別れ
ふたりだけの会話がなされてからほどなく、十二月の寒い日のこと、父王の部屋にヴィネリアの声が響いた。
「ブラガンサの国王を迎えるなんて、お父さま、正気の沙汰とは思えません!」
「いや、しかし……」
詰め寄られた国王が、傍らの宰相に助けを求めるような目を向ける。
「ヴィネリアさま、王女とはいえ、陛下に『正気の沙汰』とはご無礼ですぞ」
「おまえは黙っていなさい!」
「いやいや、隣国同士、友好を結ぼうというめでたい話に、何がご不満なのやら」
「『友好』? 笑わせないでちょうだい。おまえはブラガンサに、このパトリアの内情を探らせたいだけでしょう。お父さま、こんな男、自分の利益のためなら、国どころか肉親さえも売り渡しかねませんわ」
しかし、どれだけ訴えても、王女と宰相の板挟みである国王はただうろたえるだけであった。あげく、前もって宰相に言われていたとおり、王女として「国賓」をもてなすようヴィネリアに命じたのである。
その一件以来、王女は父王と口も聞かず、目も合わせず、完全無視したまま年が明け、灰色の空から雪がちらつく一月の夕刻、ブラガンサ国王はパトリアの王城の門をくぐった。侍従や侍女は連れず、護衛と称する兵ばかりがやたらに目立つ一行であった。
「これはこれは、ブラガンサ国王陛下、ようこそお越しくださいました」
もみ手で迎えたのはヴェルザーである。
「宰相どの、わざわざの出迎え、大儀である。このたびはおぬしの妹御を同行させたぞ」
「お兄さま」
国王に続いて馬車から降りたのは、妻子のいないヴェルザーにとって唯一の肉親であるカロレーヌである。齢は三十をとうに過ぎてはいるが、その豊満な体と閨の技だけでなく、ほかの妾たちを様々な策を弄して追い落とし、国王の一の寵姫の座をつかんでいた。
「今宵はお部屋にて長旅のお疲れを癒してくださいませ。明日には我が国王陛下との会談をご用意しております」
「うむ」
従僕のようにかしずきながら、ヴェルザーはみずからブラガンサの国王と寵姫を案内した。
一方でヴィネリアは「体調不良」を理由に姿を現すことはなかったが、その命令により、ブラガンサ一行は最高のもてなしを受けた。城内は豪華な調度品や花々で飾られ、自国では手に入らないような酒と食事でもてなした。その国力の差に同行の兵たちは憧れと妬みを抱きながら、しばしの快楽に浸っていた。
翌日の会談では、具体的なことは何も決まらない形だけの「友好」を交わし、次の夜には国中のおもだった貴族や官吏を集めての夜会が開かれた。
「ヴィネリア王女殿下、ご入場でございます」
最後に、大勢の女官を従えたヴィネリアがようやく姿を現したとき、その場にいた人間は全員が息をのみ、特にカロレーヌは目を見張った。王女の輝かんばかりの気品と瑞々しい若さに彩られた美しさにだけではない。ヴィネリアがまとっていた衣装は、カロレーヌのそれと同じデザインだったのである。
ヴィネリアはカロレーヌに付けた侍女に、ブラガンサから宴のために持参した衣装を探らせたうえで、この二日間、御用達の仕立屋を総動員して同じデザインのものを作らせたのである。その上で、素材や宝石類も、国や、それを身にまとう人間の格の違いを見せつけるかのように、最上級のものを装っていた。
「ヴィ、ヴィネリア、そなたはなんという……」
父王までもが言葉を失うなか、ヴィネリアは玉座の前に悠然と進み出て、言い放った。
「お父さま、これがわたくしのブラガンサへの『答』でございます」
そして、呆然とするふたりの国王と、その傍らで引きつった表情のまま固まっているカロレーヌに向かって優雅に微笑みかけると、踵を返し、さっさと退場したのである。
その後、残された人間たちと場が白々と興ざめしたのは、言うまでもない。
ブラガンサという「招かれざる客」が帰ったのち、パトリアの王城に、今度は「珍客」が現れた。
「ははは、あなたらしいと言えば、あなたらしい」
珍客とは、イーディアのフェスティール王子だった。供をひとり連れただけの「おしのび」で、婚約者に会いに来たのである。侍女たちが噂をしていたように、黒髪に縁どられた端正な容貌は、身分を問わず、少女たちの憧れの的であった。また、右の瞳は黒だが、左は「蒼天よりも青く、新緑よりも鮮やかな緑」で、光の加減によってその色を変える様は、「幾千万の宝石にも勝る」と言われていた。
「ひと月も前のことで、わざわざわたくしを笑いにいらっしゃったのかしら。大国の第一王子ともあろうお方が、ずいぶんお暇ですこと」
対して、ヴィネリアは笑顔も見せず、澄ました顔で言い放つ。
「わたしより優秀な弟がおりますゆえ。それより、ブラガンサ国王がパトリアを訪れたと聞いたので、あなたのことだ、ただで帰すとは思っていませんでしたが」
「『招かれざる客』にふさわしい『もてなし』をしただけですわ」
「では、わたしも、ですか」
「そうお思いなら、ご自分からお帰りになったら」
部屋の隅では、ふたりの会話をアデルが不思議そうな顔で聞いている。
「しかし──」
あるとき、不意にフェスティールの表情が真剣になった。
「ブラガンサ国王は油断ならない男です。あなたが危惧されていることは、わたしも承知しているつもりです。くれぐれもお気をつけて」
フェスティールの訪問の真の目的はヴィネリアへの忠告と心配だった。一報を受けたとき、本来ならすぐにでもパトリアに赴きたかったのだが、「大国の第一王子」ともなれば行動にもなかなか自由はきかず、それなりの時間を要してしまったのだ。ただ、今はヴィネリアの不敵な笑みに、フェスティールもまた穏やかな笑みを返すことしかできなかった。
「そういえば、見慣れぬ侍女ですね。きみ、名は?」
「アデルです。あなたが、ヴィネリアさまがお嫁に行かれる王子さまですか?」
「よく知っているね。でも、見てのとおり、嫌われているみたいだけどね」
「それは『照れ隠し』というものですか?」
「アデル!」
ヴィネリアが思わず立ち上がり、一喝する。しかしアデルは平然としており、フェスティールのほうが思いがけない言葉に驚いているようだった。
「みんなが言ってました」
「お黙り! 『結婚』どころか『キス』が何かも知らないくせに、知ったふうなことを言うなんて百年早くってよ」
「知ってますよ~。『キス』っていうのは、好きな人同士が唇と唇を合わせることですっ。あ、ヴィネリアさまはしたことがあるんですか?」
「わたくしは……」
「ヴィネリアさまもないんだ」
「うるさい!」
ふたりが顔を突き合わせてやりあうのを、今度はフェスティールが不思議そうな顔をして聞いている。だが、あるとき、ふと気づくことがあった。ヴィネリアが「王女」から「少女」になっていたのである。普段、王女として凛とした態度を崩さない彼女が、年相応の少女のように感情豊かな表情を見せている──初めて目にするその姿に驚きを感じつつも、同時にフェスティールの中で無性に愛おしさが増していき、そしてその思いが抑えられなくなっていた。
「とにかく、おまえは──」
ヴィネリアが続けて何かを言おうとしたとき、不意にアデルの視線が自分から外れるのに気づいた。フェスティールが音もなくヴィネリアの背後に立ったのだ。
「!」
ヴィネリアの振り向きざまだった。フェスティールは彼女の顔を両手で優しく包むと、その唇を重ねた。
「───」
室内にしばしの静寂が流れたあと、今度は突然、それを破る鋭い音が響いた。ヴィネリアがフェスティールの頬を思いっきりひっぱたいたのだ。しかし、その頬は叩かれた相手のそれより紅く染まっていた。
「フェスティールさま?!」
フェスティールが庭で待たせていた供の前に現れたとき、城に仕える女性たちに囲まれて軽口をたたいていた金髪の青年は、その腫れた頬に目を見張った。
「どうなさったんですか?」
「これくらい、安い『代償』だよ」
「は?」
そう言って笑いつつ、馬にまたがったフェスティールは最後に城を振り返り、小さくつぶやいた。
「どうか、ご無事で──」
しかし、その想いはふた月も経たぬうちに打ち砕かれた。四月の風が強い夜、ブラガンサの国軍が突然、国境を超えたのである。
そのとき、パトリアの国王はまさにブラガンサとの国境近くの穀倉地帯の視察のため、近隣の離城に滞在していた。むろん、ヴェルザーの進言である。夜のとばりを破る急襲にろくな戦闘も行われず、国王の首級は早々に掲げられた。
また、ほぼ同時に、幾人かの貴族がそれぞれの領地で挙兵し、各地から集まろうとする国軍を足止めした。彼らはヴィネリアによって城を追われた者たちであった。
「ヴェルザー、正体を現したか!」
急報を受け、ヴィネリアは思わずうなった。急な視察が決まり、父王が城を出立したとき、彼女は恒例である母后の墓参のために都を離れていた。その機会を狙われたのだ。
弟がいる離城の護りを固め、すぐに都に戻ったものの、ブラガンサの進軍は怒涛のごとく、越境から三日後には王都の城門を前に陣を張っていた。「総攻撃」を予告した夜、国王の幕にはブラガンサ国王とカロレーヌ、そしてヴェルザーの姿もあった。
「ヴェルザー、王女はこちらの要求を呑むと思うか」
「もちろんでございます、陛下」
ヴェルザーがひれ伏すように、国王の顔色を伺う。ブラガンサがパトリアに要求したのは、「降伏」の証として王女を差し出すこと、それまでは無差別に攻撃を続けるという、まさに「侵略者」らしい一方的なものだった。
「戦闘になれば、兵だけでなく、民にも大きな被害が及びます。それを、自分ひとりの身を差し出すことで避けられるのなら、迷いはないでしょう」
「ふむ」
「ねえ、陛下」
あるとき、国王の隣の座っていたカロレーヌがしな垂れかかってきた。
「城を落としたあかつきには、わたくし、欲しいものがございます」
「なんじゃ、宝石か?」
「いいえ」
カロレーヌの目があやしく光る。
「ヴィネリア王女をくださいな」
「王女を?」
「はい」
意外な申し出に、ふたりの男が顔を見合わせる。
「どうするつもりじゃ。だが、殺してはいかんぞ。あれはイーディアに対する人質じゃ」
「殺しなぞしませんわ」
カロレーヌが楽しそうな顔で笑う。
「死ぬよりもつらい思いをさせてやりますわ。まずは、わたくしの目の前で兵士たちに凌辱させます。そのあとも生涯、男たちの慰み者にしてやりたいのです」
「………」
小さく、残酷な笑みを浮かべるカロレーヌを、国王は複雑な目で見た。が、すぐに膝を打ち、承諾した。
「よかろう。わしの『尋問』が済んだら、そなたの好きにするがよい」
「ありがとうございます」
喜ぶカロレーヌの肩を抱きながら、しかし国王自身もまた、あの若く美しい王女をベッドの上で「尋問」するさまを思い描き、ひそかに心を躍らせていた。
その深夜である。自分の幕に戻っていたヴェルザーを訪ねる者があった。
「カロレーヌ」
「お兄さま──いいえ、ヴェルザーさま」
甘えた声でヴェルザーの首に腕を回すと、唇を重ねた。
「こんなところへ……陛下はよいのか」
「『兄』と積もる話がしたいと言ったら、あの男は何も疑わず、送り出してくれましたわ」
「悪い女だ。だが、そのおかげでパトリアはわたしのものだ。これまでご苦労だった」
「少女のころからのヴェルザーさまの『手ほどき』のおかげでございます」
カロレーヌは、ヴェルザーがその器量を見込んで旅の芸団から買い取った少女だった。おのれの野心のため、貴族の娘としての作法や教育だけでなく、寝所での技能も教え込み、ブラガンサ国王に献じたのである。
「老いぼれを悦ばせるのは、もう飽き飽き。早くヴェルザーさまのもとへ帰りたい」
「もうしばらくの辛抱だ。かならず、おまえをパトリアの王妃にしてやろう」
「うれしゅうございます」
下卑た笑い声が、幕の中で小さくこだましていた。
一方、王城の中では、玉座に座るヴィネリアを前に、近衛兵や軍の司令官たちが口々に訴えていた。
「王女殿下、われらが時間を稼ぎます。なにとぞ、お逃げください」
「イーディアもすぐに援軍を送ってくれるはずです」
「いいえ、戦闘はしません」
ヴィネリアははっきり言いきった。
「あなたたちは城内の者を護衛し、西の離城まで避難させなさい。わたくしはイーディアに対する人質。ここにとどまる限り、ブラガンサも下手に手出しはできないでしょう」
「それでは、ヴィネリアさまが──」
「これは命令です」
その厳然たる態度に、御前の者たちはもはや反論も説得もできないことを悟った。彼らとて、この誇り高い王女がみすみす敵国の手に落ちるとは思っておらず、中には涙をこらえる者もいた。
城内の者たちをかならず守り抜くこととイーディアへの援軍要請を約束し、すべての人間が御前から下がったあと、残ったのはヴィネリアと女官長、そして──
「アデル、何をしているのです。おまえも早く行きなさい」
「ヴィネリアさまと一緒じゃなきゃ、いやです」
「わたくしに同じことを二度言わせるつもり? これは命令です」
「地下牢でも何でも行きます。孤児院で入れられた納屋よりきれいだし、ちゃんと食べさせてもらえるし、冬だけど寒くなかったし、わたし、平気です。だから──」
「アデル、近くへ」
ヴィネリアがひとつ息をつき、アデルの言葉を遮る。一方、アデルは言われて、ヴィネリアの目の前まで進み出た。
「わたくしをご覧なさい。これほどの気品と美貌を兼ね備えている人間なんて、そうはいなくってよ。たとえ幾千万の人間の中に混ざっていても、すぐにばれてしまうわ。おまえとは違うの」
本気とも冗談ともつかない台詞を澄ました顔で言ったあと、ヴィネリアはアデルの手に自分のロケットを握らせた。それは、彼女が私室でいつも傍らに置いていたものだった。
「おまえには『命令』より『約束』のほうが大事なようだから、わたくしと約束なさい。いつかイーディアのフェスティール王子に逢ったら、これを渡してちょうだい。それまでは、わたくしのもとにいたことは誰にも言ってはいけません」
「ヴィネリアさま、あたしからもひとつ、いいですか」
「なあに?」
「また、ここに戻ってきてもいいですか?」
「いいわよ」
ヴィネリアが優しく微笑む。それは、アデルが見たこともない表情だったのと同時に、これが王女の本来の姿なのだと確信した。
「行きなさい。振り返らずに」
「………」
アデルが退室したのを見届けたあとも、ヴィネリアはまっすぐ前を見据えたまま、女官長に声をかけた。
「女官長、頼んだわよ。けっして、わたくしをブラガンサに渡さないで」
「心得ております」
亡き王妃の幼少期から付き従い、ともに城に入ってからは二代に渡って女主人に仕えてきた女官長もまた前を向いたまま、しかしうっすらと微笑んで応える。それを聞き、安堵したような笑みを浮かべたヴィネリアは、そして立ち上がり、女官長を従えて従容と玉座の奥に消えていった。
アデルが目を覚ましたとき、自分がどこにいるのか、とっさにはわからなかった。慌てて起き上がろうとして、途端、足に激痛が走った。
「痛っ!」
足を見ると、左足首に包帯が巻かれていた。ゆっくりと上体だけを起こし、あたりを見回すと、自分がなかなか豪華な部屋のベッドの上にいることに気がついた。ただ、記憶は混乱しており、これまでのことを必死に思い出そうとしているときだった。
「おや、目が覚めたかい?」
不意に、召使いらしい中年の女性が入ってきた。
「あんた、パトリアから逃げてきたんだって? 大変だったねえ」
「あの、ここは……」
「ここはお館さま──フィリウスさまのお屋敷さ。あんた、丸二日、眠っていたんだよ。大丈夫。パトリアの人たちはみんな保護するようにお達しも出ているらしいし、安心して休むといいよ」
「でも、あたし、約束──痛っ」
「ほら、その足じゃ無理だよ。さ、まずはこれに着替えて。お腹も減っただろう、すぐに何か持ってきてあげるからね」
しばらくして、アデルが用意された温かい食事を取っていると、館の主人とその乳兄弟が入ってきた。
「お館さま、マクシムさま、お帰りなさいませ」
鎧を脱いだ平服姿の主人たちを認め、アデルの世話を言い遣っていた先の召使いが頭を下げる。フィリウスの館はパトリアとの国境にある森に近接しており、都からの命令はパトリアからの避難民の保護であった。
「アデル、といったかな。足の具合はどうだ?」
「少し痛いけれど、大丈夫です。助けてもらって、ありがとうございました」
「ところで、おまえ、ひとりで逃げてきたって言っていたが、家族はどうした?」
「家族はいません。あたし、あの……『ご主人さま』にお仕えしていたので」
「ご主人? 誰だ?」
「それは……」
言いよどむアデルに、フィリウスはそれ以上、追及しなかった。
「まあ、いいさ。ところで──」
フィリウスはベッドの脇に腰かけると、アデルの顎を持った。
「ホントに瞳の色が変わるんだな。珍しい」
ふたたび顎を上下させながら、フィリウスはふと、この少女が──初めて見たときは暗い森の中で、しかも彼女自身が泥と傷だらけだったのでわからなかったが、なかなか可愛いらしい顔をしていることに気がついた。
彼にとっては日常の、ほんの「挨拶」替わりだったのだろう。ほとんど無意識に、アデルの唇に自分のそれを軽く重ねた。
「フィリウスさま」
見慣れた光景とはいえ、マクシムが一応、たしなめる。しかし、顔を離したフィリウスの表情は怪訝なものだった。相手の少女がまるで無反応なのである。突然のことに驚いて呆然としているのかとも思ったが、どうもそうでもないらしい。
「おまえ……不感症か?」
「ふか…『ふかんしょう』ってなんですか?」
「……いや、なんでもない」
フィリウスは頭を掻きながら、ベッド脇から離れた。すごすごと引き下がってくる主人に冷たい視線をやりながら、マクシムがため息交じりに言う。
「フィリウスさま、いい加減になさいませんと、今度は刺されますよ」
「……そうだな。まあ、今回はまずかったかな。キスも知らない子供に──」
「『キス』なら、知っていますよ。『ご主人さま』がしたのを見たことがありますから」
フィリウスの呟きを耳ざとく聞きつけたアデルが、ベッドから口をはさんだ。
「おまえの主人って……そうか、名前は言えないんだったな。スケベじじいなのか?」
「いいえ、若い女の人です」
「ほお、どんな人だ。美人か?」
自分のことは棚に上げて、「若い女の人」と聞いただけで興味を示す主人に、マクシムがふたたびため息をつく。
「はい。とってもきれいな人です。髪は金色で──あ、でも、あなたのような蜂蜜色じゃなくて、そうですね、お日さまのようにキラキラしてて……目は宝石のような青色で、それから、頭もすごくいいんですよ。あたしたち下働きのみんなの顔も覚えていてくれてて、厳しいところもあるけど優しくて、誇り高くて、優雅で上品で、それから──」
アデルが堰を切ったように嬉しそうに語るのを、フィリウスは興味深そうに眺めていた。世辞と陰口がはびこる貴族社会で生きてきて、正直、これほどに、しかもどうやら本心から誰かを称賛するのを初めて聞いた思いだった。が、そんなとき、ふとアデルの変化に気がついた。
「それから、それから……」
「お、おい?」
アデルの瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていったのだ。そして、子供のように大声で泣きじゃくった。
「おい、マクシム、どういうことだ」
「わたしに訊かないでください。ただ、この様子では──」
「アデルか?」
マクシムが沈痛な表情を浮かべたとき、背後から別の男の声がした。ふたりの男が聞き覚えのある声に振り向くと、扉に立っていたのは彼らの主君──イーディア国の第一王子、フェスティールであった。鎧をまとい、都から軍を率いて、旧友が主人である国境のこの館に到着したばかりだった。
「これは、フェスティールさま。お出迎えもせずご無礼を──」
マクシムが膝を折り、頭を下げる。しかし、フェスティールはふたりの男には目を向けず、まっすぐにベッドのアデルのもとに向かった。
「やはり、アデルか。なぜここに。ヴィネリアどのは?」
「あ、ヴィネリアさまの……王子さま」
しゃくりあげながら、アデルはフェスティールを見た。驚いたのはフィリウスである。
「アデル、おまえの主人というのは、まさかヴィネリア王女か?」
「はい」
「なんで言わないんだ!」
「ヴィネリアさまが言っちゃダメだって」
「おまえな、最初から言っていれば──」
「フィリウス、アデルを責めても始まらない。おそらく、城にいたことが知られては、彼女に危険が及ぶと思ってのことだろう。それより、アデル、ヴィネリアどのは──」
「あ、そうだ。王子さま、これを」
アデルはフィリウスのぼやきにもフェスティールの問いかけにも応じず、ヴィネリアから預かったロケットを首から外し、差し出した。
「それは?」
「ヴィネリアさまから預かりました、王子さまに渡してくれって。これ、ヴィネリアさまがお部屋でいつも手元に置いていらっしゃったものです」
フェスティールが受け取り、ロケットを開ける。そこには金の指輪が入っていた。
「………」
「フェスティールさま、どうなさいました」
無言でそれを見つめるフェスティールに、フィリウスが声をかける。それでも、フェスティールは動かなかった。やがて、ロケットを握りしめると、目を閉じて小さく呟いた。
「ヴィネリア──」
金の指輪は、ヴィネリアが十歳でフェスティールとの婚約が決まり、初めて顔を合わせたとき、彼が手渡したものだった。この指輪がちょうど合うころになったら、迎えに来ますよ、と告げて。
パトリアから援軍の要請を受け、城での事情を聞いたとき、ヴィネリアのことである、フェスティールもある程度の覚悟はしていた。それでも──と抱いていた一縷の望みが絶たれた瞬間でもあった。
その後、フェスティールは館の部屋でひとり、誰にも会わずに夜を明かした。
翌朝、都から同行した将軍や館の主人の前にふたたび姿を現した王子の表情には、迷いも、憂いすらも感じられなかった。そして短い軍議のあと、みずから軍の先頭に立って、パトリアの侵略者たちに襲いかかった。
結果、決着は呆れるほどあっさりと着いた。いったんは空の王城に入り、玉座で悦に入っていたブラガンサ国王ではあったが、ほどなく王女という切り札を失くしたことを知り、イーディアの大軍に恐れをなすと、真っ先に城を、都を、そして国を逃げ出した。しかし、集結したパトリア軍との挟み撃ちだけでなく、国王と王女のかたき討ちだと、手近なものを武器にして襲ってくる国民に壊滅状態となり、ブラガンサの兵たちの多くが異国に屍を晒すことになった。
イーディア軍は、自国の民を人間の盾にしかねないブラガンサ軍を深追いはしなかったが、元宰相の引き渡しだけは譲らなかった。対して、ブラガンサ国王は一も二もなく承諾し、あっさりとヴェルザーを差し出した。
あげく、故国を裏切った男は、今度は裏切られ、パトリアの王城でフェスティールの前に引き出された。
その際のヴェルザーの態度はみじめのひと言だった。ブラガンサにたぶらかされたのだと涙ながらに繰り返し、ヴィネリアの件に至っては、自分は助けるつもりだったが、王女が「勝手に」自害したのだと弁明し、婚約者の柳眉を逆立てさせた。
フェスティールは元来、慈悲深い人間ではあるが、生かすべき人間と、そうではない人間を見誤るほど愚かではなかった。
反旗を翻した貴族たちを、財産を没収したうえで国外追放にする一方、ヴェルザーはパトリアの国民の憎悪の目と怨嗟の声の中、都の広場で苦痛をもって処刑された。
国王と王女の亡骸はついぞ見つからなかったが、盛大な国葬のあと、パトリアはイーディアの援助を受けながら、新たな国王となった第一王子のもとで復興に向かった。その際、フェスティールはヴィネリアが城内の不正を一掃しようとしたのを聞き、自身がパトリアを離れたあとを考えてのことだったのだろうと推察した。やはり、遠からず自分のもとに来てくれるつもりだったのだと確信したフェスティールは、後年、みずからが即位し、また弟に譲位したのちも、生涯、独り身を貫いた。彼がその生を終えたとき、首には鎖に通された小さな金の指輪がかかっていたという。
かたや、ブラガンサでは数年後、国民と一部の軍が蜂起し、国王とその寵姫は逃亡する間もなく捕らえられ、民衆の手により惨殺された。その裏ではイーディアが糸を引いていたと言われるが、定かではない。
そして──
「やはり、行くのか」
数日続いた雨が止み、雲間から陽光が差し込む朝、フィリウスは馬上のアデルに声をかけた。館の前では主人だけでなく、大勢の使用人たちがアデルを見守っていた。
「おまえさえよければ、ずっとここにいていいんだぞ」
「ブラガンサの三日天下」と言われる戦役後一年ほど、パトリアの王城が復旧するまでのあいだ、アデルはフィリウスの館に滞在した。客人としての待遇を断り、下女として働きたいと申し出たのだが、王女の侍女に下働きはさせられないと、主人の侍女として仕えていたのだ。けっして器用でも、要領がいいわけでもなかったが、フィリウスは、これまで関わってきた女性とはどこか違う、素直で無垢なこの少女を妙に気に入っている自分に気づいていた。
「ありがとうございます。でも、『約束』ですから」
「約束?」
「はい。ヴィネリアさまと約束したんです。またお城に戻ってくるって」
「そうか」
うれしそうなアデルに、フィリウスはそれ以上、何も言わなかった。
「マクシム、頼むぞ」
「かしこまりました。かならず、無事に送り届けます」
「フィリウスさま、みんな、ありがとう!」
最後にそう言って、マクシムに続いて馬の首を回したアデルは、振り返らずに去っていった。
パトリアの王城に戻ったアデルはその後、国王のそば近くに仕え、永く王女との日々を語り継いだのである。