伊庭峠の死闘の事
「井出丸さま。先にゆきます。あなた様だけでも長らえてください。天寿を全うしたらわたくしの故郷の大陸のこと、たくさん話して……」
井出丸が懐いていた黒力丸は伊庭峠の戦いにて壮絶な戦死を遂げた。武人の誉、次郎兵衛すら感嘆する立ち往生である。
いすぱにやから来た奴隷として訪れた彼は、かの信長が此乃潟守に賜った、剛力無双にして黒曜石のように煌めく肌と七尺近い身体を持つ、小国此乃潟において他領にまでその名を知らしめた自慢の家臣であった。その重さは次郎兵衛の4倍近く、凄まじい筋肉を誇っていた。
黒力丸だけではない。
親しかった乳母お止めは身を挺して彼を守った。
母富嶽院は下郎どもに身を委ねて我が子の隠れる籠を守った。
父伊州もまた畳に刺した名刀10振りをかわるがわるを手に取り直し戦い、槍衾に守られた鉄砲と弓の前に散った。
井出丸を守って乳飲み兄妹である株丸、おたまも幼い命を散らした。
「生きてください……そして必ずお家を」
その地獄を全て井出丸はおのれの目に焼き付けていた。
無邪気に振る舞い、遊ぶ井出丸は夜毎その夢にうなされている。
次郎兵衛は幼き時よりの己の虐待の日々を想い、またこのいたいけな幼い子の境遇に。
「やはりこの任務は失敗じゃあ」
と、頭で思いつつも自分のムシロをかけてやる。
『強い子じゃ。さすがは小国ながらも金山を持ち、武勇を誇った此乃潟守様の子である』
などと外面だけでは気の利く小太郎なら褒めるだろうが生憎次郎兵衛にはそのような機微はない。
少しだけめしの量をわけてやる。
危険を顧みず可能な限り休憩をとってやる。
他の子供と遊んでいる時は距離をとりつつ見守る。
畜生胎の下忍にできることは少ないのだ。
親より受け継ぐ秘術もなければ秘伝も持たない。
文字すら満足に読めない乱波の一人に過ぎない彼には。
なんと弱く脆いのじゃ我は。
いやひとは、この世はなんと悲しく苦しくそして辛いのじゃ。
このような幼子になぜここまでの地獄を見せる。
我は良い。幼き時よりそうだった。
だがこの子は、最大の幸せを受けて育ち、それを無惨に奪われた。
彼は寒風の中、なんとか逃げつつ集めた薪を割る。
神も仏もあるものか。
なのになぜじゃ。なぜこの子は神の加護を未だ信じておるのじゃ。
怒りの火は燃えて虚しく冷き灰を残す。
飢饉かあるいは戦乱か。
主人を失った農家の端で古びた鍋をかき混ぜやるせない思いに次郎兵衛はふける。
今日は四人殺した。
明日はわからぬ。