伊庭忍法御伽草子の術の事
井出丸は彼の道具に触れた。
何者であっても忍び道具の秘密を知られるもの知った者は死なねばならぬ。しかしながら井出丸が触れたのは女化粧だった。
「どうじゃ」
最後を悟ったもののふは死化粧を施すが、紅をでたらめにひき、歯黒を食ったその姿は実に面妖であり。
「よ、良いと思います」
「ふむ。ここに鏡はないが、私は母ににておるからな」
戯れはそこそこに。
今夜もまた逃亡中に見つけた苦く固い菜根を齧り、鼠の肉を食い、そして明日も戦わねばならない。
囲みは徐々に彼らに近づいている。
「くるよ」
「?」
「こわいのがくるよ。おとうさんを殺しにくるよ」
焦点の合わない瞳で井出丸が呟く。
彼は、乱波に過ぎない彼は貴人を抱きしめてやることも許されぬ。
井出丸とみっつめの峠を越えた時だった。
「こわい……」
蕩然とした井出丸の不気味なことば。
首筋が焼ける感覚を受けた彼は咄嗟にしゃがんだ。
音より早くそれはきた。
耳の奥が砕けるような音に感覚を失って二人は泥の中で喘ぐ。
頭を上げると巨大な樹が砕けている。
ばばばばばという面妖な爆音が迫ってくる。
果たしてそれは鉄の鳥であった。
翼はなく、頭の上で何かが回る、いすぱにやか何処かの妖術で動く鳥。
「平離殺舞大亜じゃ!」
まさしくこれぞ噂に聞く、伊庭の秘法御伽草子の術である。
異形の鳥、それだけではない。
足がない代わりに百足を思わせる盾板を回して迫る鉄の車。
幾重にも連射され音静かなるおぞましき鉄砲。
馬なく走る鉄の車。
それらが容赦なく二人を追ってくるのだ。
「井出丸さま。手を!」
未だ耳を押さえてのたうつ井出丸の手を取り抱え上げ、ふらふらと走る次郎兵衛。
その背後を狙い放たれる鉄の嵐。
「きた。きた。ころしにきた。みんながしんでいく」
そうそれはまさしく鉄と炎の嵐である。
それはひぐすりの臭いとともに獣を屠り鳥を落とし草を燃やし樹々を貫き岩を山を更地にする。
ぎゃっこ。
ぎゃっこ。
山を森を林を踏み潰しそれらは現れた。
くろがねの巨大な四本足は次郎兵衛の4倍近い高さがある。
その上には白い漆喰塗りの物見台。
物見台に据え付けられた大砲が山を砕いて直線に進む。
その鉄砲狭間からも幾重もの霊斬が放たれる。
この得体恵手跳闘架台から次々と追加の敵が現れる。
その敵はもはやひとの姿をしておらぬ。
鉄の蜘蛛。鉄の鳥ども。それらが雲か海をおおうシラス魚の如く迫るのだ。
「!」
振り返るとともに次郎兵衛は苦無を投げる。
へりこぷたぁには効果はないだろう。
走る。走る。
未だ生きているということはあやかしの仕業か。
負け組次郎兵衛。負け組井出丸を背負う。
井出丸はうわごとを放ち続ける。
未だ意識を取り戻せぬ。
小さな煙幕も撒菱もさしたる効果はない。
奴らの足には分厚い皮か鉄かわからぬ頑丈で柔軟な素材の靴がある。
撒菱とは乾燥した菱の実に過ぎない。せめてこれが鉄なれば。
苦し紛れに目玉と思しきところになげる。