第23話
──カサカサカサカサカサ……
「フギャアアッ!? 来るな! アッチ行けっ!?」
急降下してくる大蜘蛛を追い払おうと、ベンは右手をワタワタ振り回す。
不安定な体勢だったため当たっても大蜘蛛を叩き落とすほどの力はなかったが、それでもあちらが近づくのを躊躇う程度の効果はあったらしい。大蜘蛛は降下を一時停止すると、その場で尻を突き出し粘着性の糸をベン目掛けて一斉に放出した。
「ぶっ!? むぐぅ……っ!!」
無差別に放出された糸はベンの動体手足だけでなく顔面にも絡みつき、視界や呼吸を阻害する。何とか右手で顔に纏わりついた糸を取り除こうとするが、次から次に糸が吐き出される上、右手にもべったり糸がへばりついていてイタチごっこだ。
この不安定な場所では抵抗もできない。ベンはイチかバチか──というかパニックになって──登攀中の崖から飛び降りようとした。
──ふあっ!? うそ、僕、宙に浮いてる!?
しかし全身に巻き付けられた蜘蛛の糸は、ベンの巨体を支えても千切れることなく、杭から手を放した彼を宙吊りにしてしまう。しかも──
──痛ぁっ!? い、今肩噛まれた! ガブ! ガブってきた!?
咄嗟に身体を揺すってそれ以上噛まれることは防いだが、大蜘蛛が一斉に集まってくる気配にベンは完全にパニック状態。追い詰められても狂戦士化していないのは、視界が閉ざされ敵の存在を認識できず、また彼が無意識に暴れても助からないと判断しているからに過ぎなかった。
──逃げ、なんとか、逃げない、と……
それは分かっていても、視界を奪われ、宙刷りにされて、文字通りベンは手も足も出ない。
──これ以上、取りつかれたら、もう…………あ?
パニックになったベンの脳裏を一つの言葉がよぎる──『ポコを助けに行くぞ』。
──あれ? 崖の上から蜘蛛が下りてきて僕を襲ってるってことは、上にいる筈のポコさんは…………え?
理解と同時にベンの身体は動いていた。
──駄目じゃないか!!
視界も口もほとんど塞がれた状態で身体を拘束する糸を両手で掴み、それを辿って強引に崖を登る。途中、何匹かの大蜘蛛が身体に纏わりつき何度も牙を突き立てるが、ベンはそれに気を配る余裕さえなかった。
無呼吸で崖を踏破し、空いた両手で顔面に纏わりついた糸を剥ぎ取る。
「ポコさんっ!?」
慌てて周囲を見渡したベンの視界に映ったのは、あたりを埋め尽くす大蜘蛛の群れ──と、糸で全身をグルグル巻きにされ、一際大きな蜘蛛に運ばれていくポコの姿だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
カウンターを受け膝をつくトア。
黒いオーガは即座に追い打ちをかけることなく、反撃や罠、隠し玉を警戒するようにトアを観察していた。
だがその猶予はほんの数秒。よろけるトアのダメージが大きいことを見て取ると、オーガは見から攻めへと転じる。
──ゴォゥッ!!
戦車を思わせる重く速い突進から放たれるオーガの槍の刺突。喰らえば身体が上下に弾け飛びそうな一撃を、トアは反射で横に転がり回避した。
「──ぷはぁっ!!」
大振りの一撃は隙も大きく、追撃が来る前にトアは立ち上がり体勢を立て直す。
攻撃直後の黒いオーガはこちらに無防備な脇腹を晒していた。攻撃かそれとも距離を取るか──黒いオーガの迫力に怖じ気づき攻撃を躊躇したことが、結果的にトアの命を救う。
──ブォォゥン!!!
背負向けたまま竜巻のように弧を描いて振るわれたオーガの槍がトアの鼻っ先を通過する。
──っぶね! 横っ腹晒してたのは誘いか!?
今度こそ本物の隙を見せるオーガ。けれど“行け”と命じる脳に反して、トアの足は竦んで地面から離れようとしなかった。単純な力量差以上に、黒いオーガが放つプレッシャーがトアの精神を削って動きを鈍らせる。
『……ムゥ。ヨケル、ウマイ』
すぐに仕留められると思っていたのだろう。黒いオーガが振り返り、不思議そうに自分の槍とトアを交互に見つめる。
『ジャ……コレ、ドウカ?』
しかし直ぐに気を取り直すと、今度は先ほどまでのような大振りではなく、槍のリーチを活かして細かく速く、ジャブのような攻撃を放ってきた。無論、ジャブといってもそれは黒いオーガにとってで、直撃すればトアの細い身体などあっさり貫いてしまうだけの威力がある。
──ヒュン! ギィン! ガシュッ!
「ぐっ! ぬぐっ──づっ!?」
『ハ、ハハハ! ヨケル、ジョウズ!』
軽くコンパクトな連続攻撃とは言え、ベースは技も何もないオーガの攻撃だ。確かに速く鋭いが予備動作は分かりやすく、辛うじてトアも致命傷を回避することが出来ていた。
だがそれでも少しずつ、確実に黒いオーガの槍はトアの身体を捉えていたし、何より──
──拙い……! こいつの攻撃、徐々に鋭くなってる! 学習してるのか? この短時間に武器の扱いを!?
『ヨケロ! ハハ、ホラ! モットハヤク!』
必死に逃げ回るトアに嗜虐心を刺激されたのか、黒いオーガは哄笑をあげて槍を振るう。その攻撃はますます鋭さを増しており、このまま行けばあと一〇合と待たずトアの身体に致命傷を刻むことになるだろう。
──くそっ! 割り込む、隙が……ねぇっ!!
トアとて全くの無策でこの場に立っているわけではない。
真っ向から戦えばこうなること──黒いオーガに手も足も出ないことは最初から分かっていた。当然、ジャイアントキリングが可能な切り札も準備している。
だが単純に、今のトアにはその札を切るだけの余裕がなかった。
何か一手。ほんの少しで良い。黒いオーガの動きを鈍らせ、あるいは注意を逸らしてくれるような何かがあれば──
──は? 何だ……そりゃ?
そこまで考えて、トアは己の他人任せの思考に気づき、愕然とする。
──俺はポコを助けに来たんじゃないのか? 何でポコやベンが都合よくフォローしてくれることを期待してるんだ?
思い返せば二人と一緒に辺境で過ごすようになってから、いつも危ない時には彼らが自分を助けてくれていた。
『ヨソミ、スルナ!』
トアの意識が内に向き、黒いオーガの槍がトアの頬を浅く抉る。しかしトアの意識はさらに内へ内へと潜行していった。
──いつもより身体が重い。何だこれ? 俺は……ビビッてるのか?
理由は明白だ。二人がここにいない。彼らが見守ってくれているという感覚に慣れて、自分はすっかり独りで戦うことが怖くなっている。
羞恥か、あるいは別の感情で、トアの顔が熱を帯びた。
『ワラウナ!!』
苛立った様子で放たれた横薙ぎを、しゃがみ込んで躱す。
──笑う……?
己の唇の端が笑みの形に吊り上がっていることに気づく。トアは己の槍をオーガの槍に叩きつけ、その刺突を逸らした。
──心細いのに笑う……何で?
自分の気持ちがよく分からない。困惑しつつもトアの足は遅滞なく動き、オーガが槍を振るいにくい位置取りを確保する。
──俺はポコやベンを護らなきゃって……
ずっと誰かに必要とされることばかり考えて生きてきた。
必要とされなければ生きて行けないと信じて、自分を必要としてくれるなら、その“誰か”は誰だっていいと思っていた。
だが、そうではなかった。
自分は彼らを必要としている。
もう何もないと思っていた自分にそんな仲間が出来ていたことに今更気づき──嬉しさと恥ずかしさに笑みがこぼれた。
──はは。何だそりゃ……ホント、今頃かよ……
──ヒュォッ!
オーガの動線を削るようにトアの槍が鋭く空間を薙ぐ。
『──グゥ!?』
明らかにトアの動きが良くなったことに気づいて、黒いオーガは目を見開く。その表情が一瞬、攻め続けるか引いて様子見するかで逡巡──彼女はそのまま攻め続けることを選択した。
その判断は正しい。動きが多少良くなったとはいえ、それでも黒いオーガとトアの間には決して覆らない力の差がある。小細工を差し挟む余地を与えることなく体力で押し潰してしまうのが一番確実なやり方だった。
ただし、本当の小細工とはどんな隙間にも挟み込めるからこその小細工だ。
『────!?』
黒いオーガの振り下ろしの一撃が、その途中で不自然に一瞬止まる。まるで腕が何かにぶつかったように。その何かはすぐに砕けて消えるが、勢いを失ったオーガの槍は標的を見失い地面を叩いた。
その隙を突く様にトアの刺突が放たれるが、彼のそれもどこか中途半端で、簡単に黒いオーガに防がれてしまう。
未知の現象を警戒して黒いオーガは後ろに大きく飛び退き距離を取る。そしてトアが追撃してこないことを確認すると、先ほど何かがぶつかった感触のある己の二の腕にチラと視線をやった。
厚い表皮に覆われた腕に外傷や跡のようなものは見当たらない。気のせい?──いや、そんな筈はないとオーガはかぶりを振った。
──ナニヲ、シタ……?
「……ったな。意識が……で……」
黒いオーガはブツブツと小声で何事か呟く目の前の少年が何かした、と確信する。
そのことを疎ましく思うより先に、自分の獲物が想像以上の牙を隠し持っていたことに笑みがこぼれた。
とは言え敵が何をしたのか分からない以上、あまり無警戒には攻め込めない。黒いオーガはリーチの利を活かして、トアの間合いの外から突き放すような細かい刺突を繰り返した。
『ヌ……ッ』
しかしそれは今のトアには牽制にしかならない。トアは軽くステップを踏み、その場でオーガの攻撃をいなす。
確実に動きが良くなって──いや、割り切っている?
今の彼に中途半端な攻撃は通じない。そう判断した黒いオーガは一歩踏み込み腕を引き、回避困難な薙ぎ払いの一撃を放つ。
『────ッ!』
再びの違和感。腕を引き絞り攻撃を放とうとした瞬間、腕の付け根の辺りに何かが引っかかるような感覚があった。
その違和感は押し込むように腕を振るえばすぐに消えた──が、攻撃は一手遅れる。
──ズシュゥ!!!
『グゥ!!』
今度はその隙を見逃すことなく放たれたトアの刺突が黒いオーガの左肩を浅く抉った。咄嗟に半身を引いていなければ危うかったかもしれない。
黒いオーガは槍を振り回して追撃を牽制し、先ほど目にした光景を思い返す。
──ヒカル、イタ……?
黒いオーガの攻撃を止めた正体は空中に浮かぶ光の板。
魔物の身ではあずかり知らぬことだったが、それは人間たちが魔導と呼ぶ技術の一つ──【盾】という防御呪文だった。




