第九話
白川ともえは両親と食事を共にしていた。ともえの家は父親と母親、そして自分の三人所帯だ。食卓には少し贅沢な肉料理が置かれている。別段裕福な家でもない。母親が今日は奮発した、と笑っていたのを思い出した。
本当なら嬉しいはずなのに、心は沈んでしまう。その理由は分かっている。
「おい、ともえ。元気ないのか?」
「うん……ちょっとね」
三日前に起きた、ともえにとっての大事件を両親はまだ知らない。最初はただの留守だと思った。訪ねてもいないのはおかしいと思ったけど、それほど深くは考えなかった。しかし今日、彼は会いに来た。とてもとても悲しい言葉をもって。
母親が父親に同調する。
「今日学校から帰ってきてから、ずっとこうなの」
「言いたくないことだってあるだろうさ」父親が母親に、首を少し傾けた。そうしてから、ともえを見る。「けどお父さんは、なんでも相談していいんだからな、とだけ言っておく」
言って、父親は不器用に笑んだ。
ともえは首を振って、うーんと喉を鳴らす。
「ちょっと辛いことがあっただけ。けど、すぐに治るよ。」
それは嘘だった。ともえの大事な人が遠くへ行ってしまった。両親はまだそれを知らない。知ればきっと驚くだろう。隠す必要はないし、知らせた方がいいに決まっている。だけどともえは、まだ事態に折り合いをつけられていない。だから、もう少し自分で考えたかった。今ここで両親に話をすれば、きっと何かを言われるだろう。心配か、不安を混ぜた言葉に違いない。それには同意するのも否定するのも辛い。ましてや疑問など投げかけられた時には、わからないよと言わねばならないに違いないのが辛くて仕方がない。
また会えると彼は言った。白川ともえは、遠くへ行ってしまった幼馴染を思う。花宮一也のことだった。
二日前から家を不在にしていた花宮から連絡があったのは、昨日の晩ことだった。携帯に、今日の昼頃に会いたいとメッセージが届いた。場所はともえと花宮の家の間にある、小さな公園。そこは二人がかつてよく遊んだ場所だった。
夕刻に学校が終わってから、ともえはそのままそこへ向かった。近づくと敷地の境目にあるアーチ状の車止めに腰かけてる人間の姿があった。その後ろ姿は、夕陽を前にして沈み込んでいるように見えた。
「おまたせ」
花宮はゆっくりと振り返ると、微笑して立ち上がる。
「ううん、全然まってないよ。ごめんね呼び出して。大切な話があったんだ」
たった二日間、連絡が取れなかっただけだった。別に子供でもないのだから、そのくらいのことはあるだろうと思っていた。不思議には思っていたのだが。それでも、この様子は何か、大変で、嫌なことがあったのだろうと思う。
このような彼の落ち込んだ姿を見るのは、これまでにあっただろうか。そう考えながら、心配して見せる。
「その、なんかあった? すごく落ち込んでる様にみえるけど」
ともえが言うと、花宮は目をぎゅっとつぶって口を一文字にした。ともえはその様子を見守りながら、隣の車止めに腰を降ろした。自然を装って彼の顔を覗き込んだ。
「その、なんていうのかな。ここへ来るまでに色々と考えてたんだよ。なんていおうか。でも、いざとなると全く言葉が出てこなくて」
彼は立ち上がると数歩だけ歩く。振り返ってこちらを見て、神妙な顔つきで口を開こうとする。その様子がもどかしくて、何か言ってやりたくなった。
「なに? 本当にどうしたの? おかしいよ」
言って、バッグを地面に下ろして花宮に近づいた。ともえがすぐ近くまで行って、花宮の顔を見ると花宮は目だけを伏せながら言った。
「天使に……なったんだ」
彼の言った意味が分からなくてつい言葉が強くなった。
「え? なんて?」
「昨日迎えが来たんだよ。俺だけじゃないんだけど……。俺も選ばれた」
「選ばれるって? あいつらが、あなたを選んだの?」
こくりと、花宮は頷く。
彼の言葉は何も信じられなかったし、嘘ならひどい冗談で、本当なら、どうしようもなく悲しく憎いことだった。
「……本当?」
ともえが聞くと、花宮は顔を一層沈ませて、ゆっくりと頷いた。ともえは何も言えなかった。固めた拳を、もう片方の手で胸の前で握った。事態が飲み込めないけれど、とてもとても嫌なことが起こったのは間違いないようだ。
「その……」
言い差して言葉が出ない。花宮は首を振って、手のひらで額をこする。悩みながら頭を振って、振り返った。
「色々と話したい。でも、その、言いたいことは……。ともかく、俺はもうここでは住めないみたいなんだ。さっき家に戻ってさ、色々と物を整理してた。それでも人に聞いたらさ、今は制限されているだけで、またすぐに、好きな時にこっちには戻ってこれるだってさ。──それから」
ともえは花宮は走ると、花宮を突き飛ばした。
「馬鹿! 意味わかんないよ。あんた、何言ってんの!?」
「お、俺だって──」
言いかけた花宮に、ともえが叫ぶ。
「じゃあなに? あんたもあの人殺しの仲間ってわけ? よくわかんないけど不老不死って? 冗談? 本当? 本当なら最悪だよ!」
「本当なんだ、でも」
立ち上がろうとして花宮を、ともえは泣きながら弾いた。
「あなたのひいじいちゃんが、どういう人だったか忘れたの?」
「……それは」
「あなたのお父さんが、どんな気持ちで死んだか忘れたの?」
「それは──!」
叫ぼうとする花宮を、ともえは叫んで制した。
「あなたのお母さんが、あの人が、何で死んだか忘れたの?」
「俺は──」
花宮は泣いていた。ぽたぽたと地面に涙を落としながら、地面に拳をつけていた。
「それでも俺は、母さんが……」
花宮の言葉はもう、ともえには意味がわからなかった。傍に膝を突いて、顔を近づけた。
「もっとゆっくり話を聞かせて」
花宮は泣きながら、うん、と頷いて泣いていた。何か言おうとする花宮を、ともえは支えて立ち上がらせて、その泣きっ面のまま、花宮を公園のベンチへ移動させた。二人は隣りあわせに座った。
それから花宮は事の顛末を話してくれた。
食事を終えたともえは部屋に戻り、その時のことを思い出して酷く後悔した。なぜ最初に辛く当たってしまったのだろうか。そもそも最初から様子はおかしかったじゃないか。事を彼が話始めた時、何も攻め立てるような真似はする必要なかったのに。
扉に背をつけ、悩みながらずり落ちた。膝を立てて顔を埋める。
──けど、天使って……? そんなことが本当にありえるの?
天使は人とは違う世界に住む人間のような姿をした人たち。遊びでこちらへきては、殺し壊して、去ってゆく。きっとあの壁の向こう側は地獄なんだわと、ともえは良く思う。悪魔が人の姿をするのは疲れるだろう、とよく心の中で貶す。
──それに、一くんが?
一くん、ともちゃん、と二人は呼び合っている。
ともえは花宮の言葉を思い出す。天使が部屋に来て、俺を壁の向こうへ連れて行ったんだ、と言った。そんなことが、と思う気持ちはある。それでもあったのだろうと信じてる。
ともえは泣いた。
公園の砂場で、小さな白川ともえは遊んでた。父親はまだ帰ってこない。母親は買い物へ行った。ともえは家を出るときには友達に迎えに来てもらった。母親には友達と遊ぶとだけ伝えた。確かに友達とここへ来たのだが、友達は用があってそそくさとかえってしまった。
別にそれをなんとも思わない。ただ、一人の公園は寂しいだけ。
この公園は小さい。両側をアパートに囲まれて、もう一方は道路に面している。残された方は空き地としてフェンスに囲まれていた。フェンスの向こう側には下草が生い茂っている。恐ろしいというより、不潔な空間だった。
仕方なくともえは、そこら辺に落ちていたスコップで砂をすくうと、ぽいと飛ばす。ほら、やっつけた、と別段何もないころをめがけて言う。
もう一度すくって、砂場の縁石に砂をかけた。それを三度繰り返して小さな山にして、えいと呟きながら爪先で弾く。何の面白みもない遊びだ。
「なにしてるの?」
後ろから、砂場の柵越しに、同じ年ごろの子供が喋りかけてきた。
「なあんにも」
そう言ってまた砂を積む。
「それ楽しいか?」
むっとした。楽しい訳ないに決まってる。無視して砂をスコップに入れたが、この子供の前でもう一度縁石に砂を積むのは、なんだか恥ずかしかった。砂の入ったスコップを持て余していると、子供は近く移動してきていて、自分の隣の柵ごしにこちらを見ていた。
「どっかいけ」
「俺も友達いないんだ。みんな帰っちまった」
「嘘つき。一人もいないんでしょ」
「それはお前だろ?」
「友達帰った」
「こんな時間に? まだ早いよ」
またもやむっとした。スコップの中身を適当に放ると、子供を睨みつける。
「あんただって帰ったんでしょ!」
「帰った。でも俺は本当」
うそ、とともえが言えば、子供は走って砂場の入り口に行き、入ってきた。近くに足をついて、言う。
「暇なんだよ。遊ぼう?」
もうともえは何も言わなかった。無視して砂を掘るが、それに合わせてこの子供も適当に砂を掘り始めた。
「どうすればいい? 山でも作る?」
「うるさい」
そう答えたが、自然と二人とも、山を作り始めていた。ともえと花宮の出会いはこんなものだったのだ。