第22話
『グル……ル……』
黒いオーガは待ちくたびれ──少し不安になっていた。
白いコボルトを攫ってから丸一日が経過。目当ての人間はまだやってこない。無視されたり自分の意図が伝わっていなかったらどうしようと、あまりに今更過ぎることに思い至る。知性を得たと言っても付け焼刃のソレは行き当たりばったりで穴が多い。
今黒いオーガいるのは、彼らを逃がしたあの場所──岩の隙間の隘路しか登り口のない切り立った高台だ。もっともかつて隘路だった隙間はオーガによって拡張され、人二人ぐらいは余裕を持って通れる道幅となっていたが、それは今は問題ではない。
──コナカッタラ……ムゥ?
首を傾げる、が元より黒いオーガにはその人間を見分ける方法がない。もしそうなれば残念だが諦めるしかないのだろう。
あまり時間をかけても目当てのソレではなく全く無関係な人間たちがやってくる可能性もある。また結局大人数で来られても面倒だ。あちらが意図を理解し応じてくれなければ、黒いオーガにはそれ以上どうしようもなかった。
──シカタ……ナイ。ウン。シカタナイ。
黒いオーガはあっさり思考を切り替える。残念な気持ちはあるが失敗するのは慣れっこだ。
もう少しだけ待って、駄目ならコボルトを食べて次に行こう。人間はたくさんいるし、その中にまた彼が混じっているかもしれない。黒いオーガは楽観的だった。
『────!』
そんな折、黒いオーガの耳に人間の足音が届く──一つだけ。きっと彼だ。
根拠はないが黒いオーガは確信し、コボルトをその場に放置。目を輝かせて高台の下へと駆け下りた。
──カサカサ、カサ……
黒いオーガがいなくなった後、動けないコボルトを狙って蠢動する幾つかの影があったが、それは彼女にはどうでもよいことだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そこに黒いオーガがいると確信があった訳ではない。
ただアレが自分を呼び寄せるとすれば他に場所の心当たりもない、それだけだった。
──ドスゥゥンン!!
かつて自分とポコが魔物を待ち伏せ狩りを行っていた場所を訪れる──と、高台になっている岩場から黒いオーガが待ちきれないといった様子で飛び降りてきた。
その迫力に身体の芯に震えが走りそうになったトアは、恐怖を誤魔化すよう軽口を叩き──
「いや、通路広げといて結局通らんのか──」
『グルォォォォォォォォォッ!!!』
黒いオーガの咆哮に、虚勢を張る気力ごとかき消された。
「────」
ただ一咆えされただけで身がすくみ、背骨がぐにゃぐにゃに溶けてしまったように全身の感覚が狂って立っていられなくなる。それでもトアは頬の内側の肉を噛みちぎり、崩れ落ちそうになる膝に力を込め寸でのところで踏みとどまった。
黒いオーガは品定めするように──あるいはコレが自分の目当ての人間かを確かめるように──トアを観察している。
トアは買い換えたばかりでほとんど新品の鉄槍の石突を地面に叩きつけ黒いオーガを睨み返す。そして胸に溜まった空気を吐き出すように言葉をぶつけた。
「──おい。ポコは無事なんだろうな?」
『ヴ……?』
黒いオーガは一瞬何を言われたのか分からなかったように首を傾げ──しかし直ぐに『ポコ』があの白いコボルトであることに気づいたのだろう。それを気に掛ける目の前の人間が、目当てのソレであることを確信し、ニンマリ凶悪に唇の端を吊り上げた。
黒いオーガは右手の親指を立てて背後の岩の隙間を示し、ポコはこの先にいるとアピール。そして──
『ニゲタラ、クウ』
助けたければ自分を倒して行け。
「────ふぅ」
何とも分かりやすい黒いオーガの挑発に腹が決まる。トアは短く息を吐き、槍を構え突進の姿勢をとった。
黒いオーガは何の構えも取らずニヤニヤこちらを見下している。元々彼我の間には圧倒的という言葉では足りない力の差があった。黒いオーガが関心を持っているのは自分から逃れたトアの知恵や工夫であって、戦士としての実力ではない。矮小で未熟な人間な正面から挑んできたとて何を警戒する必要があるものか。
その黒いオーガの考えは決して驕りではなかった。
唯一、誤算があったとすれば──
「──シッ!」
『────!?』
静止した状態から一瞬で加速し、一息で一〇メートル近くあった距離を詰めるトア。その想定外の速度に黒いオーガは目を見開いた。
以前にも少し触れたが、辺境の大気中に満ちた魔素は開拓者たちの成長を加速させる。
これはただ辺境で生活しているだけの一般人には何の影響もないが、高密度の魔素には経験の定着や肉体的な成長を促進する性質があり、戦士にとって辺境での一か月は外界での一年間の訓練に相当すると言われていた。
そしてこの影響は、実戦でのストレスや死の恐怖を受けた者ほどより強く表れる。
トアがこの辺境にやってきてから約三週間。彼は戦闘面においてはポコとベンという足手纏いを抱え、ほとんど一人で魔物との戦いを潜り抜けてきた。通常、六人前後でパーティーを組み、ある程度の安全マージンを確保した上で行う魔物との戦いを、たった一人で。自分の肩に二人の仲間の命がかかるプレッシャーを感じながら、ずっと。
トア本人に自覚はなく、また気づいているのはごく一部の練達者だけだったが、トアはこの短期間に平均的な開拓者の四~五か月分──外界の約五年に相当する密度の経験を積み、飛躍的な成長を遂げていた。
外界では一線級に手が届き得る速度と鋭さで、遊びのない最短最速の刺突、油断した敵の精神の間隙をついて放たれたトアの一撃は──
──カァァン!!
「────!?」
黒いオーガの胸を貫く寸前、無造作に振るわれた左手の甲にいとも容易く逸らされた。
勢いのついたトアの身体は急には止まれない。
『────ニィ』
──ドォンッ!!
槍を握ったオーガの右拳がカウンター気味に至近距離から放たれ、トアの身体を軽々と後方へ弾き返した。
「か──はっ!」
この時、トアが即死を免れた理由は四つ。
一つは間合いを潰したことでオーガが槍を振るえるスペースがなく串刺しにされずに済んだこと。
一つはトアの耐久力がオーガの予想を超えて向上していたこと。
一つは咄嗟に腕を挟んで直撃を避けたこと。
一つは黒いオーガが様子見をしていて本気ではなかったこと。
──ドッ、ゴロゴロゴロ──ズザァッ!!
「くそ、が……っ」
追撃を警戒し、トアは地面を指で掴んで転がる勢いを殺し、後方に滑りながら体勢を立て直す。
衝撃で視界がぐらつき膝立ちになるのが精一杯。この時追撃されていれば間違いなく死んでいただろう。だが黒いオーガはトアを殴り飛ばした位置から一歩も動いていなかった。
余裕──いや、あまりに取るに足らない攻撃を仕掛けられ、逆に罠を警戒しているのかもしれない。
──マジか……ここまで……っ!
つまりこれがトアと黒いオーガとの間に隔たる現実の壁──トアがこの短期間にどれだけ成長しようと、それだけの実力差がある、ということだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
一方その頃。
──ドォ……ッ
「うぅ……始まった……?」
聞こえてくる黒いオーガとトアの戦いの音に耳をそばだて、ベンは待機していた茂みの中で身を震わせた。
彼が今いる場所はトアたちが戦っている場所から高台を挟んで反対側。高さ八メートルほどの切り立った崖がそびえ立つポイントだ。かつてトアとポコはこの崖からロープを垂らして降下し、オーガの襲撃から逃走したことがあるが、当然その時のロープは既に残っていない。
「ここを……登るの……?」
ほぼ直角に切り立った崖を見上げ、ベン呆然と呟く。
ベンがトアから受けた指示は、トアが正面から黒いオーガを引き付けている間にこの崖を登ってポコを救出してくれ、というものだった。
実のところこの指示は穴が多い。そもそも黒いオーガがここにいるという確証はなかったし、いたとしてもポコを高台の上に放置しているとは限らない。さらにベンがこの崖を登れるのか。足場や掴む突起はあるので訓練した人間ならさほど難しいルートではないが、素人のベンが登攀可能かというと、道具を使ったとしても五分五分といったところだろう。
だがそれでも戦えないベンが役に立とうと思えば、こんな方法しかないのも事実だ。
ベン本人は戦えなくても大金棒を持って戦場に同行すればオーガの気を引くことぐらいできるのではと提案したが、それはすぐトアに却下された。気遣われた、というのもあるだろうが、黒いオーガがそれなりの知性を持っているとすれば、ベンが戦力にならないことはすぐに見抜かれてしまう。であればいっそ徹底的に姿を見せずにいた方が相手に伏兵を警戒させることが出来るかもしれない、というのがトアの意見だった。
『優先順位を間違えるなよ。俺らの目的はポコを助けることであって、あのオーガを倒すことじゃない』
ポコを救出することが出来ればトアも撤退に舵を切ることができる──そう言われれば、ベンも頷くほかなかった。
それにこの崖を登るのは容易ではないし、落下すれば死なないまでも相当なダメージを負う可能性がある。そのリスクを最小化できるのは僧侶であり【自己回復】の奇跡が使えるベンだけだ。
「よぉし……!」
大金棒を地面に置き、準備してきた長さ三〇センチほどの鉄杭を両手に持つ。そしてそれを崖に突き刺して登攀を開始。足場を確認しながら、少しずつ、確実に崖を登っていく。
──ドゴォ……ッ
高台の向こうから一際大きな衝撃音が響き、振動が岩を通じてベンの身体にも伝わってきた。
──っ! あ、焦るな……トアさんならきっと大丈夫。それより焦って落下するのが一番のタイムロスだぞ。大丈夫。落ち着け、僕……!
そう自分に言い聞かせて崖の三分の二程を登攀したタイミングで、ベンの頭上に影が落ち、カサカサという生理的嫌悪感を刺激する音が鼓膜を届いた。
「……え?──ひぃっ!?」
この時、驚いて鉄杭から手を放さなかったことは、ベンにとって果たして良い判断だったのか否か。
見上げたベンの視界には、崖を伝ってこちらへと降下してくる体長一メートル弱の無数の大蜘蛛の姿が映っていた。
 




