第16話
ベンという少年は、傍目には不幸な生い立ちのハーフオークと思われがちだ。
そもそもハーフオークという種そのものが周囲から望まれて生まれてくるものではない。人間社会でまっとうに生きようとする限り、彼らの人生は常にいばらの道だ。
だがそれでも、ベンは幸せだった。誰にどう思われようと、間違いなく彼は幸福な日々を送っていた──少なくとも、母に辺境に売り払われたあの日までは。
ベンの母親はかつて冒険者だった。同じパーティーの弓使いと恋仲になり、資金が溜まれば結婚しようと約束を済ませた折、護衛仕事の最中オークの一団に襲われ囚われの身となってしまう。その後、彼女は他の冒険者に救出されたものの、既にお腹には新たな命を宿していた。
オークに孕まされ傷物となった女を、婚約者は捨てた。
そして冒険者を廃業し戦えなくなった女は、たった一人でベンを産み育てることを決意する。そこにどれほどの苦悩と覚悟があったのか、余人には想像することしかできない。
唯一つ確かなことは、彼女は確かにベンを愛し、ベンは母の愛情の下で幸福に暮らしていたということだ。
ハーフオーク故の迫害は存在したし、それが辛くなかったと言えば嘘になる。同年代の友達など一人もできなかった。だがどんなに泣いて帰っても、母が優しく抱きしめてくれるだけでベンは幸せだった──そう、幸せ、だったのだ。
だがそんな幸福な日々はある日突然終わりを迎える。
家に帰ると母の代わりに見知らぬ男たちがいて、これからお前は辺境に行くのだと告げられた。
お前は母親に売られたのだと、告げられた。
ショックは自分でも意外なほどに小さかった。母が自分のことで周囲から白い目で見られ、心を病んでいたことは子供心に理解していた。だから正直、来る時が来たのかと、そんな気持ちだった。
ベンも辺境の過酷さは噂で聞き知っていた。抵抗して逃げ出す選択肢が頭をよぎらなかったわけではない。
だがそれをしてしまえば回り回って母を傷つけることになる。この手は母を守れない。ならばせめてと、ベンは抵抗することなく男たちに従い、辺境へと向かった。
──それでもきっとあの時、僕はちゃんと母さんと話をすべきだったんだ。
辺境にやってきたベンは紆余曲折を経て奇妙な仲間たちと出会う。
一人はドライに振る舞っているがお人よしのヒューマン。
一人は自分よりずっと小さくて勇敢なコボルト。
出会ってからずっと迷惑をかけ通しだったベンを、何故か彼らは見捨てようとはしなかった──ああいや、初めて会った時は見捨てられそうになったが、結局その一度きりだ。
自分がほとんど何の役にも立っていない無駄飯ぐらいで、見た目も人に嫌悪感を抱かせる存在であることは理解している。性格も人に好かれるものではなくて、前に自分を誘ってくれた開拓者たちは自分と喋るといつもイライラしていた。
自分なりに何か役に立てないか頑張ってはいるが、未だに怖くて戦えない。
そんな自分を彼らは受け入れてくれた──それが当たり前ではないということを、ベンは誰より理解していた。
そんな生温い環境に浸っていたからだろうか? 時々、愚にもつかないことを考えてしまう。
仲間たちに報いたいという想いとは別に、もう一度──
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
辺境生活二十一日目。トアは唸っていた。
「う~ん……いや、でも……あ~……」
場所はハーフドワーフが店主を務める馴染みの雑貨屋。カウンター前でカタログを凝視するトアの後ろでは、すっかり待つことに飽きたベンとポコがあやとりをしていた。元々ベンがポコに教えたもので、ポコの肉球には些か難度の高い遊びだが、二人で何かするということがとにかく楽しいらしい。最近は時間があれば彼らはこうして遊んでいた。
「……坊主。いい加減邪魔なんだが、早く決めてくれねぇか?」
「どうせ他に客もいないんだからいいでしょ」
「カウンターでうんうん唸られちゃ気が削がれて仕事になんねぇんだよ」
「それはそっちの集中力の問題でしょ。修行が足りないんじゃないですか?」
店主のグスタフが迷惑だと抗議するも、内弁慶なところのあるトアはかつての大人しさをかなぐり捨てて平然と言い返す。すっかり生意気になってしまった新人に、グスタフは額に手を当て溜め息を吐いた。
実際トアの言う通り、今は開拓者たちの多くが狩りや開拓公社から受けた仕事に出かけている時間帯。店内には彼ら三人以外に客もいないので、うざったい以外の実害はなかった。
グスタフは急かすことを諦め、カウンターにどかっと頬杖をつくと感慨深げにトアたち三人を順に眺め口を開く。
「それにしてもお前さんらが刻印を刻む日が来るたぁな……」
今トアが眺めているのは魔術式を直接脳に刻むことで誰でも呪文の使用を可能とする魔導刻印のカタログだ。手元資金に余裕の出来た彼らは今日一日を休養日とし、損耗の激しいトアの槍の更改と併せて魔導刻印を選ぼうとグスタフの店を訪れていた。
ちなみに魔導刻印は一人最大三個まで低位の呪文しか刻めず、一度刻んだものは変更できない。下手に攻撃呪文など刻んでも将来的に威力不足となる可能性が高く、いかに汎用性があり将来に渡って腐らない呪文を選ぶかが開拓者や冒険者にとっての悩みどころとされていた。
「分かってるか? 今期の新人じゃ、刻印を選びに来たのはお前さんが一番乗りなんだぜ?」
グスタフはトアの顔を覗き込みながらニヤリと笑う。
魔導刻印は辺境では誰でも刻めるよう魔道具化されたものが流通しているが、値段は銀貨一〇〇枚とそこそこ値段が張り、日々の暮らしで精一杯の新人開拓者たちは中々そこまで手が回らない。
暗に『新人の中で一番の稼ぎ頭になった気分はどうだ?』とからかってくるグスタフに、トアは軽く肩をすくめて返した。
「俺らは三人組なんで他のパーティーより少し一人頭の稼ぎが多いだけですよ。その分リスクは負ってますし、むしろパーティーとしての実力が他の人たちより劣ってる分、こうして稼ぎを刻印や装備に回さなきゃならないんです」
心からの謙虚な回答にグスタフは笑みを深くする。
「ほ~う?」
「……何です、その反応?」
「い~や~? まぁ、リソースを少ない人数で分け合ってるってのは間違いじゃねぇ。己惚れるよりはずっといいさ」
「…………」
トアは半眼でグスタフを睨むが、彼はそれ以上説明する気はないようで、ただ意味ありげにニヤニヤとトアたちを見つるばかり。
この様子だと尋ねたところでまともな答えは返ってきそうにない。トアは追及を諦め再びカタログに視線を落とす。オッサンのくだらないニヤケ面より一生モノの呪文選択の方が重要だ。
──大分絞れてはきたんだけどな……
この年代としては大人びた考え方をしているがトアもやはり男の子だ。例えば【火矢】のような攻撃呪文に憧れがないわけではない。魔導刻印により習得した呪文は成長せず最低限の威力しか発揮しないため攻撃呪文でスロットを潰すのは一般的に愚行とされているが、どんな状況でも即座に火を起こせるというのは便利だし、威力が低くとも目くらましや牽制には十分使える。
戦士職に人気なのは武器の威力を高める【魔剣】で、威力向上だけでなく非実体型の通常攻撃が効かない敵にも武器攻撃が有効となるなど使いどころは多い。だが元々魔法のかかった武器には効果がないという欠点もあり、後に習得したことを後悔したという話もよく聞く。
地味だが腐らないのは空中に障壁をはる【盾】だ。防御範囲は狭く、持続時間も短く、強い衝撃を受ければ簡単に破壊されてしまうなど防御呪文としては欠点が多いが、戦いながら詠唱や予備動作無しに一瞬で展開できるという使い勝手の良さは悪くない。
更に地味だが今後必要になってくるだろう呪文が【抗魔】。文字通り本人を含めた味方の呪文抵抗力を高める呪文で、物理攻撃しかしてこない敵には何の意味もないが、辺境には呪文能力として火や毒の息を吐く敵もいると聞く。パーティーの誰かは習得しておきたい呪文だ。
また感情的には選びたくないが、とてつもなく有効だと確信してしまう呪文が【脂】。地面にぬめった油をまき散らして敵を転ばせる呪文で、転んだところを叩くもよし、手に余るようならその隙に逃げるもよし、どんな状況でも強くて便利しかない汎用性の塊。ただ絵面がカッコ悪く、初めての呪文に選ぶのはどうかという感情的な理由がその選択を躊躇わせていた。
──利便性と感情の折り合いをどうつけたものか……
「う~ん……」
「早く決めてくれよ~」
ひたすら首を捻り唸り続けるトアにグスタフが力なく訴える。
そんな折──
──バタン!
「おぉ! 丁度良かった、テメェら今日は休みだったか」
勢いよく店舗の戸を開けて開拓公社職員のアルドが飛び込んできた。何事かとその場にいた全員の視線がアルドに向くが、彼はそれを気にすることなくトアに駆け寄る。
「緊急依頼だ! すぐに準備しろ!」




