Episode03:香辛料、シビル・ウォー Chapter3-内戦の火種はフライパンの中に
キッチンの照明が、作戦区域をまんべんなく照らす。
東雲家の調理卓は今、前線だった。
切り分けられた玉ねぎ、炒め用のスパイス、ぬるくなった水の入ったボウル、そして――なぜかピンと張りつめた空気。
圭人は、まるで偵察任務直前の新兵のように緊張していた。
「じゃあ、私がベーススパイスをテンパリングするから、その間に圭人は玉ねぎの炒め担当ね。きつね色になるまで、強火と中火の切り替えで調整して」
「よ、了解!」
言われた通り、フライパンにサラダ油を入れて火をつけた。
だが、玉ねぎの投入があまりに勢いよく、油が「ジュッ!」と音を立てて跳ねる。
「うおっ……っつ!」
「火力調整! 跳ねた油は前線の砲火と同じよ、まずは戦場に慣れて!」
「え、なに!? それどんな比喩!? てか熱っ!」
和維はすでに、別のフライパンでスパイスを加熱中だった。
クミン、マスタードシード、アジョワン、フェヌグリーク――
その手さばきは一切の無駄がなく、まるで精密射撃のよう。
油の中で弾ける粒子が、小さな炸裂音を奏でるたび、キッチン全体に香りという名の煙幕が広がっていく。
その対照的な動きの隣で、圭人は――
「あれ? なんかもう色ついてない? ……いや、これ焦げ?」
「まだ“発汗段階”よ。そこから“メイラード反応”に入って初めて本来の香ばしさが出るの。焦げる前に見極めて、何度も混ぜて。敵の進行を食い止めるイメージで」
「いやもう食い止めるどころか囲まれちゃってるけどっ!」
火加減、混ぜ具合、油の跳ね返り。
あらゆる要素が圭人を包囲していく。
彼にとって、これはすでに市街地戦に等しい。
さらに和維が「次、スパイス混合いくわよ」と告げて、棚から瓶を並べると、圭人の表情は確実に引きつった。
「ちょっと待って、さっきと違うやつがある!」
「うん、今日は新しい配合だから。ビンダルー寄りで、カシア(シナモン)とカルダモンを強めにするつもり」
「それはつまり……なにをすればいいの!? なんか赤いのあるよ!? ホットっぽい色してるよ!?」
「それ、カシミールチリ。発色用だけど、うっかり多めに入れるとマジで死ねるから、ちょっとした化学兵器並みだから慎重にね」
「……今の説明、怖すぎじゃない!?」
だがその直後、事故は起きた。
――ドサッ。
「あ」
「……圭人、今なに入れた?」
「えっと……この赤いの……たぶん、少し……」
「“少し”って、どれくらい?」
「……小さじ、山盛り、2……?」
沈黙。
和維は一度だけ深く息を吸い、すぐにプランを切り替えた。
「よし。ならもう、唐辛子強化型にプラン変更する」
「変更するの!? 無理じゃなくて!? なんでそんな冷静なの!?」
「この手の事故は想定内よ。辛味を包むために、トマトとヨーグルトの比率を上げて吸収させる。あと、酸味でバランスを取る」
「俺が爆弾落としたみたいになってない!?」
スパイスと酸味の化学反応により、空間に充満する香りは一段と濃くなる。
一歩間違えれば致死量――そんな錯覚すらある空気の中で、圭人は涙目でヘラを振る。
そして再び混乱が訪れる。
具材の投入タイミング、火の加減、水分の量。すべてが一拍ずつズレ、指示と動作の間に隙が生まれ、その隙から混沌がなだれ込む。
まさに「家庭内戦闘」。
さながら局地戦。
投入されたスパイスたちが、あちこちで局地戦を起こし、熱と香りの煙幕でフライパンの中の視認性は限界を迎えていた。
そんななか、もうひとつの火点が立ち上がる。
ナン――小麦粉にヨーグルトを混ぜて練り、寝かせ、伸ばして、予熱済みの鉄フライパンへ。
「ナンの方、いける?」
「うん。いま、初弾投入」
和維が生地を手早く伸ばし、フライパンに打ちつけるように貼りつける。
強火のまま、蓋をせずに一気に焼きつけると、生地の表面がぷくりと持ち上がっていく。
「焦げ目、あと十秒……はい、今、反転」
ぱん、と音を立てて裏返すと、こんがり焼けた焼き目が現れた。
フライ返しで軽く押しつけながら加熱し、焼き上がりと同時にバターを塗る。
「吸収効率、良好。香りのレイヤーも出てる」
「な、なんかナンだけめちゃくちゃうまくいってる……!」
「高温短時間焼成に特化した装備と戦術のおかげね」
「なんかもう、その言い方のせいでナンが兵器に思えてきた……」
「うん、たぶんそれで合ってるわ」
和維がナンを手際よくカットし、試食皿の横に添える。
そして、ふっと息を吐いた。
「……完成、かな」
和維が火を止め、ふうっと小さく息をつく。
試食用に小皿に取り分けられたカレー。
圭人がスプーンを手に取り、一口。
「……ん? おっ……」
噛む。飲み込む。数秒、静寂。
「……あれ? なんか、ちょっと甘い……?」
「最初はね」
「うん、美味い、ちゃんと……ん? ん? ……え、あれ?」
その時だった。
「……あっつ!? なんか、来た! 舌の奥から! やばいやばいやばっ!!」
「まるでゲリラ戦ね。表に出ず、一定時間後に急襲するタイプ」
「いやいやいや、辛っ! 辛いって! 美味いけど、辛い! 辛いけど、美味い……いや、辛っ!!」
「持久力勝負よ。あと一分は継続してくると思う」
「これ、継続すんの!? どこまで執念深いのこのスパイス!?」
圭人はその場でうずくまり、スプーンを手に悶絶する。
――作戦名:スパイス・ドクトリン。
戦果:夫婦の共同調理における、史上最大の混沌。
だが、フライパンと鉄板の上には、確かな“任務完了”の痕跡、そして舌の上には熱い火種…。
失敗も、美味しいスパイスのひとつ。
Status: Operation ongoing→Chapter4




