魚とりの事
どこかで川の香りがする。
濡れた小枝の匂い。
細石の上に申し訳程度に敷いた草と小枝が彼の背の痛みを和らげるため儚い努力をしていた。
「ここは」
拙くはあるが手当てがされている。
「起きたか。次郎兵衛」
井出丸が濡れ細った姿のまま歯を鳴らしつつ呟く。
その手は血豆だらけ。なんとか見よう見まねで火を起こそうと努めてくれたらしい。
「井出丸さま」
このような子供に、若造とはいえ歴戦の忍びが助けられてしまうとは。小太郎が耳に入れればなんと言うか。
「おいでとよべえ」
「はっ」
思わず彼は井出丸から目を逸らした。
このようなことがなかったわけではないが、いやしかし。
彼はあえてこれ以上の追求は避ける。
燃やそうとしていた枝は幹と言っていい太さだしそもそも濡れている。これでは火がおきるはずがない。
しかし井出丸は彼のために、凍える手のひらを血に染めて必死で炎を熾こそうとしてくれたのだ。
この畜生胎の下忍如きに高貴な者である井出丸が。
彼は敵より奪いしひぐすりを出す。
精巧な金属細工であり弾と一体化した奇天烈ながら合理的なものだった。
このようなものは日の本にはない。
そして幸いなことにひぐすりは濡れていない。
「火が!」
「井出丸さまが先に用意してくれましたので楽に点きました」
嘘だ。
だが人を傷つける嘘ではない。
この小さな炎。
赤子の小さないのちのように、小さな炎ですら誰かの胸を温めるに足る。そんな嘘。
炎を欲していたのはむしろ井出丸であろう。
濡れ細る服を脱がずにいたのだから病になるやも知れぬ。
しかし替えの召物などない。
伊庭者どもから奪っておけばよかった。
奴らの服はとても質が良い。
靴などは入らずとも服なら腰紐などで巻きつけることもできよう。
井出丸の細い腰回りに視線をやってしまい次郎兵衛は睨まれた。
「魚をとった。焼けぇ」
確かに厳しい寸暇をもって魚釣りをした。
川の水を石で囲んだ簡素な生簀に魚が踊っていた。
畜生や魚とて死ぬまで足掻くもの。
そのうちのいく匹かは跳ねて逃げたという。
ーー食べぬのですか。
食べん! そんな汚らしいもの!
ぐう。
うまいですなあ。うまい。ほんとうにうまい。
わしは汚らわしい下忍ゆえ気になりませぬが、この油具合といい土の苦味といい、川魚とは思えぬ美味です。
少し干しておきましょう。
ひょっとしたらわたくしめが目を離しておる間に獣か鳥か妖がたべるやもしれません。おそろしやおそろしや。あやかしを見ると目が潰れますゆえあちらで目を閉じておきましょうかなーー
そののち魚は消えていた。
その時の井出丸のほおは大きく膨らんでいた。
そのようなやり取りを繰り返す中、いつのまにか覚えたのだろう。魚を火にかけていくと井出丸は笑う。
「いつかもぐら取りなどもできよう」
井出丸は微笑む。
「さて、どうする次郎兵衛。わしは、わしらはどうして生きようぞ」