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あじさい

 柵の隙間からこぼれそうな白い紫陽花が咲いていた。もうそんな季節か、と内海(うちみ)は思う。

 今の学校にはこの四月から赴任したので、紫陽花が通勤路で出迎えてくれるとは初めて知った。交差点まで一区画分続く花の羅列に、これまで意識しなかった住宅の大きさを知る。

 ずらりと並んだ無色の紫陽花は、花ぶりこそ大きいもののやはり青や紫のに比べれば味気ない気がした。

「おはようございます」

 不意に、花垣の向こうから人の声がしハッと顔を上げる。そこには、変わった鋏を片手に持つ女がいた。年齢は、内海と同じくらい。

「あっ、おはよう、ございます……」

 人の庭をじろじろ見ていたきまりの悪さから、声がすぼまる。普段元気に挨拶しましょうと指導する立場なのに情けない。

 庭に下りたのを気付かなかったのか、それとも植木の陰に隠れていたのか、急に姿を現した住人は内海の居心地の悪さに頓着せずにこやかに話しかけてきた。

「お花、好きなんですか?」

「えっ、あっハイ」

 嫌いではないのは確かだが、好きと断言するほどの熱量はない。しかしほぼ反射のように肯定してしまう。

「なら、紫陽花いかがですか?」

「いいんですか?」

「ええ、少々お待ちを」

 庭の主は手中の鋏で手近な花をパチンパチンといくつか切り、家の中へ戻っていった。それから数分後、内海に手渡されたのは新聞紙にくるまれた紫陽花だった。茎の断面にはアルミホイルが輪ゴムで巻かれている。すぐには花が萎れないよう、丁寧に処置までしてくれたようだ。

「ありがとうございます。子供達もきっと喜びます」

 即席の花束を抱え内海はその日職員室へ出勤した。それがこの家に暮らす美山との出会いだった。



 花を貰ってから最初の週末、内海は美山の家のチャイムを鳴らした。

「はい」

「先日お花を頂いた者です。お礼に伺いに来ました」

「まあ、少し待っててください」

 ブツリとチャイムの接続が切れる音がして暫くすると、門の向こうの玄関が開いた。

「わざわざご丁寧にありがとうございます。気にせずともよろしかったのに」

「いえ、そんなわけにはいきません。これ、お口に合うといいのですが」

 門扉も美山の手によって開けられたので、内海は近所で評判の洋菓子店のロゴが入ったケーキ箱を渡す。

「こんなに立派なものを……よければお茶を飲んでいってください」

「お気遣いなく。ご家族で召し上がってください」

 受け取った美山は箱の大きさに驚いたようだ。何人で暮らしているか不明だが、少ないよりはいいだろうとふんでのサイズだった。決して自分がご相伴にあずかるためではない。

「それなら尚更。うち、一人暮らしですの。こんなには食べられませんし、折角ですから、ね」

 そう言ってにっこりと人の好い笑みを浮かべる美山にこれ以上ノーを繰り返すのも失礼かと、半ば根負けのような形で内海は門の向こう側、紫陽花の咲き誇る立派な敷地に足を踏み入れた。


 門からそのまま庭に設置されたテーブルに内海は案内された。座って待つよう言い残した美山は窓から室内に戻り、やがて銀盆を両手で運びながら戻ってきた。優雅な手つきで、盆から買ったばかりのフィナンシェと淹れてくれた紅茶が目の前に並べられる。

「なんだか申し訳ありません……お礼に来たのにもてなされてしまって」

 改めて内海は詫びる。

「いえいえ、一人暮らしですから少し誰かとお話ししたくて……慈善事業だと思ってお付き合いくださいな」

 あえかな微笑みは同性でもうっかり見惚れてしまうほど華やかだ。

 そこから暫くは他愛ない話が続いた。

 異動に伴い今春この町に引っ越してきたこと。

 紫陽花は家を購入した当初から植わっていたものの手入れされていなかったこと。

 初めての学年主任に緊張していること。

 趣味はガーデニングだったため広い庭で種々の花を育てる傍ら紫陽花にも手をかけたこと。

 甘いものに目がないため美味しい店舗を探し歩いてこのケーキを見つけたこと。

 この店は知っていたが今まで足を運んだことがなかったこと。

 評判のフィナンシェの味は確かで、紅茶はそれにふさわしく香り高い。青い花のあしらわれたカップをソーサに戻した美山は「内海さんは」とわざわざ名前を呼んで切り出した。

「学校では何を教えてらっしゃるの? 国語? 算数?」

「小学校勤務ですので音楽や体育も教えますが、免許は国語で取りました」

「それならちょうどよかった。私、タイトルが思い出せない小説がありまして。先生なら分かります?」

 こちらの教養を試される話題に一瞬緊張が走るが、曲がりなりにも教える立場としてのプライドでそれが表に出ないよう押しとどめ滑らかに会話を促す。

「どんな話です?」

「なんだか物騒なタイトルで……確か桜が出てくる内容でした」

「それならきっと」

 すぐに見当がついたタイトルを口にする。

「ああ、確かそれでした! やっぱり先生はすごいですね。すぐ分かるなんてさすがです」

 大したことをしたつもりはないのに過剰に褒められてしまった。気恥ずかしいような恐れ多いような。

「桜の下に死体が埋まっているなんて不気味でなんだか印象に残ってたんです。すっきりしたわ」

 気がかりが解決した美山はカップを口元に運び紅茶をおいしそうに味わう。

「国語の先生を前にして本のお話をするのは緊張するんですけれどね。私、この小説結構好きなんです」

「あまり楽しい話ではないですけど、人気のある作品ですよね。私も好きです」

「先生は、死体があるから綺麗な赤い花が咲くなんて荒唐無稽だとお思いですか?」

 先程とは異なる物語の本質をはかるような質問。これは、「文学」として聞かれているのか「科学」として聞かれているのか……しばし考えあぐね、率直に述べた。

「あまり現実的ではないかな、と。死体と桜は何かの喩えで、現代なら他者を踏みにじって成功するみたいな暗喩に読めそうですよね」

 美山はそこでソーサにカップを音も立てず上品に置いた。それは、新しい話題が始まる合図だった。

「では先生。紫陽花の下に死体が埋まっていたら、その花は何色になるのでしょう」

 国語の次は理科か。普段教える立場の内海は、小学生になって授業を受けている気分になってくる。

「血を吸うから赤くなる……とか?」

 名作に則り安直に回答を提示する。

「それがね、青くなるんです。調べたら死体は酸化するから、つられて土壌も酸性になるそうで。紫陽花は土がアルカリ性なら赤、酸性なら青になるんですよ」

「リトマス紙とは反対なんですね、ややこしい」

「ほんとうに。そういえば、レモンを入れると色の変わる紅茶があるんでした。これも酸性とアルカリ性、赤と青が関わるんですよ。折角ですからお飲みになって」

「そんな、お構いなく……」

 言い終えた時には美山は既に室内だった。いまいち彼女の真意が掴めない内海は、そろそろお暇したくなる。

 待つ間、暇潰しに庭に目をやった。ゆっくりと隅から隅まで目を凝らす。青々と輝くような葉に、無彩色ながら控えめな趣を醸す真っ白な花の群れ。何度見ても立派なな花垣だ。

 ふと、視覚が違和感をキャッチした。違和感の正体を突き止めようと視線が一点に結ばれる。

 地面に近い低い枝で、葉に隠されるようにそれはひっそりと咲いている。内海は一瞬別種が植わっているのかと勘違いした。花の色は不釣り合いなほど真っ青だったから――――

もともと白い紫陽花は土の成分に左右されず一貫して白いままなので、この話はファンタジーです。

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