ブッカーズにしようか。そう思ったとき、背後から声がかかった。
「ねえ、一人? 珍しいね、女の子でこんなとこ来るの」
「どこかで会ったっけ? あ、いいじゃん、一杯奢るよ」
「ていうか、何かあった? なんでも聞くよ?」
うんざりする。何度断っても、彼らはしつこく言葉を重ねてくる。
無視してグラスを傾けると、ひとりが不躾に腕を掴んだ。
「……こんなとこで一人で飲んでるんだからさ、どうせ声かけられたくて来たんだろ?」
その瞬間だった。
⸻
「――Get your ×××ing hands off me, you worthless human trash.
(その手を今すぐ離せ、××野郎)」
⸻
和維の口から、低く鋭い声が漏れた。視線は一点を射抜き、声には一切の甘さがなかった。
⸻
「You think women are just waiting for pricks like you? You wanna lose that hand, dipsh××?
(女がこうして飲んでるのは、てめえみたいな××野郎に構ってもらうためだと思ってんの? その手、潰してやろうか?××が)」
⸻
一瞬、空気が凍りついた。
掴んでいた男の手首を、鋭く捻る。呻き声とともに体勢が崩れ、背後の椅子が倒れた音が響く。
「っ、いってぇ……!」
バーテンダーが慌てて止めに入った頃には、和維はすでに静かに椅子を離れていた。
「……お会計、お願いします」
短くそう告げ、黙って伝票を受け取る。グラスを残したまま、足早に出口へ向かった。
店を出た瞬間、雨のカーテンがすべての音を押し流した。
「……嘘でしょ、こんなベタな展開ある…?」
音がすべて、雨に吸い込まれていく。
街の喧騒も、車のエンジン音も、通りすがる誰かの足音さえも──
激しく叩きつける雨音に、まるごと押し流されていた。
冷たい水が髪から頬を伝い、シャツの襟元をじっとりと濡らす。
わずかに開いた胸元へ滑り込む風は、ただ冷たく、空虚だった。
(何やってんだろ、私……)
酒の熱も怒りも、とっくに消えていた。
残っていたのは、服の重みと、濡れた肌に張りつく冷たさだけ。
でも、それが妙に心地よく感じられた。
濡れるまま歩き続けたかった。誰にも見られたくなかった。
いっそ、このまま世界の輪郭からにじみ消えてしまえたなら、とすら思った。
「……遊佐さん!」
空気が裂けるような声が、背後から届いた。
その声に、足は止まらないまま、心だけが反応する。
思い出せる。記憶に残った、まっすぐな声。
(……まさか)
思考よりも早く、足音が近づいてきた。
アスファルトを濡らす靴音。早すぎず、でも確実に距離を詰めてくる。
和維の胸の奥が、ほんのわずかにざわついた。
そして肩のすぐ隣に、人の気配が並ぶ。
「遊佐さん、びしょ濡れですよ……傘……!」
振り返ったその声は、彼─東雲圭人だった。
その手が傘を差し出そうとした瞬間──
(……視線?)
彼の目線が、一瞬だけ、胸元へと落ちた。
濡れたシャツの生地が肌に張りついているのは、自分でも分かっていた。
下着のラインも浮いてしまっているだろう。
でも、その視線に――和維の中で何かが静かに崩れた。
それは、さっき酒場でねじ伏せた男の、ねぶるような視線を思い出させた。
(……八つ当たりだ)
そう理解しながらも、感情は抑えきれなかった。
彼だけは、違うと思っていた。
まっすぐで、不器用で、計算のない人間。
名前を間違えても真摯で、言葉を選ぼうとしてくれた人。
なのに、結局は同じだったのか。
──違う、そうじゃない。これは、彼への失望じゃない。
私自身への、勝手な期待に対する怒り。
濡れたシャツの下に浮き出たものを見たいと思う気持ちなんて、どの男にもあるのだ。
きっと、それが“民間”の常識。
私は、ひどく冷えた感情に呑み込まれていた。
⸻
「……You really wanna be slapped in front of your mama, huh?」
⸻
その声は、静かで鋭く、氷のようだった。
濡れた前髪の下で、和維の目が鋭く彼を射抜く。
「え……? ちょっ、あの……!」
彼はあからさまに戸惑い、傘を持った手が揺れる。
何を言われたのかは理解していないようだが、怒っていることだけは明確に伝わったはずだ。
「どこ…見てたんですか?」
声は低く抑えていたが、その奥に潜む怒りと失望は隠しきれなかった。
彼は、はっとしたように目を見開き、しどろもどろになりながら言う。
「い、いや……違うんです! そんなつもりじゃ……あの、シャツ……!」
「もういいです。期待してたわけじゃない。でも……」
和維は視線を逸らす。
「……失望しました。東雲さん。もう、二度と会うこともないでしょう。仮にすれ違っても……話すことはありません」
歩き出そうとした、その時だった。
⸻
「和維さん!」
その声が、すべてを止めた。
雨音に溶けず、まっすぐ届いた。
彼は、名前を呼んだ。まっすぐに、迷いなく。
あの時と同じように、“誰でもない誰か”ではなく、“和維”という名を。
足が止まる。
振り返ると、彼がいた。
誠実すぎる視線。濡れた髪の下から、じっとこちらを見ていた。
怯えてなどいない。戸惑いながらも、何かを必死に伝えようとしていた。
「……なんで、今さら……」
かすれた声がこぼれる。
彼は視線を逸らし、気まずそうに答える。
「……あの、その……シャツ、です……」
「は?」
「胸ポケットのとこ、なんか……インク? シミが……」
その言葉に、和維はようやく自分の胸元を見下ろした。
濡れた布地の下、くしゃくしゃになった紙が浮き上がっていた。
そっと指で引き出すと、それは昼休みにしまい込んだ、あの名刺だった。
にじんだミサイルのようなロゴ。消えかけた文字。
触れればすぐ崩れそうな紙片。
「……見てたの、それ?」
「はい、多分……なんなのかは分からなかったけど……にじんでたから」
胸の奥で、何かがふわりと解けた。
ずっと張り詰めていた弦が、音もなく緩んでいくような感覚だった。
そして――知らないうちに、笑っていた。
いつからか、和維の口元には小さな弧が浮かんでいた。
「……あなたって、どうしてそんなに、まっすぐなの?」
静かに、でもほんの少しだけ意地悪な響きを乗せて問いかける。
「え?」
彼は目を丸くし、困ったように眉を寄せてこちらを見返す。
「名前……ちゃんと呼んでくれた。まっすぐ、迷わず」
その言葉に、彼は小さく瞬きをした。
ほんのわずかに間を置き、少し照れたように、けれど真剣な顔で答える。
「……はい。今日は、間違えませんでした」
その返事が、どこかにじんと染みた。
質問の答えとしては、正直ずれている。でも、不思議と――これが一番、欲しかった言葉のような気がした。
ふたりのあいだに、雨の音だけが流れる。
和維は胸ポケットを指先でそっと押さえた。くしゃくしゃに濡れた名刺の存在が、しっとりとした熱とともにそこにあった。
あの時、「また会えたら嬉しいです」と言った彼の顔。
それを思い出しながら、ふっと小さく笑って、和維は前髪をかき上げた。
「……このまま帰っても、たぶん、眠れそうにないわ」
「え?」
彼はまたしても驚いた顔をする。
先ほどのような動揺ではなく、ただ真っすぐに向けられた好意を、どう受け止めればいいのか分からないという戸惑い。
けれど、その反応が――どこまでも、東雲圭人らしかった。
「……さっきの勘違いの、お詫び。もしよかったら、一杯だけ付き合ってくれない?」
そう言いながら、今度は真正面から彼の目を見た。
できるだけ自然に。できるだけ素直に。
彼は一瞬きょとんとしたのち、照れ隠しのように目を細めて、少しだけ頬を赤らめながら、ゆっくりと頷いた。
「……はい、喜んで」
その返事に、和維の胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
さっきまであれほど冷たかった雨が、どこか遠くに感じられた。
上を見上げると、雲の向こうから、街灯の光がぼんやりと滲んでいた。
雨はまだ完全には止んでいない。でも――少しだけ、弱くなっているような気がした。
「実はですね、先輩に言われて……名刺、書き直したんです!」
圭人はそう言って、照れたように笑った。
胸ポケットを軽く叩く仕草が、なんだか子どものようで、和維の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
滲んでしまった一枚の名刺。
それは壊したのだ。私の心の装甲ではなく――彼とのあいだにあった、目に見えない距離を。
「じゃあ、その新しい名刺……あとで、もらってもいいかしら?」
冗談めかしてそう言うと、圭人は一瞬きょとんとしたあと、頷いた。
「はい、もちろん!今度はちゃんと、ロゴも……グラデーション入ってます!」
そのやりとりに、和維はふっと息をこぼす。
少しだけ、世界がやわらかくなった気がした。
名前を呼ばれたときの“足が地についた”感覚――あのときより、今はもっと、確かに。
この場所に、私はいたい。
Status: Operation archived → Chapter4




