表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/20

Episode03:香辛料、シビル・ウォー Chapter3-内戦の火種はフライパンの中に

 キッチンの照明が、作戦区域をまんべんなく照らす。


 東雲家の調理卓は今、前線だった。

切り分けられた玉ねぎ、炒め用のスパイス、ぬるくなった水の入ったボウル、そして――なぜかピンと張りつめた空気。

圭人は、まるで偵察任務直前の新兵のように緊張していた。


「じゃあ、私がベーススパイスをテンパリングするから、その間に圭人は玉ねぎの炒め担当ね。きつね色になるまで、強火と中火の切り替えで調整して」


「よ、了解!」


言われた通り、フライパンにサラダ油を入れて火をつけた。

だが、玉ねぎの投入があまりに勢いよく、油が「ジュッ!」と音を立てて跳ねる。


「うおっ……っつ!」


「火力調整! 跳ねた油は前線の砲火と同じよ、まずは戦場に慣れて!」


「え、なに!? それどんな比喩!? てか熱っ!」


和維はすでに、別のフライパンでスパイスを加熱中だった。

クミン、マスタードシード、アジョワン、フェヌグリーク――

その手さばきは一切の無駄がなく、まるで精密射撃のよう。

油の中で弾ける粒子が、小さな炸裂音を奏でるたび、キッチン全体に香りという名の煙幕が広がっていく。


その対照的な動きの隣で、圭人は――


「あれ? なんかもう色ついてない? ……いや、これ焦げ?」


「まだ“発汗段階”よ。そこから“メイラード反応”に入って初めて本来の香ばしさが出るの。焦げる前に見極めて、何度も混ぜて。敵の進行を食い止めるイメージで」


「いやもう食い止めるどころか囲まれちゃってるけどっ!」


火加減、混ぜ具合、油の跳ね返り。

あらゆる要素が圭人を包囲していく。

彼にとって、これはすでに市街地戦に等しい。


さらに和維が「次、スパイス混合いくわよ」と告げて、棚から瓶を並べると、圭人の表情は確実に引きつった。


「ちょっと待って、さっきと違うやつがある!」


「うん、今日は新しい配合だから。ビンダルー寄りで、カシア(シナモン)とカルダモンを強めにするつもり」


「それはつまり……なにをすればいいの!? なんか赤いのあるよ!? ホットっぽい色してるよ!?」


「それ、カシミールチリ。発色用だけど、うっかり多めに入れるとマジで死ねるから、ちょっとした化学兵器並みだから慎重にね」


「……今の説明、怖すぎじゃない!?」


だがその直後、事故は起きた。


――ドサッ。


「あ」


「……圭人、今なに入れた?」


「えっと……この赤いの……たぶん、少し……」


「“少し”って、どれくらい?」


「……小さじ、山盛り、2……?」


沈黙。


和維は一度だけ深く息を吸い、すぐにプランを切り替えた。


「よし。ならもう、唐辛子強化型にプラン変更する」


「変更するの!? 無理じゃなくて!? なんでそんな冷静なの!?」


「この手の事故は想定内よ。辛味を包むために、トマトとヨーグルトの比率を上げて吸収させる。あと、酸味でバランスを取る」


「俺が爆弾落としたみたいになってない!?」


スパイスと酸味の化学反応により、空間に充満する香りは一段と濃くなる。

一歩間違えれば致死量――そんな錯覚すらある空気の中で、圭人は涙目でヘラを振る。


そして再び混乱が訪れる。

具材の投入タイミング、火の加減、水分の量。すべてが一拍ずつズレ、指示と動作の間に隙が生まれ、その隙から混沌がなだれ込む。


まさに「家庭内戦闘」。

さながら局地戦。

投入されたスパイスたちが、あちこちで局地戦を起こし、熱と香りの煙幕でフライパンの中の視認性は限界を迎えていた。


そんななか、もうひとつの火点が立ち上がる。

ナン――小麦粉にヨーグルトを混ぜて練り、寝かせ、伸ばして、予熱済みの鉄フライパンへ。


「ナンの方、いける?」


「うん。いま、初弾投入」


和維が生地を手早く伸ばし、フライパンに打ちつけるように貼りつける。

強火のまま、蓋をせずに一気に焼きつけると、生地の表面がぷくりと持ち上がっていく。


「焦げ目、あと十秒……はい、今、反転」


ぱん、と音を立てて裏返すと、こんがり焼けた焼き目が現れた。

フライ返しで軽く押しつけながら加熱し、焼き上がりと同時にバターを塗る。


「吸収効率、良好。香りのレイヤーも出てる」


「な、なんかナンだけめちゃくちゃうまくいってる……!」


「高温短時間焼成に特化した装備と戦術のおかげね」


「なんかもう、その言い方のせいでナンが兵器に思えてきた……」


「うん、たぶんそれで合ってるわ」


和維がナンを手際よくカットし、試食皿の横に添える。

そして、ふっと息を吐いた。


「……完成、かな」


和維が火を止め、ふうっと小さく息をつく。


試食用に小皿に取り分けられたカレー。

圭人がスプーンを手に取り、一口。


「……ん? おっ……」


噛む。飲み込む。数秒、静寂。


「……あれ? なんか、ちょっと甘い……?」


「最初はね」


「うん、美味い、ちゃんと……ん? ん? ……え、あれ?」


その時だった。


「……あっつ!? なんか、来た! 舌の奥から! やばいやばいやばっ!!」


「まるでゲリラ戦ね。表に出ず、一定時間後に急襲するタイプ」


「いやいやいや、辛っ! 辛いって! 美味いけど、辛い! 辛いけど、美味い……いや、辛っ!!」


「持久力勝負よ。あと一分は継続してくると思う」


「これ、継続すんの!? どこまで執念深いのこのスパイス!?」


圭人はその場でうずくまり、スプーンを手に悶絶する。


――作戦名:スパイス・ドクトリン。


戦果:夫婦の共同調理における、史上最大の混沌。


だが、フライパンと鉄板の上には、確かな“任務完了”の痕跡、そして舌の上には熱い火種…。



       失敗も、美味しいスパイスのひとつ。

      Status: Operation ongoing→Chapter4

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ