Episode03:香辛料、シビル・ウォー Chapter2-スパイスドクトリン-
スパイス遠征に出発した東雲家は、曇り空の下、ゆっくりと坂道を下っていく。徒歩で20分ほどの場所にあるスパイス専門店「SPICE FRONT」。和維のお気に入りであり、かつ――彼女にとって数少ない“会話が成立する店”でもある。
「……で、さっきの“スターアニス”って、あれ何の味なんだっけ?」
「八角。中華系の煮込み料理にも使うけど、スパイスカレーだと香りのレイヤー要員。特にクローブと組み合わせると、香気が倍加して立体的になるの」
「……なんか、魔法陣みたいな言い方だな……」
そんな会話を続けながら到着したのは、木製の扉とスパイスの香りが渦巻く、異世界のような空間だった。
カラン、と鈴が鳴ると同時に、奥のカウンターから陽気な声が響く。
「Hot damn, sniper girl’s back on the grid. What’s the op today—smoke ‘em with cumin?(おっと、スナイパーガールが帰ってきた。今日は何だ、クミンで敵を炙る任務か?)」
「Negative. This time I’m going full incendiary—long pepper, chili flakes, and a splash of sumac for insult.(いいえ、今回は焼夷弾仕様。ロングペッパーにチリフレーク、仕上げにスーマックを一撃)」
「You’re a walking Geneva Convention violation, girl.(お前は歩くジュネーブ条約違反だな)」
「Only on weekends.(週末限定よ)」
圭人には、彼らの会話がまるで“暗号”に聞こえた。聞き取れる単語は「you」と「girl」、そして「Geneva」くらい。
「え、今なんて?ジュネーブ? 条約……? いや、なんでカレー作るのに国際法……?」
ジョーイは棚からひとつ瓶を取り出し、和維に手渡す。
「This one’s new—imported last week. Ground ajwain, extra toasted. Thought you’d wanna take a shot.(こいつは新入りだ。先週入れたアジョワン、強めにロースト済み。試してみたくなると思ってな)」
和維は瓶を手に取り、ふたを開けて軽く鼻を寄せた。
「Hmm… That’s got punch. Almost… too much?(うん……かなり強い香りね。ちょっと……強すぎるかも?)」
「Ain’t that the point?(それが狙いだろ?)」
「Fair enough. Might use it for a vindaloo variant.(確かに。ヴィンダルー系のアレンジに使ってみようかしら)」
「Now you’re talkin’.(それでこそだ)」
和維は瓶をもう一度嗅ぎながら、ふと笑った。
「Reminds me of that one op in Rajasthan. They overtoasted ajwain in the barracks. Couldn’t breathe for hours.(ラジャスタンでの任務を思い出すわ。宿舎でアジョワン炒めすぎて、数時間まともに呼吸できなかったの)」
ジョーイは吹き出した。
「Heh! I knew a cook back in Kandahar who tried dry-frying mustard seeds indoors. Sprinklers went off. Whole damn base smelled like a f***in’ deli.(カンダハルでな、屋内でマスタードシード炒めようとした調理兵がいてな。スプリンクラー作動して、基地中がデリのにおいになったぜ)」
「Could’ve been worse. At least it wasn’t asafoetida.(ヒングじゃなかっただけマシね)」
「F*** no. That shit’s basically chemical warfare.(絶対ムリだ。あれはほぼ化学兵器だろ)」
圭人は、置いてきぼりだった。
「……え、今、ラジ……? ケミカル…?ケミカルって科学?なぜ?怖い…あれ、本当にカレーの話だったよね……?」
ジョーイが笑いながら、ロングペッパーの瓶も差し出す。
「Here. This one’s loud too. Careful not to drop it on civilians.(これも強烈だぞ。民間人の近くで使うなよ)」
「Understood. Tactical deployment only.(了解。戦術的投入に限るわ)」
帰り際、ジョーイはそっと小瓶をひとつ袋に追加した。
「On the house. For the girl who brings war to the kitchen.(サービスだ。キッチンに戦争を持ち込む娘に)」
「I’ll make sure it’s a clean kill.(確実に仕留めるわ)」
ジョーイは、ふと圭人の方をじろりと見て、にやりと笑った。
「He your spotter, or just along for the coffee run?(そいつ、お前のスポッターか? それともコーヒー買いに来ただけの付き添いか?)」
圭人は一瞬固まった。単語がいくつか耳に入った気がするけど、意味は……わからない。だが、黙ってるのも失礼な気がして、思わず口が動いた。
「……サ、サンキュー?」
そのままじゃ何か足りない気がして、圭人はよくわからないまま親指を立てた。
“よし、笑って、親指。これで大丈夫だろう”――圭人なりの防御行動だった。
ジョーイは一瞬目を丸くし、それから豪快に吹き出した。
「Oh hell. He’s flying blind and still got morale. This guy’s gold.(くっそ……何も見えちゃいねぇのに士気だけは高ぇ。こいつ、宝物だな)」
そう言いながら、自分も親指を返す。
「You ever drop him in a hot zone, make sure he’s carryin’ spices, not live rounds.(こいつをホットゾーンに放り込むときはな、スパイス弾持たせとけよ。実弾じゃなくてな)」
「Noted.(了解)」
和維が微笑んで応じると、ジョーイはさらに調子に乗って冗談を畳みかけた。
「‘Cause with that aim, friendly fire’s a f***in’ guarantee.(そんだけ見当外れてんなら、誤射は確定だ)」
そう言ってジョーイが腹を抱えて笑っていると、圭人は照れたように苦笑いを浮かべた。
その反応がまたツボに入ったのか、ジョーイは片眉を上げて指を銃の形にして圭人に向ける。
「You, cowboy. You better swing by again sometime, yeah? Store gets boring without clueless rookies like you.(なぁカウボーイ、また顔出せよな。お前みたいな見当外れのルーキーがいねぇと、店が退屈でさ)」
「えと、ん、ok!……?」
「Bring the missus too. She keeps things… spicy.(奥さんも連れてこいよ。あの人がいると、空気がピリッと締まるからな)」
和維はそれを聞いて小さく首を傾げたが、目は細く笑っていた。
「……スパイスだけじゃなくて、空気も味付けしてるらしいわよ、私」
「Damn straight.(まったくその通りだ)」
ジョーイが指を鳴らして見せると、和維は軽く会釈し、圭人の背中をそっと押した。
「行きましょ、カウボーイ」
「俺はスパイス買いに来たはず……」
圭人は小声で呟いたが、何も聞かなかったふりをして和維は歩き出した。ジョーイの店のドアが後ろで軽く鳴る。
扉の向こう、スパイスの香りがまだ微かに、風に残っていた。
香りの戦線は、静かに拡大していく。
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