第二話
花宮一也は窓辺に立って退屈な街を見ていた。家は三階建てのマンションの二階だ。朝の七時、食事をこれから済まそうというところだった。背後のテーブにはささやかな食事が並べられている。朝日の温もりを顔一杯に浴びながら、ぼうっとしている。
振り返れば、仏壇に祖父母と父親の肖像が飾られている。仏壇の手前側の、お供え物の脇には母親の真新しい写真が置いてあった。つい最近、母親は死んだ。父親は花宮が物覚えのつく頃には死んでいた。母親の写真を家族の隣に並べてあげたいとは思うのだが、いざその列に加えてしまうと、母親の死を強く意識してしまうから嫌だった。
「母さん……」
花宮は小さく呟いた。そうしてから、早く食事を済ませて学校へいく用意を済ませてしまおうと思った。
その時、訪問を知らせるチャイムが鳴った。こんな時間に、と花宮は思った。誰が来たのだろうと考えながら玄関の扉を開いた。
玄関を開くと見たことのない少女の後ろ姿が見えた。そして、彼女は高貴な人が着る黄色いガウンを着ていた。
花宮はとても驚いた。すぐに彼女の身分が分かったが、そんな人がこの家へ訪ねてくる用事は思いつかなかった。何も声が出ない。
少女はすぐに扉が開いたことに気がついて振り向いた。
「あら?」
少女は花宮を見とめると上品に微笑んだ。
──恐ろしい、とまず思い、次に可愛らしいと思う。恐ろしいと思うのは、彼女の身代の前では人間などちっぽけな存在だから。
「こんにちは!」
少女が大きな声で言ったから、花宮はびっくりしてつい後ずさった。少女は満足そうに鼻を小さく鳴らした。
「花宮一也くんだよね?」
「……はい」
「ふうん」言って、少女は面白そうに、探るように花宮を眺めた。「貴方は、どうして私がここへ来たのか見当がついているのかな?」
「わかりません」
天使が人の前に姿を現すのは、どういう時なのだろうか……。他の天使がそうであるように、目の前の少女にも翼はない。
風がそよ吹いて家の内へ入った。少女からはうっすらといい匂いがした気がする。
「そうだよね」少女はさして感情もなさそうに頷いてから、「入ってもいい?」
え、と思った。だが花宮は、そう考えるが早いか、はい、と呟いていた。
少女は部屋に入ると座りこみ、軽く足を崩した。背を立たせた姿勢で、部屋を面白そうに見ている。
「私、こんな所はじめてきたよ」
花宮はテーブルに向かいながら、横目で少女を伺っている。
「あの、ご用件は……?」
「あ、そうそう!」言いながら少女は腰を浮かせ、仏壇の方へ這う。仏壇を見ながら背後の花宮へ言う。「私たちが人間の前に降るのは、そうですね、大抵は何かを壊すときです。……あるいは、奪う時? でも、実はもう一つの理由があったんです。……これは、お母さま?」
「……はい、ついこの間死にました」
少女が軽く振り向いた。
「それはお気の毒に」
「いえ、もう慣れましたから」
少女は目を軽く伏せると、立ち上がる。
「私は斎藤静玖、あなたに私たちの仲間になる名誉をお届けに上がりました。つきましては、私と一緒に来て頂きたい」
花宮はがつんと頭を打たれた気がした。彼女からは死を賜ることすら考えていたのに。
その様子を見て、静玖はくすくすと笑う。
「驚いてるのね?」
「お、おれが……なんで?」
「あなただけじゃないよ。もう少しだけ、多くの人が呼ばれているの。貴方は人間から、人間じゃない存在になれる切符を手にした、幸運な人のひとりってわけ」
静玖はテーブルの食事を見下ろしている。
「あのう、その」
花宮が口籠ると、静玖は言った。
「でも、言っておくと、断れないよ」
花宮は食事を済ませぬ内に、静玖についていくこととなった。とりあえず、と内心で自分に言い聞かせながら、花宮は出発の用意を済ませる。
「さあ、準備は出来たね」
少女が先んじて居間から出ようとして、振り返った。
「あ、待ってください」
そう言って、花宮は仏壇の、母親の写真を父親の写真の隣に並べた。直ぐに返ってこれると思うけど、それでも不安だから、父親の隣にいてほしかった。
花宮が動作を終えて振り返ると、静玖がこちらを向いていた。
「死、ですか。……きっと悲しいのね。……そういえば、私にも、大昔にはそういう感情があったような気がします」
静玖が着ているガウンは、天使だけが着れるもの。黄地には、正面に竜、背後に二つの翼が刺繍されている。刺繍は見事で、その絵柄は生き生きとして、まるで輝いているようだった。