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王女と下女──最後の約束  作者: 有ずき
1/2

出会い

 薄暗い森の中、少女は主人の最後の「命令」に背いてしまった。


 晩春のある朝、長い歴史を誇った王国が地図から消され、国とともに栄華を誇った王城の尖塔が炎に包まれたとき、少女は何かを感じ取ったかのように背後を振り向いた。

 夜の闇に紛れ、城からの抜け道を通って都を脱出したのち、西の離城へ向かうみんなと離れ、東の国境まで最短であるこの森までたどり着いた。もはや走っているとも言えない状態ではあったが、生い茂る草木のあいだを、主人と「約束」した地へ向けて足を進めていた。

「ヴィネリアさま……」

 少女の口から我知らず呟きが漏れたときである。何かが足に絡まるのを感じた瞬間、突然、目の前が真っ白になり、同時に強い力で体が宙に引き上げられた。

「へっへー、掛かった、掛かった」

「若い女とは上等じゃねえか」

 白い世界──自分を包む布袋の下から野太い男の声が響いた。下卑た笑い声も聞こえる。少女はそのとき、急ぐあまり、この深い森を抜けようとする旅人を狙う野盗がいると、かつて噂で聞いたことがあるのを思い出していた。

──そっかー、捕まっちゃったんだ。

 同時に、少女は自分の「現在」を分析し、遠くない「未来」を推測した。

──どこかに売られちゃうんだろうな。その前に乱暴されるかもしれない。あ、買ってくれる人がいなかったら、邪魔だって殺されるかも……

 非常に「沈着冷静」なのか、それとも異常なほど「適応力がある」のか、その表情には少なくとも悲壮感は見えなかった。一方、袋の中から泣き叫ぶ声も聞こえなければ暴れる様子もないため、野盗たちはてっきり少女が気絶していると思い──そう考えるのが当然なのだが、ともかく下手に騒がれて手間が掛からないうちに袋を回収しようと、ひとりが木に登り、枝から吊るされた綱を切ろうとしたときである。

「がっ!」

 短い断末魔とともに、その体が力なく落下する。地上で待っていたもうひとりが足元に転がる仲間を目にしたとき、その胸は一本の矢に貫かれていた。

「だ、誰だ!」

 振り向きざまに剣を抜こうとしたが、できなかった。彼もまたその右肩を射抜かれたのである。

「お見事です、フィリウスさま」

 声とともに、茂みの中から馬上の騎士が進み出て、時をおかず、旗を掲げた兵の一団が姿を現した。その先頭には、同じく馬上で弓を手にした青年が不敵な笑みをたたえている。

「師匠がいいからな、マクシム」

 先の男──マクシムが主人の言葉に小さく笑い、馬を下りると、矢が刺さったままの男を手早く後ろ手に縛り上げた。

「せめて楽に死にたければ、これまで犯した罪を洗いざらい吐くことだ」

「ケッ、誰が!」

 痛みに耐えながら悪態をつく男を兵に引き渡し、続いて、別の兵に袋を「下ろす」よう指示した。が、突然、その目の前で袋は重力のままに「落ちた」。フィリウスの更なる矢が綱を断ち切ったのである。

「いたっ!」

 袋が地面に叩きつけられる音と同時に悲鳴が響く。

「フィリウスさま」

 マクシムがあきれたように主人に目を向ける。もっとも、咎めた彼とて、落ちた場所が枯葉のクッションになっていることには気づいていた。かたや、フィリウスはおかまいなしに涼しい顔で下馬し、兜を脱ぎながら歩み寄ると、みずから袋を開いた。

 少女が白い闇から解放されて初めて見たもの、それは薄闇の中に映える黄金色の髪だった。

「おまえ、パトリア国の者か?」

「………」

「名は?」

「………」

「娘、お館さまが訊いておられる。返事をせんか」

 兵士の一喝に、思わず目を奪われていた少女は我に返った。

「ア、アデルです」

「逃げてきたのか。ここまで、ひとりで」

 少女──アデルが黙ってうなずく。

「ん?」

 そのとき、フィリウスがあることに気がついた。アデルの顎を持つと、上下に動かす。

「ほお、瞳の色が変わるのだな」

 見上げていたときは黒く見えた瞳が、うつむいたときには深い青に変わっていたのだ。

「へ~、おもしろい」

 実際、おもしろそうに顎を上下させるのを、マクシムが止めた。

「フィリウスさま、いい加減になさいませ。ところで、この少女、どうなさいますか」

「このまま放っておくわけにもいくまい。都からの命令もある。とりあえず館に連れていき、それから考えるさ──ん?」

 立ち上がったフィリウスの上着の裾を、アデルはしっかりと握ったまま気を失っていた。


 時はおよそ一年をさかのぼる、よく晴れた初夏の朝のことだった。

「ん~~」

 パトリア国の第一王女、ヴィネリアは朝日に向かって大きく背伸びをした。

 まさに昇ったばかりの陽光のような金髪と青玉の瞳を持ち、併せて生来の気品や知性を宿す、凛とした美少女である。まだ十七の歳ではあるが、母である王妃を三年前に亡くして以来、信頼すべき女官長とともに内廷のいっさいを取り仕切っていた。

 そんな多忙な彼女の数少ない自由な時間が、早朝、起床したのち、城内にある王家の私的な庭をひとりで散策することだった。

「あら?」

 五月の爽やかな風を腰まである長い髪に浴びていたあるとき、ふと気づくことがあった。鳥たちが群れを成して空を渡り、ある地点に集まっていたのだ。目で追いながら、木立の中を抜けて見たのは、見知らぬ少女が鳥たちに囲まれている姿だった。肩までの黒髪と黒っぽい瞳を持つ、愛らしい整った容姿で、その衣装から城の下女だということは容易に推測できた。

「おまえ、名前は?」

「え?」

 しばらく眺めていたが、こちらに気づく様子もないので、ヴィネリアは声をかけた。

「はい、アデルです」

 屈託のない笑顔で答えるアデルに対し、しかしヴィネリアに笑顔はなかった。

「何をしているの」

「鳥に餌をやっていたんです。このお庭、鳥がたくさんいるんですね。あ、あなたもどうぞ」

「ここは──」

 ヴィネリアが何か言うより早く、アデルは袋から欠けたパンを取り出し、無邪気な顔で差し出した。ヴィネリアは少し躊躇していたようだが、やがて受け取ると、彼女もまた鳥たちに向かって手を差し伸べた。

「こうするんですよ。少しずつ、ちぎって」

「おまえ、いつ城に来たの?」

 鳥たちに囲まれながら、ヴィネリアが尋ねる。この女主人は近くに侍る女官や侍女たちだけでなく、城に仕える人間の顔はおおよそ記憶しており、ときには下働きの場所にもひょっこり顔を出して下女たちを驚かせることもあった。その彼女が一度も見たことがない少女は、おそらく最近、出仕したのだろうと推測したのだ。

「十日前です」

「どこから来たの?」

「孤児院です」

「孤児院?」

「はい、門の前に捨てられていたそうです。十五になったから働こうと思って、お城に入れてもらったんです」

 あまりに明るく答えるので、ヴィネリアは少々、面食らった感覚だった。そのとき、遠くからアデルを捜す声が聞こえてきた。

「アデル、そこにいるのかい?」

「あ、フランさま、ここでーす」

「おまえったら、ここは──」

 現れた中年の女性の表情が、アデルの隣の人物を認めた途端、固まった。

「どうしたんですか、フランさま?」

「──ヴィ、ヴィネリアさま!」

 フランがとっさに膝を折り、頭を深く下げる。それから、まだ突っ立っているアデルの腕をつかんで引っ張ると、その頭を片手で押さえつけた。それでもアデルはきょとんとしたまま、事態が呑み込めていないようだった。

「『ヴィネリア』さま?」

「ヴィネリア王女さまですよ! そもそも、ここは王家の方々専用のお庭なんだよ。おまえ、なんでこんなところに──」

「鳥たちがたくさんいたから、餌をあげようと思って。この人、王女さまだったんですか」

「おまえったら──」

 無礼というか、肝が据わっているというか、フランが気を揉み、ヴィネリアがなかば呆れ、なかば感心している状況のなか、アデルは相変わらず目の前の少女をしげしげと見つめていた。

「きれいな人ですね」

「アデル!」

「もういいわ」

 卒倒しかねないフランをさすがに気の毒に思ったのか、ヴィネリアはそれだけ言うと、踵を返し、去っていった──その夜のことである。下女たちが遅い夕食をとっている場に、女官のひとりが姿を現した。

「アデルという娘はいるかしら」

「はーい、わたしです」

 食事を終えたばかりのアデルが立ち上がる。

「ヴィネリアさまがお召しです。わたしとともに来るように」

「はーい」

 アデルは軽く応えたが、顔色が変わったのは下女頭のフランである。アデルより先に女官に駆け寄った。

「女官さま、王女さまはこの娘になんの御用なのでしょうか」

「その娘を呼んでくるようお命じになっただけよ。わたしにもそれ以上はわからないわ」

「今朝のご無礼でしたら、どうかお赦しを。まだお城に入ったばかりで、礼儀も何もわからぬ娘で──」

 取りすがらんばかりのフランに対し、アデルは何のことかわからぬまま、ただ突っ立って、その様子を他人事のように見つめていた。

「とにかく、早く一緒に来てちょうだい。お待たせすると、わたしまで怒られてしまうわ」

 業を煮やした女官はアデルの腕をつかむと、なかば強引に連れ出した。あとには、一様に不安そうな顔でそれを見送るしかできない下女たちが残されていた。

「ヴィネリアさま、アデルという娘を連れてまいりました」

 アデルが通されたのは、見たこともないような豪華な部屋だった。そこは王女の謁見の間で、たくさんの女官や侍女が立ち並ぶなか、その中央にヴィネリアは悠然と座っていた。対してアデルは気負いすることもなく、「堂々と」と言えば聞こえはいいが、おそらく何も考えず、周囲の視線を一身に浴びながらヴィネリアの前まで進み出た。

「アデル、おまえをわたくしの侍女に命じます」

「『じじょ』って何ですか?」

 全員の視線が一斉にヴィネリアへ、そしてアデルへと忙しなく動く。王女のそばに控えていた侍女のひとりがたまらず口を開いた。

「言葉を慎みなさい! 侍女というのは王女さまのおそばでお世話をさせていただく、大変、光栄なお役目です。ヴィネリアさま、こんな娘をわたしたちと一緒に──」

 それ以上は何も言えなかった。ヴィネリアがちらりと視線を向けたのである。

「アデル、おまえは明日から毎夜、わたくしの部屋に来なさい。それ以外は今までどおり下働きをするように」

「はい」

「もういいわ。下がりなさい」

「はい」

 アデルが下がったあと、ヴィネリアはすぐ隣に控える初老の女官長に声をかけた。

「『何を考えている?』と思っているかしら」

「いいえ。ヴィネリアさまのなさることですから」

 寡黙な、笑った顔を見たことがないと言われる女官長の平然とした返答に、ヴィネリアは口元に小さく笑みを浮かべた。

 一方、下女たちの部屋では、アデルが戻った途端、フランをはじめ全員が一斉に駆け寄り、質問攻めにした。

「アデル、王女さまは何のご用だったの?」

「今朝のこと、聞いたわ。罰を受けるの?」

「フランさまも女官長さまに口添えしてくださるって」

「みんな、とりあえず落ち着いて。まずはアデルから話を聞きましょう」

 下女たちの中からフランが、目を丸くして立ち尽くしているアデルの前に進み出る。

「アデル、それで、王女さまはなんて?」

「『侍女』になれって言われました」

「侍女!」

 フランをはじめ、みなが異口同音に叫ぶ。

「あ、でも、夜だけ『侍女』をするので、それまではみんなと一緒です。食事や部屋もこれまでどおりだって」

「………」

 その場の全員が、それぞれ顔を見合わせる。そのうち、誰かがフランに問うてみた。

「フランさま、どういうことでしょうか」

「わたしにもわからないよ、王女さまが何をお考えなのかなんて。もしかしたら、これが『罰』なのかもしれないけれど……」

 みなの同情に満ちた視線が、ふたたびアデルに集まる。だが、当の本人は相変わらず呑気な笑みを浮かべているだけだった。

 翌日の夕刻、ヴィネリアの命じたとおり、アデルは王女の私室に赴いた。さすがに下女の衣装のままというわけにはいかず、まずは侍女たちの休息部屋で着替えをすることになった。

「わー、きれいな服」

 素直に喜ぶアデルに対し、周囲の侍女たちの視線はけっして好意的なものではなかった。彼女たちには、それなりの家柄で礼儀作法や教育を受けてきたという自負があった。中には、聞こえよがしに嫌味を言いあう者もいた。

「まあ、よくお似合いだこと」

「下女の衣装のほうが、だけれど」

「ありがとうございます。あたしもそう思います。これ、なんか動きにくくって」

 アデルのあまりにも他意がない応えに、侍女たちはただ呆れるしかなかった。

 その後、侍女のひとりと、飲み物を持ったアデルが王女の私室を訪れたとき、ヴィネリアは七歳下の弟に手紙を書いているところだった。弟である第一王子は生まれつき病弱で、王家の墓所がある西の離城で暮らしていた。

「ヴィネリアさま、アデルを連れてまいりました」

「ありがとう。あなたはもういいわ」

「は?」

 侍女が聞き返すのも無理はなかった。王女が夕食と夜の執務を終えたあと、床に就くまでの私室での時間に侍ることができるのは、侍女たちの中でも誉れとされていたのだ。

「ヴィネリアさま、この娘だけでは──」

 やはり、それ以上は何も言えなかった。ヴィネリアが同じことを二度言うのが嫌いなのは周知のことである。

「何かあれば呼びます。控えの間で待っていなさい」

「はい」

 ふたりきりになったあと、ヴィネリアはおもむろにアデルに目を向けた。

「アデル、あなたに命じます」

「はい」

「明日から毎夜、下女たちの会話の内容をわたくしに報告なさい。ただし、このことは誰にも言ってはいけません」

「はい」

 アデルは理由を聞くこともなく、素直にうなずいた。

「いつまで、そうしているつもり?」

「はい?」

「その手に持っているものを、早く寄こしなさい」

「あ、すみません」

「『すみません』ではなく、『申し訳ありません』とおっしゃい」

「はい、すみません」

 それから毎夜、アデルはヴィネリアに下女たちの会話──それは彼女たちしか知りえない、城に出仕する貴族や官吏たちについての「裏話」を報告した。それを黙って聞くヴィネリアに何の意図があるのか、アデルは気にも留めていなかったが、半年を待たず、城内にある変化が起こり始めた。

 貴族や官吏、さらには出入りの業者まで、突然、「出仕禁止」や「暇」を出される者が現れるようになったのだ。業者から賄賂を受け取っていたり、納入された物品を横流ししたりする者、はたまた、下女を自分の執務室に無理やり連れ込もうとした者──内廷直属の近衛兵によって現場を押さえられ、これまで見て見ぬふりをされていた数々の不正は白日の下にさらされていったのである。

 そのことは当然、城内で噂に上ったが、なぜ近衛兵──彼らを統べる王女の知るところとなったのか、またその裏に何が秘められているのか、気づく者はいなかった。

 同時に日が経つにつれ、アデルには夜だけでなく、日中にもヴィネリアの「お召し」がかかることが増えていった。そこでは、王女の執務中、アデルが部屋にある地理や歴史を読んだり──むろん、主人の許可を得てのことであるが、その好奇心の強さや習得の速さには、ヴィネリアも少なからず驚いた──またときには、ふたりだけのときに他愛無い会話を楽しんだりする様子も目撃されていた。一方でそれに伴い、ほかの侍女だけでなく、下女の中にもアデルをよく思わない、妬む者が現れるようになった、そんな冬のある日のことである。

 その夜、ヴィネリアの機嫌はもともと悪かった。

「この匂いは何?」

「はい、香水を付けてもらいました。えっと、名前は──」

 アデルが嬉しそうに話す。しかし、ヴィネリアの表情はますます険しくなっていった。

「知っているわ。わたくしが大嫌いな匂いですもの」

「ヴィネリアさま、お嫌いだったんですか。でも、あたし、こんないい匂い、初めてです」

「おまえの好みなんて聞いてないわ。誰か!」

「お召しでございますか」

 年若い侍女が入ってくる。その表情はどこか楽しそうだった。

「この娘を連れ出してちょうだい。それから、今夜の食事は抜くよう、下女頭に伝えておいて」

「かしこまりました」

 侍女がアデルの腕をつかみ、連れ出そうとしたときだった。ヴィネリアがふと思い立ち、それを止めた。

「待ちなさい。アデル、おまえにその香水を付けたのは、誰?」

 途端、侍女の顔色が蒼白に変わる。しかし、アデルの返答は予想外のものだった。

「言えません」

「なんですって?」

「言わないって約束しましたから」

「わたくしの命令でも?」

「はい。約束ですから」

「………」

 ヴィネリアと侍女がアデルを見つめる。だが、アデルの表情は何のためらいもない、平然としたものだった。

「アデル、地下牢行きを命じます」

「え!」

 思わず声を上げたのは侍女のほうだった。地下牢など、年若い少女たちにとっては想像するだけで恐ろしく、過去には王族の機嫌を損ねて長年にわたって幽閉されたあげく、発狂した者や、みずから命を絶った者までいたと語り継がれていた。

「ヴィネリアさま、なにもそこまで──」

 思わず取りなそうとして、侍女は慌てて口を閉じた。その心中をおおよそ察していながら、ヴィネリアは下した命令を覆すことはなかった。

 結局、アデルは三日間、地下牢に「滞在」した。が、帰ってきたときも、やつれているわけでも落ち込んでいるわけでもなく、相変わらずケロリとしており、しかも何も語ることを禁じられていたので、それがかえってまわりの者たちの恐怖心や想像力を掻き立てた。その一方で、それ以降、侍女や下女たちの態度が妙に柔らかくなったことに、当の本人は気づいていなかった。

 アデルが侍女に復帰してから数日後、いつものとおり休息部屋の隅で下女の衣装から着替えていると、くだんの「香水事件」の侍女がさりげなく近寄り、ささやいた。

「ヴィネリアさま、今日はご機嫌が悪いから、気をつけたほうが良くってよ」

「はい、ありがとうございます」

 無邪気な笑顔を返され、侍女はそそくさと、仲間たちが茶菓とおしゃべりを楽しんでいるところへ戻っていった。

「また、陛下と喧嘩なさったらしいわよ」

「陛下、というより宰相さまと、だけどね」

 以前から王女と宰相の不仲は周知の事実であった。宰相のヴェルザーは五十を過ぎたばかりの、父王の小姓から成り上がった男である。ヴィネリアに言わせれば権力欲の塊のような人間で、気弱な国王を「傀儡」とし、北の隣国ブラガンサの要求のままにパトリアの国益を損ねる施政を重ねていた。小国ではあるが、穀倉地帯と東西を結ぶ交易により豊かさを享受するパトリアに対し、ブラガンサは険峻な山が多く、最近では数少ない財源である鉱物資源も尽きかけていた。また、そのブラガンサの国王というのがヴィネリアは大嫌いで、武力をもって国民には圧政を敷き、困窮と忍従を強いておきながら、自分は初老を迎えても正妃を持たず、大勢の妾たちと城の中だけ贅沢三昧をしているような「唾棄すべき」人物だったのだ。ヴィネリアをはじめ一部の高官や将軍は、最悪の場合、疲弊している財政を挽回するため、パトリアに攻め入ってくることさえも危惧していた。

「宰相さまはなぜ、ブラガンサに肩入れなさるのかしら」

「ご自分の妹君が寵姫のおひとりなんですって」

「あげくに宰相さま、今日は、『国政に口を出すより、嫁入りの準備でもなされば』とまで、ヴィネリアさまにおっしゃったらしいわ」

「まあ、それはお怒りになったでしょうね」

「え、ヴィネリアさま、お嫁に行っちゃうんですか?」

 政治の話にはまるで興味を示さなかったアデルが、思わず口を開いた。

「知らないの? 東隣のイーディア国のフェスティール第一王子さま、確か八歳年上で、婚約者でいらっしゃるのよ」

「本当に素敵な方よね。お美しくて、お優しくて、文武両道に秀でていらっしゃって、それから──」

「でも、ヴィネリアさまはいつも素っ気ない態度」

「ばかね。あれはきっと照れ隠しよ」

「ねえねえ、いつもお供をされる金髪の殿方もなかなか素敵だと思わない?」

 そんな、いつ終わるとも知れない黄色い声の会話を聞きながら、アデルは支度を終え、ヴィネリアの私室に赴いた。

「ヴィネリアさま、お嫁に行かれるんですか?」

 何の前触れもない不躾な質問に、ヴィネリアは飲みかけのお茶を吹き出しそうになった。しかし、アデルの表情はやけに真剣だった。

「そうなるでしょうね」

「嬉しくないんですか?」

「嬉しい? なぜ?」

「下働きのみんなも言ってました、早くお嫁に行きたいって」

「『みんな』はどうでもいいわ。『おまえ』はどう思っているの?」

「あたしですか? うーん、よくわかりません」

 いつのまにか問答の立場が逆になっていることには気づかず、アデルは真剣に悩んだ。

「でも、してみたいとは思います。それから、『キス』っていうのも」

「おまえ、意味がわかって言っているの?」

 ヴィネリアが呆れたように言う。

「あ、でも、『お嫁』よりも行きたいところがあります」

「どこ?」

「ヴィネリアさまがイーディアに行かれるとき、あたしも連れて行ってください」

「おまえを、イーディアに?」

「はい。あたし、ヴィネリアさまとずっと一緒にいたいんです」

 アデルの満面の笑顔に、ヴィネリアの表情にもかすかに笑みが戻っていた。

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