Episode04:First mission Chapter2-接触反応(Positive Contact)
都内某所、雑居ビルの貸しオフィス。講座は午前開始。
着席は早めに済ませた。最奥左手。退路と死角、双方を確保できる配置。
装備は濃紺ネイビーのパンツスーツ。
シルエットは細身。民間での威圧感を最小限に抑えつつ、動きやすさを保った裁断。
インナーは白、足元は音の立たないローヒール。背筋を崩さずに長時間座れる仕様。
視界内の配置を確認。
出入口は正面に二箇所、非常口一。カメラは中央正面に一基。死角はない。
室内のざわめきは常態。反応を要する異音なし。
今日の講座テーマは「社会人としての基本マナー」。
名刺交換、言葉遣い、電話応対――いずれも模擬訓練としては標準的。
ただし、私にとっては“順応演習”。民間空間での反応速度と自己抑制の再訓練だ。
08:58。開始二分前。
ドアの開閉音。視界の端に人影を捉える。
(……彼)
先日、名を間違え、誠実に謝罪してきた男。記録済み。
肩幅と重心、歩幅、表情――前回と同一個体と判定。
彼は私を視認すると、「あっ」という口の形を作り、やや間の抜けた笑顔で小さく頭を下げる。
そして――複数空席があるにもかかわらず、ためらいなく私の隣へ向かってきた。
「す、すみません……ここ、空いてます?」
「どうぞ」
返答に意味はない。感情もない。
周囲に余計な注目を集めないための反射動作。敵対でも友好でもない。
彼は慌てて鞄を置き、手元に資料とペンを並べる。
その一連の動作が、どこかギクシャクしていた。
ペンが転がりかけ、あわててキャップを外しかけてまた閉める。
紙の向きを間違え、裏面にメモを取りかけて気づいて直す。
(……全般的に不器用。だが悪意なし)
隣から、こちらをちらちらと見てくる視線。
話しかけるでもなく、かといって距離を取るわけでもない。
開始時刻。
講師が前に出て簡単な自己紹介と研修の趣旨を述べる。
私は資料を確認しながら、彼の挙動を側面視野で追跡する。
自己紹介に続いて、今日のカリキュラム説明。
「社会人としての名刺の渡し方」「正しい敬語の使い方」「電話応対での声のトーンとテンプレート」
……すべて、民間で“ごく普通”とされる事項。
その“普通”の基準が、かつての私にはなかった。
目を伏せず、顔を強張らせず、感情をこめすぎず――“敵意を持たない意思表示”としての笑顔。
それがいかに難易度の高い任務であるか、今になってようやく痛感している。
午前中の講義は淡々と進み、いよいよ名刺交換の演習へ。
「では、近くの方とペアを組んで実際に名刺交換をしてみましょう!」
講師の声に合わせて、室内に軽いざわつきが生まれる。
私はカバンから灰色のカードケースを取り出した。
そこに収まっているのは「ブルーシード・リンクス株式会社」の名刺。
役職は「事務管理補佐」――これが私の“偽装名刺”だ。
電話番号も担当部署もすべて偽装済みで、個人の情報は漏れないよう細心の注意が払われている。
隣を見ると、彼も名刺を出した。
しかし……名刺入れがない。
彼は輪ゴムで留めた手書きの名刺束を差し出した。
「まだ会社から正式なのが届いてなくて……とりあえず手書きでいいって言われたので……あの、これ、よかったら……」
私は無言でそれを受け取った。
手触りは、市販の名刺用紙よりも薄くて柔らかい。
印字ではなく、黒のボールペンで一文字ずつ書かれている。
名前と社名、それに肩書きの「内定者」まで、丁寧に――けれど、まるで学生の板書のような筆跡で並んでいた。
東雲 圭人
その下に、丁寧にふりがな付き。
“読まれにくい”ことを自覚しての対処だと読み取れる。
目に留まったのは、その右上に描かれた、謎の………ロゴ?
思考が一瞬止まる。
(……これは……ロゴ…なのか?…?)
おそらく――本人なりに「会社のロゴを再現しようとした」結果なのだろう。
それにしたって、出来栄えはひどい。
企業ロゴというより、理科の授業中に描いた“かっこいいミサイルの落書き”に近い。
図形の体裁を保っているとは言い難い。
三角、波線、楕円、それらを囲むように描かれたギザギザの稲妻のようなライン。
色味も黒一色、全体に微妙な歪みとズレ。余白のバランスもひどい。
いや、“全体的にバランスという概念が迷子になっている”という表現が正しい。
(……どこからツッコめばいい?)
いや、そうじゃない。
私はツッコむ立場ではない。今の私は“ただの訓練生”で、“順応訓練中の一般人”だ。
笑ってもいけないし、冷たく切り捨ててもいけない。
けれど――
この状況は“任務”として対処するには、あまりに強すぎた。
まさかの手書きロゴ。
喉の奥がかすかに揺れた。息を吐くタイミングが狂う。
胸の奥で小さな痙攣のような衝動が広がっていく。
目の端が熱を帯び、視界がほんのわずかに霞んだ。
笑いの前兆とは思いたくない、これは“精神的打撃”に近いものだ。
(……APFSDSかよ)
APFSDS - 装弾筒付翼安定徹甲弾。
戦車の装甲を真正面から貫き、内部を破壊する一点突破型の徹甲弾。
まさかこのタイミング、この場面で、受けるとは思っていなかった。
“無表情”という装甲を、いともたやすく貫通しそうになった。
いや、ひびは入った。しかも致命的に。
笑いは出ていない。だが、内面では明らかに、爆発的な熱量が暴れている。
「……ありがとうございます。頂戴しま…す」
心のどこかで、これは“ただの紙切れ”だと繰り返す。
戦闘ではない、敵対ではない、これは――日常だ、と。
声が震える。
手元の名刺の角を整えながら、全神経を“感情の封印”に集中させる。
そこへ。
「……あの、やっぱり、変ですよね?」
小声で、でも真剣なトーンで、彼が口を開いた。
「頑張ってそれっぽく描いたんですけど、色が足りないのかなって……」
(違う…そこじゃない……)
「本物は青と銀のグラデーションだったと思うんですけど、家にペンが黒しかなくて……」
「あと角度も斜めにしてみたんですけど、それが逆に読みづらいのかなって……」
(……やめろ、やめてくれ……)
私の中で、もう声にならない悲鳴が上がっていた。
“おかしい”と言っているのではない。
“本気で、誠実に、自分なりの正解を模索した”その痕跡が、ありありと名刺から溢れ出しているのだ。
それが致命的だった。
私は笑うつもりなど一切なかった。油断もしていなかった。
けれど、これは“攻撃”だった。
想定外の角度から放たれた、純粋すぎる善意の徹甲弾。
演習中に実弾を撃ち込まれたような感覚に襲われていた。
(頼む。これ以上は……今、笑ったら立て直せない)
表情が崩れそうになる。
口元の筋肉が、無意識にわずかに動く。
頬の内側が微かに震え、目の奥に押し寄せる圧迫感を必死に飲み込む。
顎を引き、視線を名刺に落とす。
絶対に彼の顔を見てはいけない。見たら、崩壊してしまうから。
それでも、そうして必死に表情を制御している私の横で、彼はちらりと私の顔を覗き込んだ。
そして、わずかな沈黙の後。
「あっ、あの、怒ってませんよね!? 変でしたか!? 俺、変でした?」
彼の声は小さく震え、怯えを含んでいる。
私の無表情の崩れかけを“怒り”や“不快”と誤解したのだろう。
彼はさらに小声で言葉を重ねる。
「その……気持ち悪いとか、思われてないといいんですけど……」
(違う。違うんだ、それは)
私は呼吸を整え、顔の筋肉を引き締め直す。
ゆっくりと視線を彼に向け、絞り出すように一言だけ答えた。
「……“誠意”は、伝わりました」
ようやくの一言。
そして私は――戦場では味わったことのない、ある種の“敗北”を静かに受け入れたのだった。
私は、再度装甲を纏い、受け取った名刺を確認する。
「“しののめ”様……ですね」
「あ、はい、“東の空が明ける”って意味で……。あと、“けいと”は普通の“けいと”です。糸の……毛糸じゃないですけど」
やや混乱した説明。焦りが挙動に現れている。
「私は、“かずい”です。“わい”ではありません」
「あっ、はい! 本当にすみません……読み方難しくて…ごめんなさい……」
頭を下げたまま、何かを呟いている。
けれど、視線だけはぶれず、きちんとこちらを見ている。
(……演技でない。完全に“本気の焦り”)
言葉の順序がずれていても、表情は嘘をつけない。
目線は一度も下に逸れない。
胸元、脚線、どこにも視線が落ちてこなかった。
講師が各組を回りながら、「いいですね、その調子です」と一声。
その間、圭人は一人で名刺交換の動作を確認し続けていた。
「名刺……受け取ってから、渡すんですよね。あれ? 渡してからだったか……」
ぼそぼそと自己修正し続けるその姿は――
(滑稽ではない。……ただ、奇妙に誠実だ)
⸻
研修は、その後も粛々と進行していった。
電話応対のロールプレイ、ビジネス用語の反復練習――どれも形式的で、定型的。
それでも彼は、一つひとつに真剣に取り組んでいた。
滑舌は不安定で、受け答えにはたびたび詰まりが見られたが、
そのすべてにおいて手を抜く気配はなかった。
だからこそ――
いつの間にか私は、その動きを無意識に目で追っていた。
戦場であれ、社会であれ。
誠実に動く者の軌跡には、必ず“痕”が残る。
それを拾ってしまうのは、私の職業的な癖なのか。それとも――
気づけば私は、彼を「警戒対象」から「行動観察対象」へと、静かに再分類していた。
それが、何かの始まりだった――そう思えるようになるのは、もう少し先の話だ。
⸻
講義終了後、彼は改めて頭を下げて私に言った。
「あの、今日はありがとうございました。また会えたら嬉しいです!」
背筋は真っ直ぐとは言い難いが、その足取りは迷いなく真剣だった。
私は無言で彼を見送りながら、内心で思った。
(……あのロゴの破壊力は、忘れられないかもしれない)
名刺は、資料ファイルの最前面に差し込んだまま。
角の丸い、APFSDS弾ロゴ付きの唯一無二の名刺。
たぶん――こんな名刺をもらうのは、これが最初で最後だろう。
この男は……敵ではない。
だが、味方と定義するには早すぎる。
けれど、確実に――
私は、この人物を“記録”している自分に気づいていた。
Status: Operation archived → Chapter3




