第25話
「────」
黒いオーガの突進は、トアにとってまるで巨大な壁が迫ってくるようなものだった。
防ぐことは勿論、上手くカウンターを合わせたところで槍をへし折られ轢き殺されるイメージしか湧かない。
横っ飛びすれば一度は攻撃を回避できるだろう。だが敵も当然それは予想している。互いに想定内の動きであれば、より速く次手を放てるのは身体能力に勝る黒いオーガだ。躱せて一度、二度──腕や身体の一部を犠牲にして三度が限界。それがトアの予測だった。
【盾】による妨害も通じまい。【盾】の強度は黒いオーガに対してはっきり力不足だ。あのやり方は弧を描く腕の動きをてこの原理を使って邪魔をするから意味があるのであって、直線的な動きに対しては効果が薄い。黒いオーガは【盾】による妨害を予想しており、気を逸らすことさえ難しいだろう。
先に【盾】という切り札を場に出し、勝負を決めきれなかった以上、対策され逆に追い詰められるのは必定。
だから当然、切り札は一枚ではなかった。
「──【脂】」
──ズルゥゥッ!!
『グルォォッ!??』
回避されても即座に方向転換できるよう、力強く地面を踏みしめていたオーガの足が突如地面を滑りコントロールを失う。足を取られた黒いオーガの身体は前のめりに崩れ、突進の勢いのまま弾丸のように宙を舞い地面を転がった。
──ズシャァァァァッ!!
衝撃と混乱。ただこの時トアもオーガの巨体を回避するのに精いっぱいで、想像以上に勢いよく遠くまで転がったオーガに対し即時の追撃までは手が回らなかった。
『グ……コレ、ナニ……?』
混乱から回復し膝立ちになる。トアを警戒しながら足を触ると、粘性のあるベタベタした液体が手についた。黒いオーガは、どうやら自分はこの液体に足をとられたらしいと気づく。だがトアが地面に何かを撒いていた様子はない。つまりこれは先ほどの光る板──【盾】と同じ──
「うらぁぁぁぁっ!!」
考察を遮るようにトアが槍をもって突進してきた。黒いオーガは立ち上がってそれを迎え撃つ。
腕を伸ばすようにして放たれた刺突を最小の動きで弾き、トアの身体を薙ぎ払おうとする。しかしその攻撃は先ほどまでと同様に【盾】を動作に差し挟まれて遅れ、その隙に間合いの外に逃げられてしまった。黒いオーガは後ろに跳んで体勢不十分なトアに追撃を仕掛けようとする──が、先ほど地面を転がった光景が頭をよぎり、一瞬躊躇する。
『────ッ』
その躊躇いを見逃さず、トアが再び一歩踏み込み槍を振り下ろす。
黒いオーガからすれば向こうから来てくれるなら却って都合がいい。自身の槍を掲げ弾くのではなく受け止める。敵がしているのは所詮小細工。捕まえてしまえば何もできはしまいと、力づくで拘束すべく腕を伸ばす。
その発想自体は正しかった──が、見落としが一つ。
「【脂】!」
──ズルゥゥッ!
トアの振り下ろしを受け止めた瞬間、足元が粘性のある液体──大量の脂の膜に覆われた。いくら筋力と体格でオーガが勝っていようとも、それは踏みしめる地面があってこそ意味を成す。踏ん張りを失った黒いオーガは足を滑らせなす術なく背中から地面に転がった。
『ヌォ……ッ!?』
転倒自体のダメ―ジはほとんどないが、目の前の敵がこの無防備な体勢を見逃してくれる筈もない。黒いオーガの心臓目掛けトアの槍が放たれる。
──ビュゥッ!!
だがその攻撃はこの場合、些か的確に過ぎた。
『────ッ!』
心臓狙いにヤマをはっていた黒いオーガは、不十分な体勢、至近距離からの攻撃を左手一本で掴み取ってみせる。
ニィ、と唇の端を吊り上げる黒いオーガ──しかしトアは止まらない。
「【脂】!!」
『ナ……ッ!?』
槍の柄に脂の膜が浮かび、槍はオーガの掌を滑ってその胸へと突き刺さる。
──ズシュ!!
『ギィィッ!?』
一度停止し勢いが死んでいた槍は筋肉の鎧に阻まれ、穂先が肉を二、三センチ抉っただけで心臓までは届かない。そこにトアは全体重を乗せ更に槍を押し込もうとする。
「ぐぬぬ……っ!」
『ヌガァ……ッ!』
筋力差と状況が生んだ拮抗。十数秒の力比べの末、黒いオーガが空いていた足でトアの胴を蹴り飛ばす。
「げふっ!」
腹に直撃したとはいえ無理な体勢からの攻撃。トアのダメージは大きくない──が、それまでの疲労と力みもあって咽てしまい、黒いオーガに体勢を立て直す時間を与えてしまう。
「はぁ、はぁ、はぁ──」
『ゼェ、ゼェ、ゼェ──』
二人は距離を開けて睨み合い、互いに相手の呼吸が整う前に踏み込み槍を振るう。
──ギィンッ!!
当初、黒いオーガが圧倒的優位に立っていた戦いは、ことここに至って互角の様相を呈していた。
身体能力と強度では黒いオーガが圧倒し、技量に関しては若干トアが上回るものの大きな差はない。しかしここに【盾】と【脂】という二つの魔導の選択肢が加わったことで、黒いオーガはその行動と能力を大幅に制限されていた。
トアの間合いの外から放つ軽い攻撃は、引き気味に対処され牽制以上の意味をなさない。
踏み込んで薙ぎ払おうとすれば、【盾】で攻撃の出だしを邪魔され、反撃を受ける。
では【盾】で妨害する余地がないようにと身体ごと突っ込めば、今度は地面に【脂】を撒かれ足をすくわれる。
大振り封じられ、ステップを封じられ、【盾】、【脂】、トアの攻撃と三つの選択肢を突きつけられ後手に回った状態。黒いオーガは徐々に思考と判断の余地を削られ、追い詰められていった。
──ズシュッ!!
攻防の中でトアの刺突が黒いオーガの左腕を抉り、鮮血が舞う。
この瞬間のみを切り取ればもはや完全にトアが黒いオーガを圧倒していたが、トアも決して余裕があった訳ではない。むしろ、このままやり合えば負けるのは自分だと、徐々に自分の首が締まっていくのを感じていた。
──拙い、な……想像以上に、集中力と体力を、削られてる……
魔導に関してはここに来る前、試運転して消耗や連続使用できる回数について確認していたが、安全な場所での試行と命を懸けた実戦では使用者にかかる負担が段違いだ。このままでは決定打に欠ける自分が先に力尽きる。
──弱気を顔に出すな。焦るな。チャンスは、かなら、ず……!
全身の筋肉と脳が沸騰しそうな熱を帯びる中、トアは命懸けの綱渡りを続けた。
──ナゼ、ナゼダ、ドウシテェェッ!?
黒いオーガの混乱は目に見えて顕著だった。
格下、小賢しいだけで取るに足らないと見下していた獲物が、いつの間にか自分の喉元に手を伸ばしているのだ。落ち着いていられるはずがない。
一方で、オーガの脳の冷静な部分は、トアの動きが少しずつ鈍っていることを見抜いていた。このままこのやり取りを続ければ、先に潰れるのはあちら。自分も相応にダメージは覚悟しなければなるまいが、堅実に、致命傷だけ避けて体力勝負に持ち込めば、十中八九自分が勝つ。
──フザケルナ……ッ!!
だが人の知性を得て肥大化したプライドが、その弱気な発想を否定する。
それは知性を得てより鮮明に恐怖という概念を知ったが故の精神的な脆さでもあった。
──ツヨイノハ、ワタシダ……ッ!!
「────!」
黒いオーガが後ろに大きく飛び退き、距離を取る。
知性を得た彼女が戦いにおいて最も重要視している要素は、攻撃力でも耐久性でもスピードでもなく間合いの長さだ。結局、戦いは敵の手の届かない場所から一方的に攻撃するのが一番強い。
黒いオーガは左手で小石混じりの地面を抉り取り、振りかぶった。オーガの剛力で放たれた砂利が、致命傷とはいかずとも人間に無視できないダメージを与えることは既に実践済み。広く面のように広がるそれは回避困難であり、トアの矮小な【盾】で防ぐことはできない。
何らかの奇手で一度、二度防がれたとしても、距離を取って投石を続けていれば完封できる──そう、黒いオーガは結論付け、実行した。
『クタ──バレッ!!』
投げる刹那、黒いオーガの視線が一瞬トアと交錯する。
──ナン、ダ?
その瞳に絶望はなく、オーガの本能と理性が最大級の警鐘を鳴らすが、もはや動き出した腕は止まらない。
それまでのように腕の付け根に【盾】を張られ投擲が妨害されることを警戒し、肩に力を込める──が、トアの狙いはそこではなかった。
──ドッ!
弧を描いて振り下ろされる左腕の先端──手首の部分に【盾】が発生し、衝突する。当然、強度の低い【盾】は音を立てて一瞬で砕けたが、遠心力を得て勢いよくぶつかったことで黒いオーガは砂利をリリースポイントより早く放してしまう──結果、握っていた土混じりの砂利はオーガの顔に降り注いだ。
『ブッ!!?』
目、鼻、口──顔の穴という穴に土ぼこりが入り込み、視界が奪われる。
──マズイ!!!
地面を蹴り踏み込む音が聞こえる。見えずとも分かった。敵がこの隙を逃すはずがない。
黒いオーガは咄嗟に両腕を身体の前で交差し、急所を守った──しかし。
──ズシャッ!!!
『ギャァァァァァァァッ!!』
トアの槍が穿ったのはオーガの左太腿。渾身の力を以って放たれた刺突は、オーガの分厚い筋肉を貫き、貫通──地面にその足を縫い付けた。
──マダ、ダ……ッ!
激痛の中、しかし黒いオーガは冷静な思考を失っていなかった。
機動力を奪われはしたが、致命傷には程遠い。元々、【脂】のせいで自由に動き回ることは出来なくなっていたのだから、大勢に影響はない。そう自分に言い聞かせ、視界を回復する時間を稼ごうと左足に力を込めて筋肉で槍を絡めとる、が──
「──【火矢】」
ボソリと呟く声。
──ゴォォォォゥッ!!!
『グギャァァァァォォォッ!?』
灼熱する左足と、そこから立ち上り全身を焼く熱──燃えている。
「ハッ! 魔導三種盛りフルセットだ! 借金するなら徹底的にってなぁ! オヤッサンに詰られながら三時間頭下げ倒した成果を存分に喰らいやがれ!!」
その言葉の意味は、オーガには分からない。
だが槍や自分の身体に纏わりついた【脂】がこの炎の勢いを増していることだけは理解できた。
──マズイ!?
トアが次に打つ手を予想する──が、それを妨害する術が視界の塞がった黒いオーガにはない。
「もいっちょ──【脂】!!」
『ガァァァァァァァァァッッ!!!』
燃料が投下され、黒いオーガを包む炎の勢いが更に増した。
オーガをして気絶しそうになるほどの激痛。しかし、黒いオーガは意識を保ち、炎に全身を焼かれながら、その分厚い皮膚が致命傷となることをギリギリのところで防いでいた。
更に。瞼を焼く炎の勢いが強引に視界を押し上げ、眼球にダメージを与えながら一時的に視界を回復させる。
──ミエタ……!!
もはやそれは理性的な行動とは言えなかった。黒いオーガは力任せに槍を地面から引き抜き、足に突き刺したまま、炎にその身を焼かれながらトアに突進──抱き着こうとする。
地面に撒かれた【脂】は炎で燃やし尽くされ、彼女の足を止めることはない。
『グァァァァァァァァァァッ!!!』
それはまるで求愛だった。
回避不可能──灼熱の抱擁を、トアは避けることなく大きく前に踏み込む。
──ズシュゥッ!!
そして炎に抱きしめられる寸前に腰から剣を引き抜き、黒いオーガの口腔に突き立てた。
「【脂】」
燃料、再投下。小剣が貫いた傷口を通じて、炎が黒いオーガの脳を、脊髄を焼き尽くす。
『アァァ……ァ……ッ』
「…………」
トアを抱きしめる黒いオーガの身体が、ゆっくりと力を失い、地面に崩れ落ちる。
皮膚を焼く炎の痛みの中、トアは微動だにせずそれを見送った。
「…………っ」
そして黒いオーガの命が炎の中で燃え尽きるのを確認し、張り詰めてきた気力が切れたようにヨロヨロと後ずさり──バタンとその場に倒れ込む。
──駄目だ……まだ、ポコが、ベン、が……っ!
しかし限界を迎えていたトアの精神と肉体は、本人の意思を無視してゆっくり闇に落ちていく。
最後の瞬間──それは願望が生み出した幻聴だろうか?──自分を呼ぶ、仲間の声が聞こえた気がした。
──……!




