「献血? 私も行く!」という言葉を聞いた須臾な間、僕は彼女を少し見直したのですが、
「献血? 私も行く!」という言葉を聞いた須臾な間、僕は彼女を少し見直したのですが、直ぐにまた評価を下げました。何故か、「あなただけずるい!」とか言い出したからです。因みにその彼女というのは、同じアパートの隣の部屋に住んでいるちょっと煩い性格の迷惑な隣人で、僕はいっつも困らされています。
喋ったり、動いたりしなければ、それなりにいい顔立ちでスレンダーな体形をしていて、魅力的と言えなくもないのですが、喋らないでじっと動かないでいられたらそれはそれで気になって仕方ないので、やっぱり駄目かもしれません。
とにかく、廊下ですれ違った僕に対し、彼女が「何処に行くの?」と訊いて来たので、僕は「献血に行くところ」と答えたのです。すると彼女は「献血? 私も行く!」と返して来たのでした。
僕は彼女が他人の為に血液を提供するような性格ではないと思っていたので、先にも述べた通り、それでちょっと見直したのですが、これも先に述べた通り、続けて「あなただけずるい!」なんて言い出したのです。
……献血のどこにどんな狡い要素があるのか、僕にはまったく分かりませんでした。もしかしたら、何か品物が貰えるとでも思っているのでしょうか? 残念ながら、財政難なのか最近はそういうのは減っています(貰えない訳じゃないのですけどね。お菓子とかジュースならたくさんありますし)。
とにかく、彼女が付いて来るというのなら、拒否する理由はありません。ただ、献血ルームに着いてから何も品物を貰えないのに憤慨し「無駄足じゃない」とか文句を言われても嫌なので、「一回目だと、多分、何も貰えないよ?」とも言ってみたのですが、「何言ってるの?あんた」と不思議そうな顔で馬鹿にして来ました。言わなけりゃ良かったです。
少し心配していたのですが、献血ルームに着くと彼女は大人しくなりました。流石の彼女でも公の場ではわきまえるのかと思ったのですが、どうやらこれから「血を抜く」という現場を目の当たりにして、俄かに緊張をし始めたようです。いつもこうなら良いのに。
僕はよく献血に行くので、特に緊張はしませんでした。年に二回は行くようにしています。何故二回なのかと言うと、400ml献血の場合は期間を空けなくてはいけないからというのもあるのですが、それ以上にお小遣いを貯めるのに時間がかかるからでもあります。
こう書くと、何故、献血と貯金が関係あるのか不思議に思う人もいるかもしれませんが、献血が有料なんて事はもちろんまったくミジンコほどもありません。それどころか、さっきかっこ内で説明した通り、お菓子は食べ放題だし、ジュースとかお茶とかも飲み放題だし、漫画なんかも読めたりします(コロナ19の影響で、制限されていたりもしますけどね)。
実は僕が献血に行くのは、献血にある大きなメリットがあるからなんです。だから、今から家に帰った後が楽しみでなりません。その貯めたお小遣いを利用して、既に家に準備は整えておいてあるのです。
「うっひっひ」と僕は笑います。
思わず笑ってしまったのですが、そんな僕を青い顔で彼女がふと見ました。今回は流石に「気持ち悪い」とか罵倒されても僕が悪い気がしたのですが、彼女は何も言わずにただ黙って看護師さんが作業している方を向き、順番が呼ばれるのを待っていました。
……もしかしたら、相当に恐怖しているのでしょうか?
「あのー…… 無理しなくても良いですよ? 怖かったら帰っても」
献血の直前で恐怖に耐えられなくなって帰ってしまったおじさんを目撃した事があります。その時看護師さんは何ともいえない迷惑そうな顔をしていました。準備を整える手間もあるでしょうからね。迷惑をかけるくらいなら、今ここでリタイアしておいた方が良いでしょう。
がしかし、「冗談じゃないわよ!」なんて彼女は返すのです。声が大きい。ちょっとびっくりしてしまいました。
「絶対に血を抜いてもらうんだから」
なんて呟きます。
なんだかよく分かりませんが、ただならぬ覚悟です。何が彼女をこうさせるのでしょう? まぁ、献血するだけなのですけどね。
その後も、彼女は始終緊張した様子でしたが、血圧を測り、問診を受け、事前の検査もなんとかクリアして(体重が軽い人は、アウトになる場合もあるのです)、無事に献血を終えました。
「ご苦労様」と僕が言うと、「ふっ やってやったわよ」なんて返します。何をやったのかは分かりませんが。いえ、献血をやったのは分かっていますが。
さて。
そうこうして僕らはアパートに帰りました。
そしてアパートの僕の部屋では準備が整っています。後は夕食の時間を待つだけです。夕食。そう、夕食です。僕が楽しみにしていたのは実は夕食で、そして献血の大きなメリットというのは、当にその夕食に関する事なのでした。
夕暮れになり、時間が来ました。僕は冷蔵庫から和牛を出します。適度な厚みに切り揃えてあります。見た瞬間に涎が出ます。
一枚ずつプレートに置き、焼きを入れます。いい匂い。塩コショウ、タレ、ポン酢。様々な調味料を出し、それらを焼けたいかにも美味しそうな肉につけて食べる。
「うまー!」
思わず声を上げました。
……ある時、気まぐれで献血をしたのですが、その時に僕は発見してしまったのです。献血をすると、その後の飯が物凄く美味しく感じる事を。
もちろん、それこそが僕が言う献血のメリットです!
それを発見して以来、僕は最大限に和牛を食べるという贅沢を楽しむ為に、貯めた小遣いで和牛を食べるその日は献血をする事に決めているのでした。
さぁ、二枚目!
しかし、そう思って箸を肉に伸ばした瞬間でした。
「美味しそうな匂いをさせているんじゃないわよぉぉぉぉ!」
と、大声を上げて隣の彼女が玄関から乱入して来たのでした。しまった。鍵をかけておけば良かったです。
え? なに?
それから彼女は有無を言わせない勢いでずかずかと上がり込んでくると、箸を強引に掴み、そしてそれでいい感じに焼けている肉をつまむと、素早い動作でポン酢につけ、豪快に口に運んでしまったのでした。“もんぐもんぐ”といった効果音でも響きそうな感じで僕の和牛を咀嚼しています。
「ちょっとぉ! 何やってるのぉ?」
涙目になりつつ、僕は当然の抗議をしたのですが、そんな僕に彼女は「それはこっちの台詞よぉ!」などと逆ギレで返すのです。怒ろうかと思ったのですが、なんでか泣いているので、何も返せませんでした。
続けて二枚目も口に運びます。
「あー!」
と僕は叫びます。
僕の肉がぁ~
もちろん、文句を言おうと思ったのですが、その前に彼女は「ダイエットしてたのにぃ。ダイエットしてたのにぃ」なんて繰り返し始めたのでした。
「ダイエット?」
まさか、と僕は思います。
「もしかして、君が今日献血に付いて来たのって、ダイエット目的?」
恐らくですが、血を抜けば、当然、その分だけ体重が減るからダイエットになると彼女は考えたのでしょう。
「ダメだって! そんな事をしたら! 絶対に危ない。献血の後はちゃんと食べないと!」
因みに、検索をかけてみると献血にダイエット効果はないと多くのサイトで説明してあります。仮に効果があったとしても、危険過ぎるから止めておいた方が良いでしょう。
僕は流石にもっと叱ろうと思ったのですが、「だから、こうして食べているじゃないのぉ」なんて言って彼女は肉を食べ続けています。
多分、献血で昂った食欲に耐えているところに、僕の部屋の和牛焼き肉の美味しそうな匂いが彼女の部屋に漂って来たのでしょう。僕がこうして肉を焼かなければ、献血後に食事制限するという危険な行為を彼女はしてしまっていたのかもしれません。
肉を焼いておいた良かったのかも……
なんて血迷って(献血だけに)、僕は思いかけてしまったのですが、
――いや、良くない。
と、直ぐに正気に戻りました。
なんで当然のように僕の肉を食べているんでしょう? この人は!
因みに、献血にはデトックス効果があると説明している美容サイトもありました。が、信頼できるかどうかは正直分かりません。
”須臾”という言葉があると知ったので、忘れないうちに使っておきました。
献血後の三日間くらいは妙にご飯を美味しく感じるので、検索をかけてみたら、お医者さんのサイトかなんかでもそう書いてあったので、多分、一般的な現象だと思います。一番のメリットかも。