【第一巻 秘法御伽草子の術】
……喉元に黒い刃が迫る。
それを直接見ずに手持ちの鋤に挟んで投げて逸らす。
次郎兵衛は下忍である。
死ぬような理不尽にも初恋も命令あらば従う。
下忍には現代でいう人権などない。
「小太郎様御戯れを」
次郎兵衛はあえて笑う。笑わねば殺される。
「見事だ次郎兵衛。あとでこい」
小太郎が彼の屋敷に下忍を呼ぶと言うことは間違いなくろくでもない。お絹を寄越せとかカエルを膨らませて破裂させようとか蟻を踏み倒して遊ぼうとか。後半は幼い時の記憶だが。
下忍如きは土間の敷居を跨ぐことも許されぬ。
彼は寒風吹く小太郎の屋敷の外に座る。
実に『ありがたい』ことにわざわざ川下から拾ってきたらしい細石が彼の脛を傷つける。
「次郎兵衛。おもてをあげえ」
「滅相もございません」
素直にあげれば殺される。
小太郎とはそのような男である。
忍びは武士の中では最下級だが、それゆえに忍び同士の身分差にうるさい。むしろ理不尽なほどだ。
『勝ち組につくこと』
これは若き、いや幼き頃より次郎兵衛の信念である。
「貴様は先のいくさで此乃潟城が落ちたのは存じておろう。その遺児、現此乃潟守井出丸様をお守りせよ」
悲しいかな次郎兵衛には選択の余地などないのだが。
だから今回のように生きて帰れぬ任務を受ける。
「承知」
「井出丸様はわずかな共の者とともに近く伊庭峠を抜ける。伊庭者たちから井出丸様をお守りするのだ」
伊庭は忍びのものが多く住まう土地である。
「それから、本件はおまえの単独行動であり、我ら真中の里は無関係であると知れえ」
「無論のこと」
つまり子供一人を守ったふりをして里のため死ねと言うこと。
伊庭者達はいずれも強力な術を使う猛者揃い。
小太郎のようなものは生来の術を持つ。また上忍中忍は身分に応じた優れた術や道具を学べる。
畜生腹の次郎兵衛はそのいずれでもない。
「御免仕る」
「まて、次郎兵衛」
次郎兵衛の無精髭が残る頬が動く。
いつのまにかそばにいた小太郎が髷を掴んだからだ。
彼の干からびた唇が塞がりあらゆるこたえは虚しくなる。
「このぬくもりを忘れる前に帰ってこい」
小太郎はニヤリと笑うと『往ね』と命じた。
この時代にしては男色の趣味がない彼は何も答えなかった。もとより発言は許可を得ていなければならないが。
だから、彼はこんなことをしている。
「あめー。あめはいらんかね。美味しいですよ!」
「次郎兵衛。腹減った。さっさと売り上げるのだ!」
井出丸は次郎兵衛の膝の裏を蹴る。
わざと膝を曲げ大袈裟に崩れて抗議する次郎兵衛。
「御戯れを井出丸様」
「ええい。内密なのじゃ。井出丸でなく、おいでと呼ばんか」
髪を童風にして粗末な召物をまといふんぞりかえる彼はどう見ても次郎兵衛の子供には見えないが、そう言うことになっている。