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Episode04:First mission Chapter1-認識不能(Unidentified)

 これは、彼と出会った最初の“記憶”。

そして私にとって――最初の“ミッションの記録”だ。


地域合同職業説明会。

再就職支援の一環として案内され、参加を“義務”として課された催しだった。


元の職業を正式に明かせるはずもない。

履歴書の経歴は偽装、面接で語られる言葉は訓練通り。

民間における職歴も、学歴も、通用しない世界で培われた戦闘技術――それは“経験”としてではなく、“過去”として黙殺される。


それでも、私はここに幾度か足を運んでいる。


ひとつには、割り切るため。

もうひとつには――“次”を手に入れるため。


この再就職支援講座は、「ブルーシードリンクス株式会社」が運営に関与している。

表向きは人材再配置を専門とする民間企業だが、その実態は、軍事請負との協働実績を持つ支援組織。

民間への転身を余儀なくされた元関係者たちに、武器を置いた新しい生活を提供する“橋渡し”を行っている。


私はそこに“登録”され、“順応訓練中の一般人”として社会復帰の準備を進めていた。

戦闘不能者に与えられる撤収プログラム――その延長線上に、この会場も存在している。


この場所も、その会社の関連施設の一つだ。

都内某所。閑静なビルの一室を会場とした小規模な研修空間。


身に着けているのは、グレーのストライプ入りパンツスーツ。民間的な装いとしては“正解”なのだろう。だが私にとってこれは戦場で使っていた装備とは別物だった。


シャツの布地は薄く、ジャケットの肩は柔らかい。ベルトには何も吊っていないし、足元のヒールは不安定だ。

(……これで、本当に対応できるのか?)

そんなふうに思っていた初日を思い出す。


だが――


その“軽装でいることへの不安”にも、いつの間にか慣れ始めていた。


それが“順応”なのか、“油断”なのかは、自分でも分からない。

ただ、どれだけ順応しているつもりでも、全方位の警戒線はいつも通りに引かれていた。

慣れようが気を抜こうが、それだけは勝手に維持される。


空調の風は強すぎもせず、弱すぎもせず。会議室のような、冷たく無機質な白い蛍光灯が上から照らしている。

机と椅子は学校の備品のように安価な造りで、軋むたびに金属の擦れる音がした。

足音、紙のめくれる音、控えめな話し声――

無数の音の中から、私はいつものように“異常”だけを拾う。


後方は壁。左右の視界は確保。非常口の所在は視界の中。

出入りの導線上には障害物が少ない。職員らしき人物の数、参加者の密度、トイレと事務所の位置も把握済み。


(ここは戦場ではない。けれど、ゼロではない)


その思考が浮かぶ時点で、私はまだ任務から降りられていない。

けれど、それでも。

今日だけは――何かが少し違っていた。


前方の左列。黒髪の男がちらりとこちらを見た。

警戒の角度ではない。確認の視線、あるいは……


(接触か)


呼吸が浅くなる。今日はもう三人、声をかけられた。

誰もが似た言葉を選ぶ。最初に「こんにちは」と笑い、それから「お名前、珍しいですね」。それだけなら無害。だが、そのあとの視線や質問には、必ず“釣り糸”が垂れていた。


見返りを求めてくる男の視線は、共通している。

胸、脚、唇――“私”のどこかに報酬を求めていた。


今日も同じかと思った瞬間、不意に声が降ってきた。


「えっと、遊佐……ゆざ、さん? ……かず……え? わい? なんて読むんだ、これ……」


声。距離2.5m。正面やや左。

反射で重心が下がり、左足が退避線を描く。


不意の接触。識別不能。

内容は――“名前の読み間違い”。


緊張をほぐすふりをした“すり寄り”か?

――否。違う。目線が違う。


視線は正面に固定されていた。

胸でも、髪でも、首筋でもない。

“瞳”だけを見ていた。


彼の声は、“正面から入ってきた”。

押し付けでもなく、媚びでもない。どこか焦りと困惑が混じった、妙に素直な響きだった。


参加者リストを持った男が、首をかしげて私の名前を眉間にしわを寄せ、どうにも読み方に詰まっている。


その様子が、あまりにも不用意で、判断が一瞬遅れた。


(演技にしては間の取り方が雑。……練度がない)


男の指はリストの角をぎゅっと押さえたまま動かない。肩が落ち着かず、声の出し方が不安定。無害――あるいは、分類不能。私の警戒は、逆に強まった。


「訂正します。“遊佐(ゆさ) 和維(かずい)”。それ以外は該当しません」


私は名札に視線を落としたまま、淡々と訂正を入れた。

顔を見ない。正面から表情を見れば、判断が狂うことがある。それは経験からくる自己防衛だ。

男はビクッと肩を跳ねさせた。そして、予想よりずっと早く、深く頭を下げてきた。


「わっ、ごめんなさい……めっちゃ間違えましたね……。えっと、出席だけ確認です! あの、その机で合ってます。すみません」


黒のポロシャツにベージュのチノパン。靴はスニーカー。身長は平均的、姿勢は悪くないが軍事的な訓練の痕跡はない。髪は無造作に整えてあるが、手入れが行き届いているわけではない。どこにでもいる、普通の青年。

首から下げた名札が逆向きで名前が見えない。

“武装なし、戦意なし、予備動作もなし”。


早口だったが、悪意はなかった。

その口調には相手を言い負かそうとする鋭さも、場を取り繕う誤魔化しもなかった。

ただ焦って、ただ困って、どうすればいいか分からないまま声を出している。

そういう種類の言葉だった。


私の目を、真正面から見ている。

視線はぶれず、逸らさず、しかし睨むでもなく。

何かを値踏みするような目ではなかった。


(……演技じゃない。これは本気の焦り)


そう断定できる要素が、いくつも揃っていた。身体の動きが、言葉に追いついていない。

会釈の角度は深すぎて、バランスを崩しかけている。

慣れていればまず出ないような謝罪の速度と声の高さ――

不器用で、段取りも悪い。だがそれは、「礼儀を失した」と自覚している者の動きだった。


言葉の焦点も少しずれていた。

私の名を読み間違えたこと以上に、「それによって相手に不快な思いをさせてしまった」ことのほうに、明らかに気を取られている。


(言い訳も、虚勢もない。……反応が、真っすぐすぎる)


これほど隙だらけで、これほど真っすぐな人間は現場にはいなかった。


「名前、すごく綺麗ですね。初めて見ました。和……“和維”って、“やわらぐ”と“つなぐ”……ですよね? ちょっと珍しいけど字面がシャープっていうか……」


突如として言われたその言葉に、私はなぜか返答できなかった。

賛辞でも誘導でもない。ただ、思いついたことを口にした――そんな声音だった。


(……今の…なんだ?)


目線は正面で止まっていた。胸でも、脚でも、髪でもなく。


分類ができなかった。

視線に下心はない。動きも警戒させるものがない。会話の軌道にも、見返りの兆候がない。


この男は、“女”として私を見ていない。

だが、“人”として名前に反応している。それが、私には解せなかった。


言葉の裏が読めないことは、私にとって一種の恐怖だ。

敵意も下心もない。だが、“無垢”というのは分類不能で、それゆえにもっとも扱いに困る。


(……意味が分からない)


なぜ、そういうことを口にする?

なぜ、意味も利害もない言葉を人に向けられる?


「では、失礼します! なにかあれば、いつでもどうぞ!」


男はそう言って一礼し、足早に立ち去った。

小走りのような動き。背筋は少し丸まり、歩幅は狭い。肩が内に入っている。振り返らない。

呼吸が浅い。緊張状態。だがそれは、敵意によるものではない。


(どうして、こんなに引っ掛かる…?)


名前を読み間違えられたのは初めてじゃない。

けれど、あの不可思議な空白、焦り、言葉の選び方。


困惑、という感情が、私の中に残った。

それはこの三週間で初めてのことだった。


男が言った「綺麗ですね」という言葉だけが、なぜかやけに、耳に残っていた。


私に話しかけてきた男の中で、最も分類できなかった接触者。


その不明瞭な境界線のせいで、彼の残像だけが、頭から消えてくれない。


……だが、それだけではなかった。


私はいま、自分の名が呼ばれたとき、ほんのわずかに“足が地についた”ような感覚を覚えていた。


そう――

これは最初の記憶。

そして、最初のミッションの記録。


彼の名前は、まだ知らない。

けれどこの日、この瞬間が、私にとって"日常に踏み出す第一歩”だったことだけは、忘れようがなかった。


Status: Mission initiation record→Chapter2

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