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堕天アレスター  作者: 草井宗造
1/1

天使なあのコとキスしたら、なんかヒーローっぽくなれちゃいました

元々はラノベの応募用として書いた小説ですが、供養としてこちらに投稿することにしました(^^ゞ

いかにもラノベ、な内容を自分としては心掛けて書いたつもりですが、結果としては「ありきたり」との評価をいただきまして、それもむべなるかなと(;^ω^)

ただバトル自体は自分でも楽しく書けましたので、ひとりでも多くの方の目に触れれば有難いと思い、投稿しました。

特にラストバトルは、手に汗握る闘い……を目指して書いたので、楽しんでいただける方がひとりでもいらっしゃれば幸いです(*´▽`*)


 序


 世界が、崩壊の時を迎えようとしていた。

 一部の限定的な破滅ではない。人工的な建築物。ある種の動植物の絶滅。政治経済の仕組み。国家。そのような、ごく限られた事物の瓦解ならば、人類はこれまでにも経験してきた。そうではない。世界全体が……ヒトが築きあげた全ての文明が、消滅しようとしていた。今、地球の歴史の表舞台から、人類は降ろされようとしている。太古の恐竜たちのように。


 終末は、実在したのだ。死が間近に迫って初めて、人々はこれまでの行いを懺悔した。

 天は暗雲に覆われ、絶え間なく稲妻を奔らせた。飛び交う雷鳴に、逃げ惑う者たちの叫びが重なる。

 地は網目のごとく裂け、マグマの火柱を噴き上がらせた。地中に潜んでいた炎の龍が目覚めの時を迎え、顔を出したかのような光景。

 人々は恐慌に陥り、あちこちで喧噪を起こした。どこにも逃げ場がない、という恐怖。大地も、海も、川も、空も……死の包囲網が待ち構えている。数分先の未来さえ期待できない絶望。暴れ、嘆き、祈り……懸命に生を求める彼らの叫びは、虚しく響いた。無差別に、そして逃すことなく、闇と炎は群集を飲み込んでいく。


 阿鼻叫喚。

 地獄となったこの世のなかで、美しき存在は対峙していた。男と女。雷雲と業火と悲鳴の世界で、そこだけ別次元のようにふたりは光り輝いている。

 比喩表現などではなかった。本当に肉体が発光していた。

 男の容貌は絵画で描かれたかのような美形であり、女の端整な顔立ちもまた可憐さに満ちていた。あまりに完成された美は、とても人の世のものとは思えない。ふたりが纏った純白の衣は、強風に吹かれて激しくたなびいている。

 地上二四三m。超高層ビルの屋上に、ふたりは立っていた。特徴的な形の建造物だった。北と南にそれぞれ展望台があるため、塔のように突出している。北の塔に男。南の塔に女。それぞれが佇み、距離をあけて互いに向き合っていた。

 その双塔の高層ビルが『都庁』と呼ばれていることを、ふたりは知っている。

 地割れと火炎から逃げ惑う人々に、頭上を見上げる余裕などない。だが、もし『都庁』の屋上で見つめ合うふたりに気付いたら、突如起こった世界の破滅は、彼らの仕業と断じただろう。

 男と女の背中には、真っ白な翼が生えていた。


「どうして、こうなっちゃったのかな?」

 はっきりと悲痛が見て取れる声と表情で、女は言った。

 対する男は無言。返す言葉を、探しあぐねているようだった。

「大罪を犯したあなたを、許しておくことはできないわ。こうなることはわかっていたはずよ」

「……なぜ君が来た?」

 ようやく男が口を開く。

 ふたつの塔の間、十数m。漆黒の空に冷たい風が吹きすさぶ。まるで互いに行き交う想いを断ち切るかのように。

御主みしゅさまからのご指示よ」

「そうか。やはりオレへの怒りが相当なものなのか、あるいは」

 男が背中に右手を回す。銀に輝く巨大な鞘を、その背に負っていた。

 躊躇うことなく、大剣を抜く。

「愛する君ならば斬ることはできまいと、オレを甘く見ているのか」

「どうして、こうなっちゃうのかな?」

 同じセリフを女は繰り返した。ふるふるとかぶりを振る。背中の大剣を、彼女もまた抜いていた。

 天からは雷鳴が響き、地からは悲鳴が湧く。ボツボツと、雨が降り始めた。水滴が頬を打つのを感じながら、涙を隠すにはちょうどいい、などと女は思った。

 大地の一画が崩れ、マグマの海に沈むのが彼方に映る。

 世界は滅びるのだ。もう、後戻りはできない。

 遥か昔のように感じられる楽しかった日々を、彼女は思い出していた。

「残念よ、とても」

「オレもだ」

「けれど私は、あなたを倒さなければいけないわ」

「遠慮するな。オレも全力で、君を迎え撃つ」

 敢えて男に斬られる……そんな考えが、女の脳裏にふとよぎる。許されるなら、愛する者を殺すより殺されたかった。その方がどれだけ救われることか。

 しかし彼女はわかっている。神への反逆者は裁かねばならない。与えられた使命から、逃れることは許されない――。

「……さようなら」

 それだけの言葉を、ようやく女は搾り出した。

 男と女が同時に駆け出す。屋上を蹴って塔から飛び立った。

 白い翼が羽ばたき、双塔のちょうど中間で両者は激突した。

 漆黒の空に大剣の銀光が交錯した。


 1


『トキオシティの明日の天気は晴れ。この一週間は五月晴れが続くでしょう』

『ゴ~ル! 決まったぁ、見事なボレーシュートォ!』

『ボク、デラえーもんだぎゃあ。もう、なえ太くんったらしょうがにゃあな~』

『その時、火災現場で何が起こったか? JHKスペシャルは今晩八時からの放送です』

『……今回の発掘調査で見つかった遺跡は、約5千万年前のものと推定されており、かつて高度な文明が地球上にあったことを示す大発見だと、注目を集めています。なかには現代でいうところの自動車やパソコンらしき部品の一部もあり……』

 天気予報からスポーツ中継。アニメに番宣、ニュースまで。ずらりと並んだ最新型のテレビから、各局の映像と音声が飛び込んでくる。

 この家電量販店の店頭は、単調なジョギング途中のちょっとしたオアシスになっていた。少しでも気分転換ができる、というのは有難い。チラチラと横目でショーウインドウ内の液晶画面を見ながら、須藤霊児は走るペースをわずかに落とした。

 ガラス窓に映るスウェット上下の高校生は、すでに顏中を汗で濡らしている。グレーの生地がところどころ、内側からの水分で色濃くなっていた。ハアハアと荒い息を吐く顏が、我ながらだらしない。

 二日後に迫った体育大会に備え、特訓を決意したのが一週間前。以来、雨の日も風の日も休まず、学校が終わると10kmのコースを走ってきた。なんの部活動もしていない霊児としては、それなりに頑張った自負はある。

 にも関わらず、彼のタイムは一向に上がらなかった。ほぼコースの中間に当たる家電量販店まで来ると、ヘトヘトになっているのもいつものことだ。

「くっそ……! オレってば成長しないな……」

 いっそ、特訓なんてやめちまうか?

 弱くなりそうな自分を、ブンブンと頭を振って叱咤する。負けたくなかった。お世辞にも運動神経に優れているとは言えないが、努力までやめてしまったら、本当に『ただのひと』になってしまうじゃないか。

 そしてもうひとつ。今日の霊児は、いつも以上にカッコ悪い姿を晒したくなかった。

「……やっぱり、勘違いじゃない……よな?」

 ショーウインドウ越しに映る〝尾行者〟の姿を、霊児はじっくりと看視する。

 そう、ランニングに出た彼は、いつごろからか後をつけられていた。なんとなく気付いてはいたが、ガラス窓の反射のおかげで、ハッキリ確認することができたのだ。

 ズキン、ときた。

 それが〝尾行者〟の顔を見た瞬間の、霊児の反応だった。心臓に痛みを感じるくらい、鼓動が早くなっていた。

「……おいおい、まさかホレちゃったワケじゃないよな、オレ……」

 目を瞠るレベルの美少女だった。遠目からでもわかるほどの。

 シャツもカラーもプリーツスカートも、全て白に統一されたセーラー服。胸元のスカーフだけが濃紺という特徴的な制服は、霊児も通う美塚高校のものに間違いない。

 電柱の影に半身を隠しながら、セミロングの髪を垂らして顔だけ覗かせている。通行人たちのほぼ100%が振り返っているのは、美少女ぶりもさることながら、あまりに挙動不審なその立ち居振る舞いにあっただろう。

 ザ・尾行、とでもいうべきあからさまな追跡姿。

「……なんてヘタクソなんだ……つけられてるコッチが恥ずかしい……」

 顏を赤らめているうちに家電量販店前を走り過ぎ、背後を確認する手段は途絶えた。ジョギングコースはこれから、トキオシティの再開発区域へと入っていく。

建設途中のビルが多く、居住者も労働者もまばらなため、苦しさ全開の表情で走る霊児には有難いゾーンだった。目立ち過ぎる追跡者にとっても、ラッキーに違いない。

 明らかにペースの落ちた足取りで、ビルが林立する区画に突入する。

 天に迫るような建造物が道の両脇にずっと並んでいるため、日陰が先まで続いていた。夕方前の日射しはまだ高いのに、ちょっと肌寒い。数年前から始まった工事は、ビルの完成具合を見る限り当分終わりそうになかった。なかには鉄骨剥き出しの建物もある。長引く不況でテナントへの入居者もなかなか見つからない、あんなものは税金の無駄遣いだ……とは、政治批評が趣味の社会科教諭の話だ。

「それにしても」

 高層ビルの間を走りながら、きっとまだ尾行を続けている少女のことを霊児は思う。

 なぜ、あのコはオレのあとをつけているんだ? 学校が同じ、ということはクラスメイトにいたのか?

 いやいや、それはありえねー。自身で思い描いた推理を、ソッコーで否定する。

あれだけ華のある美少女を、いくら凡庸な霊児の頭脳でも忘れるわけがない。ということは初対面なのだ。一緒のクラスどころか、会話したこともない関係なのは、まず確実だった。

 となると次なる疑問が浮かんでくる。知り合いでもない超絶美少女が、どこにでもいる顏と頭と運動能力のオレに、なんの用があるのか? ってことだ。

 いい意味でも悪い意味でも、特に目立ったところはない。それが霊児の、自身を分析した結果であった。中肉中背。成績はすべての科目が5段階評価の3だった。これといった特技もなければ、珍しい趣味嗜好があるわけでもない。逆にここまで平凡だと、それが個性と呼べるほどだ。

 そんな自分をきちんと認識していながらも、男というのは勘違いしたがる生物なのかもしれなかった。

「……まさか、な……いやいや、まさか……それはないわ、まさかァ~」

 息を切らせながら、ヘラヘラとひとり笑う高校生の姿は、さぞ不気味だったに違いない。

 霊児が思いつく限り、女子が男子をストーカーする理由なんて、2種類しかなかった。ズバリ、恋をしているか。あるいは襲撃しようとしているか、だ。

 ランニングのせいで心臓がバクバクいっているというのに、危うく霊児は爆笑しかけた。我ながら、なんとアホなことを考えるのだ、と。見知らぬ女の子が襲ってくる、なんていくらなんでも有り得なかった。マンガの読み過ぎだ。当たり前だが、他人に恨まれる覚えは霊児にはない。

 もしかして、明後日の体育大会をみすえ、他クラスがライバルの動向を探りに来たとか? 

不意に浮かんだ考えも、到底当たっていそうになかった。残念ながらというべきか、霊児の出場するミニマラソンはもっとも注目度が低く、外れクジを引いた運のない者が無理矢理駆り出される競技なのだ。とてもではないが、練習をチェックする奇特な者などいるはずがないだろう。

となれば消去法で考えていくと……やっぱりオレはひと目惚れされた、ってことになるのではないか?

 相当息苦しいのに、ニヤニヤ笑いが止まらなくなりつつあった。

(も、もしかして……告白されるとか? ……と、当然OKだよな。うん。初めて付き合う相手が、あんなカワイイ子になるかもしれないのか……)

 『彼女』という存在に憧れを持つ思春期の少年が、妄想を暴走させるのも無理はなかった。

 だが、ふとした疑問が霊児の心に沸き起こる。

 あれ? あのコ、ずっとオレのあとをつけてるんだよな。ランニングに出てから、ずっと。

 ……どうして、走ってるオレと同じペースでついてこられるんだ?

 荒々しく呼吸する霊児とは対照的に、ガラス窓に映っていた少女は、平然としていた。息ひとつ、乱すことなく。

 思わず真偽を確かめたくなり、スウェット姿の少年は背後を振り返る。

 アスファルトの歩道の中央。少女は立っていた。やはり尾行を続けていたのだ。ガラス越しに見たのと同じセーラー姿で、そこに止まっている。

 仁王立ちをしていた。ビルの間を吹く風に煽られ、短めのプリーツスカートが揺れている。直接見る顔もやはり可憐であったが、随分とキツイ印象がある。20mほどの距離が空いていても、視線が鋭くなっているのがわかった。

 え? もしかして、睨まれているのか?

 ショーウインドウ越しに見た折は、敵意は感じられなかっただけに、少なからぬショックがあった。霊児の脚も自然に止まる。まさかではあるが、彼女はオレを襲おうとしているのか?

「……ゼエ……ゼエ……えっと……あの……」

 荒い呼吸で肩を上下させつつ、脳裏では懸命に、やっぱり美少女になにかやらかしたのではないかと過去を探る。本人に直接面識がないのなら、家族に迷惑かけたとか? 友人とか、あるいは彼氏? ノラ犬と思って大事なペットの眉毛を油性マーカーで極太にした、なんてことはあるまいな?

「……逃げて」

 へ? と言葉にしたような表情を霊児は浮かべた。初めて聴く少女の声は、容姿に劣らず美しかった。高すぎず、低すぎず、琴の音が鼓膜に透き通るがごとし。しかし、その美声に聞き惚れる余裕もないほど、発言の内容は驚くべきものだった。

「逃げるな」というなら、まだわかる。鋭い視線を向けていながら、逃げろとは一体どういう――

「霊児くんッ! いいから逃げてッ!」

 二度目のショックが少年を襲った。

名前を知っている。尾行しただけでなく、見知らぬ超絶美少女は彼の名前まで知っていた。ただことではなかった。確実に白セーラーの少女は、霊児に対して用件と思惑があるということだ。

 甘酸っぱい妄想と、不審なものへの警戒心が激しく綱引きする……のも束の間。

 混乱する霊児の思考を、一刀両断するかのごとく、第三にして最大のショックが天空より舞い降りた。

 ズッ……ドオオオオオッ!

 文字通り、それは天から舞い降りたのだった。

「なッ!? なんだああッ?」

 霊児と少女との間に、淡い墨のような影が湧き出る。と、見る間に黒点はその濃度を強くし、面積を収縮させて――遥か上空からなにかが落下したのだ、と気付いた時には巨大な塊が轟音を伴って大地に激突した。

 逃げて、というのは『これ』から、だったのか。

 少女とのちょうど中間地点に降り立った大男を見て、霊児の脳は彼女の台詞の意味を唐突に理解した。美少女が容姿に似合わず視線を鋭くしていたのも、叫ぶように言い放ったのも、全て合点がいく。

 危険だ。この大男は、ただデカイというだけではない。

 山脈から見下ろすような威圧感。実際に身長は2mを余裕で越えているだろう。頭髪も、眉毛すらもない顔に、眼光のみが鋭くギラついている。どこから飛び降りたのか、正確には不明だが、筋肉に包まれた体躯が常人離れした頑強さを誇るのは間違いなかった。スキンヘッドで作務衣を着ているというのに、僧侶の類にはまるで見えない。

こんな人通りの少ない場所では、絶対に遭遇してはいけないタイプであった。全身の細胞がアラームで報せるようにゾワゾワと粟立つ。大男の周囲のみが、5度ほど温度が下がっているような。危険な匂いを……死臭をプンプンと漂わせた男だった。

「ようやく見つけたぞ、エリル」

 顔はこちらに向けたまま。ニセ僧侶のごとき巨人は、背後の少女に声を掛けた。

 エリル、という名前なのか。珍しいけど可憐な少女によく似合っている、などと感慨に浸っている余裕はなかった。霊児を正視する大男の相好は、不気味に吊り上がっていたからだ。ニンマリと笑っている。漢字テストの答えが、教室に貼ってある掲示物にうっかり載っているのを発見したら、きっと同じような表情になっただろう。

「お前が追っている、ということは、この小僧がアイツなんだな?」

「霊児くんッ、早く逃げてって言ってるでしょ!」

 自分が『アイツ』などと呼ばれるような、特別な存在である自覚は霊児にはない。それでもいきなり騒動に巻き込まれたらしい少年は、おぼろげながら状況を理解し始めていた。

 美少女と巨人。なぜかはともかく、このふたりが霊児を追っているのは確かなようだ。そしてどうやら、両者は敵対しているらしい。

 霊児にとってどちらが味方で、どちらが敵か、むろん確証は得られない。あるいは両方ともに危険、という可能性も十分考えられる。

だが頭の冷静な部分がそう声高に叫んでいるというのに、霊児の脳内議会の判断は、直感派が大差で押し切ってしまっていた。

 カワイイ女の子と、スキンヘッドの大男なら、少女が味方に決まってるじゃねーか。

 とりあえずこの場を脱するのが賢明であるのは、まず間違いないだろう。美少女エリルの言葉に従い、ジョギングではなく今度は全速力で、二本の脚を動かそうとする。

「……え? あれ?」

 ガクガクと両膝が震え、霊児の脚は縫い付けられたように地面を離れなかった。

「フン。レイジ、という名前なのだな。今は」

 破戒僧を思わす大男が一歩を踏み出す。俊敏、とまでは言わないが、決してスローモーな動きではなかった。巨躯の持ち主だけに、一歩がデカイ。霊児は山が迫ってくるような錯覚にとらわれた。

 巨人が右手を伸ばしてくる。霊児の頭部など、すっぽり包まれてしまいそうな掌。反射的に飛び逃げようとするも、少年の下半身は主人の意志に反して固まったままだ。

 ゾクリと、冷たい恐怖が背筋を駆け登る刹那――。

 ドオオウウゥッ!

「させないわ、グリゴール!」

 極太のタイヤを金属バットでフルスイングしたような音色は、巨人の脇腹に埋まった、少女の左脚から響いていた。

 背後から蹴り込んだ、一撃。見事なフォームのミドルキックだった。姿勢も鮮やかだが、音の重さがそのまま威力の重みを伝えてくる。もろに喰らった巨人の歩みが、ピタリと止まる。

 毛のない眉の根に皺が寄った。明らかな、苛立ち。エリルの攻撃は多少効いたが、深刻なダメージにはなっていない、のだろう。怒りを露わにする大男に霊児の心臓はすくむ。開いていた巨大な右の掌が、強く握られる。青筋が浮かんでいるのが、距離を置いてもわかった。

 まさか、本気で殴るつもりなのか。2m越えの巨人が。華奢な女の子を。

 グリゴールと呼ばれた巨人とセーラー姿の少女とでは、高さにして約1・5倍、質量ならば恐らく4倍ほどの差がある。まともな神経の持ち主ならば、手加減するのが普通だろう。だが巨人は、全身を180度ターンさせるや、豪風を伴って右拳を放つ。

「う、うわあッ!」

 思わず悲鳴が、霊児の口から漏れた。

 美少女の顔を巨大な拳が貫く。いや、美少女の顔があった場所を。

 身を沈めて、白セーラーの少女は大砲のような豪打を避けていた。涼しげな、表情だった。凛と鋭い視線のまま、右腕をかいくぐった少女は巨人の懐に飛び込む。

 マシンガンを撃ち込むがごとき、連続音。

 突っ立ったままの霊児が、それがエリルによるボディブローの連打だと気付くには、少しの時間が必要だった。普通ではない。少女の身体能力も常人でなければ、平然と受け切っている巨人の耐久力も人並み外れている。

 だが、次の瞬間には、両者への評価は「普通の人間ではない」から「普通の」を取った、より格上げされたモノへと変わらざるを得なかった。

 スキンヘッドの巨人が、左の腕を振り上げる。鳩尾に連打を撃ち込む少女に、構うことなく。

 ハンマーさながらのゴツい拳を、女子高生の頭上に振り下ろす。まともに直撃すれば、エリルの肉体は空き缶を踏み潰したようにペシャンコになりそうだった。しかし拳が触れるより早く、少女は高々とジャンプする。

 地鳴りと轟音。

 5mほど離れていても、衝撃波が霊児の全身を叩いた。足元をグラグラと揺るがす震動。地球が割れてしまったのではないか、と思うほどに巨人グリゴールの一撃は強烈だった。

 少女に逃げられたバスケットボール大の拳は、アスファルトの地面にめり込み、大きく陥没させていた。隕石が落下した後のクレーターのごとく。

「……ば、化け物だッ……!」

 霊児のつぶやきは、凶相の大男にのみ向けられたわけではなかった。剛打を跳び避けた、正体不明の美少女に対しても同じ。

 巨人の禿げ頭、その遥か上を、白のセーラー服が舞っていた。

 低く見積もっても、垂直跳び2m超。そんな人間が存在するのだろうか。いや、いない。

 霊児は悟った。自分が巻き込まれたのは、異常な闘いなのだと。よりにもよって、なんの取り柄もないごく平均的な高校生が、超人対超人、あるいは怪物対怪物のデュアルに関わってしまったのだと。

「はあああッ!」

 裂帛の気合いが少女の口から閃く。「閃く」という表現が妥当と思えるほどに、華やかでキレのある叫びだった。宙空に浮いたままエリルは、眩しいほどに白い右脚で大きな弧を描く。

 巨人の顎に吸い込まれていく、跳躍からの回し蹴り。

 乾いた炸裂音がして、エリルの右足首は大男の掌に掴まれていた。ヒット寸前で、蹴撃はグリゴールの右手に阻止されたのだ。

霊児の5m先で展開された光景は、マンガの世界のようだった。空中でミドルキックを放った態勢の少女が、片腕一本でスキンヘッドの頭上に持ち上げられているのだ。

「掴まえたぞ、エリル」

「まさか、勝ったつもりじゃないわよね?」

 巨人と美少女が同時に笑う。不敵に。

 僧侶にも似た大男の方が有利にも見えるが、エリルの左脚は依然自由だ。これまでに見せた身体能力を思えば、顔面や頭部に向けて蹴りを放つぐらいは当然できよう。体の位置としてはエリルの方が上になるだけに、振り下ろすキックの威力は十分脅威となる。

 お互いに勝利を確信した表情を浮かべながら、戦況は膠着していた。

時間が凍ったような数瞬。張り詰めた空気。

真っ向から視線を絡み合わせ、美少女と巨人が完全に動きを止める。

 ピリピリとした緊迫感に、恐怖が押し流されたのか。両膝の震えはいつの間にか消え、霊児は己が動けることに気付いた。逃げるには、絶好のチャンスだった。巨人グリゴールの意識は、エリルとの攻防に集中している。しかも霊児に対しては背中を向けていた。今ならば、容易くこの場を脱することができるだろう。

 よし、いくぞ。

 今がチャンスだ。

「……うおッ……おおおおおッ――ッ‼」

 恐怖を吐き出すように。肺腑の空気をカラにする勢いで、霊児は叫んだ。自由を取り戻した両脚を、懸命に動かす。

 逃げるため、ではなく。

 その逆。スキンヘッドの巨人に突撃するために。

「えッ? な、なんでッ!?」

 一番の動揺を示したのは、白セーラーの美少女だった。その丸くなった瞳が何を言いたいのか、霊児にはよくわかる。『なんで、突っ込んでくるの!?』と。『あなたが勝てるような相手じゃないのよ!』と。

 異変を察したグリゴールがこちらを振り向こうとする。遅かった。すでにスウェット姿の少年は5mの距離を詰め、広い背中のすぐ後ろにまで迫っていた。

 疾走の勢いそのままに。霊児が右脚を思い切り振り抜く。フリーキックでシュートを放つように。狙いは巨人の左脚、その膝の裏。

 いわゆる膝カックン――。

 普通の人間ごときがまともに蹴りを見舞ったところで、巨岩のような大男にダメージなど与えられないことは薄々気付いている。だが踏ん張っている脚の、バランスを崩してやればどうか?

 バッシイイイィッ‼

「いッ……デデデデェッ! な、なんつー硬い脚だ!」

 甲高い衝撃音とともに霊児の右脛に響いてきたのは、太い樫の巨木を蹴ったような感触だった。思わず脚を抱えて飛び跳ねる。ジンジンと痺れるような激痛。的確に膝の裏を蹴り抜いたのに、ダメージは仕掛けた側に跳ね返っていた。

 だが、痛みの報酬は確実にあった。

膝の力が抜けた巨人は、バランスを崩して倒れていく。通常なら持ちこたえたであろうが、今は女子高生を高々と掲げていたのだ。元々が無茶な態勢。崩れ落ちるのも無理はなかった。頭上に持ち上げたエリルともども、スキンヘッドの大男が大地に沈んでいく。

「え? えッ! えええッ!?」

「ちょッ……れ、霊児くん! ど、どいてッ……!」

 脛を押さえた少年の上に、叫ぶ美少女が落ちてくる。

 すかさず霊児は両腕を大きく広げた。胸で受け止めようとする。危険な行為であることなど、まるで頭になかった。ただただ、落ちてくる少女を守ろうとしていた。

 天から降ってくる、白い少女。

 驚きと焦りで、大きな瞳がより大きく見開かれている。迫ってくるエリルの容貌は、状況を忘れさせるほどチャーミングだった。ほうっ、と互いの頬が紅潮した瞬間――。

 固いモノ同士が激突する音がして、霊児の眼前で火花が散った。

 意識が一瞬、飛ぶ。閉ざされる視界。仰向けに倒れていきながら、エリルを受け切れなかったのだと霊児は悟る。上に圧し掛かってくる、少女の重み。エリルにボディプレスされるような格好で、少年はアスファルトの道路に押し潰されていく。

 むにゅ、とした感触が唇を襲ったのは、そのときだった。

(………ん? ………むにゅ?)

 柔らかで、ほのかに甘い『物体』が、唇に密着している。

 全身に折り重なっている温かさは、エリルの体温に違いなかった。女のコの身体はマシュマロのようだと霊児は知る。だが、そんな心地よさをはるか凌駕する刺激的な感覚が、霊児の唇にずっと貼りついている。

(……ま、まさか……まさかだよな? ……ウソだろ、そんなはず……)

 心臓が急にドキドキと高鳴る。

 期待する気持ちが2割、現実を直視する恐ろしさが8割……唇を襲う柔らかな感触の正体を確かめるべく、意を決して少年は瞳を開いた。

 ドアップで飛び込んでくる美少女の顔。

 霊児とエリル、ふたりの唇は、しっかりと重なり合っていた。

「うわあああああああ~~ッ!」

 どちらともなく絶叫し、弾けるように離れるふたり。

 呆然とお互いを見詰め合う。茹で上がったように、ふたりの顔は真っ赤に染まっていた。その事実が、先程の感触が夢などではなかったことを思い知らせる。

 キスだ。キスした。キスしちゃったぞ、おい‼

「れ、霊児くんッ! 今の、い、今……ね、ねえ、ウソよね? なにかの間違いよね!?」

「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! 違うんだって、不可抗力なんだってば! いやゴメン、オレも全然わかんないっす!」

 エリルの様子は明らかに動揺し切っていた。つい先程まで、2m超の巨人と渡り合っていたとはとても思えない。ただの、思春期真っ只中の女子高生であった。

 対する霊児の混乱ぶりも酷かった。自責の念が強すぎて、自分でもなにを言っているのかよくわからない。

気が付けば土下座をして、目の前のエリルにヘコヘコと頭を下げている。

「こ、この罪は一生かけて償います! 責任もって君のことを……ていうか好きです! 付き合ってください! ……って違うか。オレみたいな、なんの取り柄もねえヤツが、君に釣り合うわけないか。うおお、どうすりゃ責任とれるんだあああ!」

「ちょ、ちょっと落ち着いて、霊児くん! 責任とか償うとか、そういう問題ではなくて……」

 白セーラーの少女は両手をパタパタと上下に扇ぎ続けている。少しでも自分の火照った顔を、冷まそうとしているようだ。相当に混乱しているのは間違いなかった。背後でムクリと巨人が起き上がるのにも、気付いている素振りはない。

「マズイ、マズイわ! とてつもなくマズイのよ! キ、キスだけは絶対避けなきゃいけないのにッ……どうしてよりによって……ッ!?」

「う、うわあああッ――ッ、後ろ! 来てるッ! バケモノッ!」

 泳いでいたエリルの瞳が、瞬時に鋭く光る。白い残像だけを残し、振り返る少女。

「このッ……ふざけた小僧がアアアッ‼」

 山と見紛う巨体が、覆い被さるようにふたりに襲い掛かっていた。轟音を伴って飛来する右ストレート。己の顔よりも大きな拳を、美少女はわずかに首を傾け避ける。

「くッ!」

 桃のようなエリルの頬に、黒く焦げたような痕がついた。

 打撃をかわしつつ、少女は右腕を伸ばしていた。カウンターのパンチ、ではない。掌が大きく開かれている。張り手でも見舞うのか、と見えた瞬間――。

 ボオオォゥウウンンッ‼

「ほ、炎ォッ!?」

 思いがけぬ光景に、霊児は叫んでいた。エリルの右手から巨大な炎が渦巻き、グリゴールの全身を包んだのだ。

さすがの怪物も、業火のなかで咆哮しながらのたうち回る。いくら筋肉の鎧を纏っていても、灼熱の炎には防御効果は薄いだろう。

「今よ!」

 気が付けば美少女に手を引かれ、スウェットの少年はともに駆け出していた。不思議なことに、繋いだ右手は熱くない。グイグイと引っ張るエリルは力強く、走るスピードもしなやかな獣のようだ。

 工事途中の、上部の階層はまだ鉄骨が剥き出しになっているビルの背後に、ふたりは逃げ込んだ。5階建ての建造物はこの近辺では小規模の部類に入るが、まずは巨人の視界から隠れることが、なによりも最優先であった。

「ゼッ……ゼェッ……い、一体……な、なんなんだよ、これはッ……!?」

 両膝に手を置き、前かがみになりながら、霊児はなんとか言葉を紡いだ。ジョギング途中での全力ダッシュだけに、さすがに肉体への負担は大きい。コンクリートのビル壁にもたれかかったエリルも、激しく肩を上下させている。こちらは疾走ゆえの疲労というより、火柱を生み出してから様子が変わったようだ。

「……君……エリル、って名前でいいんだよな? エリルはその、全部わかってるんだろ? あのハゲの怪物は何者で、なんでオレが追われてて、さっきの炎は手品かなにか……」

「神炎、よ」

 矢継ぎ早な質問に、凛とした瞳が印象的な少女は、ひとつだけ答えを返した。

「神の炎、と書いてシンエン。消耗が激しいから、本当は使いたくなかったんだけど……あの場合は咄嗟のことで仕方がなかったの」

「ちょ、ちょっと待ってよ。落ち着こう。えっと、さっきのはマジックでもなんでもなくて、君の掌から本物の炎が出たと、それでいいのか?」

 じっと見詰めてくるふたつの瞳が、ウソでも冗談でもないことを雄弁に伝えてくる。

 間近で改めて見る少女は、美の女神が直接造形したのではないかと思うほどに可憐であった。大きな瞳は深く澄み切り、湖底を覗き込んだような青色を湛えている。すっと高く通った鼻梁に、桜色の潤んだ唇。セーラーに負けず劣らず素肌も白く、スレンダーでありながら女性らしい丸みに富んでいるのが制服越しにもわかる。

雰囲気からして霊児と同い年、高校2年と見受けられるが、整った美貌はよりオトナびて見えることもあれば、コロコロと変わる表情が幼く映ることもある。おおよそ完璧といっていい美少女ぶりであった。

 近くで見て、初めて気付いた点もあった。漆黒のセミロングの髪を中央よりやや左、エリル自身からすれば右側から分けているのだが、分け目部分の髪を編み込んでいる。分け目の地肌をちょうど隠すように、編み込みがペタリと沿っていた。ともすれば、編み込んだ髪がアンテナとか触角に見えなくもない、特徴的な髪型。

「そもそも君は……エリルは何者なんだ?」

 じっと眺めていると、唇に残った感触が妙に実感を伴ってきて、霊児の顔は火照ってくる。恥ずかしさを紛らわすためにも、質問を浴びせる必要があった。

 だが、白セーラーの少女から返ってきた言葉に、霊児のフワフワした心は、直撃雷を喰らったように硬直した。

「私は、天使よ」

 相変わらずエリルの真っ直ぐな瞳には、わずかな揺らぎも見られなかった。

「……あー……んーと……天使って、あの天使?」

「正確にいえば、今は下界でも住めるように人間の肉体にランクダウンしている状態だけど。天使本来の姿では、この世界で生きるのは難しいの」

「いやいやいや! エリルが天使のように美しいのはわかる! 納得だ、まさに天使だ。さっき見た、すげえ身体能力も天使ならって思わんでもない。だけどさ、いくらなんでも……」

霊児の反応はごく当然のものだったであろう。異常事態を数々目撃し、ファーストキスまで経験した。サプライズ慣れした今、大抵の打ち明け話は受け入れられる自信はあった。それでいて尚、エリルの告白は想像を軽々と越えていったのだ。

「霊児くん」

 ビル壁を離れた、と見えた少女は、次の瞬間にはスウェット少年の懐に飛び込んでいた。ピンと人差し指を立て、霊児の唇に押し付ける。

 突然の行動に、少年の顔全体が一気に紅潮した。さらにエリルは、頭ひとつ分ほど高い霊児にグイと顔を近づける。

 青みがかった、吸い込まれそうな大きな瞳が、鼻先で真っ直ぐ見詰めてくる。ドキドキしない十七歳の高校生が、この世に存在するわけがなかった。

「ッ……!? んぐッ……!」

「信じろといっても難しいのはわかっているわ。でも、よく聞いて。あいつはすぐに追ってくる。まずは私の話を聞いて、信じるかどうかはあとで考えて欲しいの」

 バニラのような吐息に頭がクラクラする。心臓の鼓動が異常に速くなっているのは、むろん走ったせいではない。

「さっきの大男の名前はグリゴール。御主みしゅさまのご意志に逆らい天から追放された、堕天使のひとりよ。ただし彼らは本来いくべきである地界には降りず、この下界……人間界に紛れ込んだの。もともと抱いていた、恐るべき企みを果たすためにね」

「……んぅ……」

「私たち天使も堕天使も、下界ではとても本来の姿ではいられないわ。ここはあまりに穢れすぎているから。人間の身体にならなければいけないけど、それは大きな能力ダウンを伴うことになる。自ら進んでこの世界に堕ちるなんて、まず有り得ないことなの」

 霊児は細かく首を上下させた。エリルが本当に天使ならば、あの巨漢が堕天使であるのは至極当然と思われたし、本来ならば能力が落ちる下界には現れない、という説明もすんなり腑に落ちる。エリルの話は納得できるものだ。

ただ、あまりうなずくと、唇がエリルの指に擦れるのが恥ずかしい。

「彼ら人間界に紛れ込んだ堕天使の悪行は、なんとしても阻止しなければならないわ。でもこの穢れた世界は、天界よりも地界……彼ら堕天使の住む境遇により近いの。私たち天使は堕天使の何倍も力を制限されてしまうのよ。残念ながら私たちだけの力で彼らを退治するのは、とても困難だわ」

「んッ……と待てよ」

 唇に当てられていた指をようやく剥がし、霊児は久々に声を出した。

「それはヘンだぞ? さっきエリルはハゲ巨人とまともにやりあってたじゃねえか?」

「グリゴールとは元々の力の差があるもの。天界にいたときなら、彼が私に挑んでくるなんてとても考えられないわ」

 顔色ひとつ変えず、さらりと美少女は言ってのける。筋肉が集合した岩山のような巨漢よりも強いことが、エリルのなかではさも当然のことらしい。

「でも、人間界に潜伏した堕天使は彼だけじゃない。ずっと凶悪な連中が、とても危険な思想を持って蠢動しているの。だから私たちは、霊児くんに助けを求めることに決めたのよ」

「オ、オレ? そこでオレがでてくるのか?」

「そう。須藤霊児くん、あなたにしか出来ないことがあるの」

「あ、明らかにオレよりエリルの方が強いと思うぞ? 大体自慢じゃねえが、オレは得意なスポーツはないし、脚の速さも腕力も普通だし……」

「あなたの前世は堕天使なのよ、記憶はないだろうけど。御主さまに能力を奪われ、天界を追放された元天使。人間界に住んでいるあなたなら、堕天使たちとまともに闘えるはずだわ」

 唇が触れそうな距離で話す美少女の言葉に、霊児の脳裏は真っ白になった。

「…………はい?」

「あなたは何千万年も前から御主さまに仕える立派な天使だった。とても有能だったわ。誰もが憧れるほどの……。でもある時、御主さまの怒りを買って天を追い出された」

「……え~と……」

「追放するときに御主さまはあなたの力を恐れ、剥奪することに決めた。あらゆる能力を分散して奪い、他の天使に分け与えたの。今のあなたになんの特別な力もないのはそのせいよ」

「……へええぇ~……」

「今は確かにただのひとかもしれない。でも、本来の能力を取り戻していけば、あなたなら地上に紛れ込んだ堕天使なんて敵ではないわ。堕天使を逮捕するもの、アレスターとして、きっとこの世界を救ってくれると信じて……」

「うおいッ! いくらなんでも信じられるかァッ、そんな話!」

 至近距離から、思わず霊児は叫んでしまっていた。

「信じるかどうかは、あとで考えてって言ったよね?」

「エリルが天使ってのはいい! いやビックリしたし、そんなバカなって思ったけど、全然有り得ねー話じゃない。むしろあの動きとこの可愛さ見てたら、それが当然って思えてきた! だけどザ・一般人のオレが元天使ってのは無茶がすぎんだろうッ!?」

「力に目覚めてないから、そう思うのも無理はないわ。でも、嫌でも自覚せざるを得なくなる」

「自覚せざるを、って……いやいや、普通だって! 悲しいほどオレは普通なんだって!」

「今まではね。もう違うわ。すでにあなたの元天使の力は、解放されているもの」

 解放。解放している、といったのか。オレのなかの何かが、解放されていると。

 だがわからなかった。霊児には、思い当たるフシが一切なかった。特別肉体に変化もないし、力が解放されるきっかけとなる出来事も、特にこれといって……

 不意に白セーラーの美少女が距離を開ける。なぜかその頬は、桃色に色づいていた。

 少し瞳が潤んでいるようにも見える。むにゅむにゅと口ごもり、意を決したように自らの唇を指さしながら、言った。

「……あのね……キ・ス………」

「へ?」

「だからもうッ……キス……なんだってば! 奪われた力を解放するには、『許可』の証として……私たち天使のキスが必要なのッ!」

 今度はハッキリわかるほど顔全体を真っ赤にして、エリルは叫んでいた。

「わ、私はまだ、『許可』したわけじゃなかったのに……! 私の正式名称はデュナミスのひとり、炎天使エリル。5千万年前、あなたにもらった『炎』の力の一部を……返したわ。なんか、不可抗力で。あなたにも、神炎の能力が宿っているはずよ」

 キスで『炎』の力を解放した、だと?

 それであの反応だったのか。キスした直後のエリルの慌てようを、霊児は思い出す。羞恥やテレ以上に困惑しているように見えたのは、そのためだったのだ。

 神炎というと、先程エリルが掌から生み出した業火の渦のことだ。外見上の変化はまるでないが、霊児にも炎を自在に操る能力が駆使できるというのか。

「で、でもッ……出ねえぞ? 掌から炎なんて……」

「初めて出すときは、戸惑うものよ。ちょっとコツを掴めば必ずできるわ。強く念じて、気持ちを込めれば……」

 話の途中で不意に、エリルの編み込んだ髪、触角にも似たそれがピンと立つ。

「え? な、なんだよ、その髪は……」

「マズイわッ、あいつがすぐ近くまで来ているッ!」

 本当にアンテナ……特徴的な髪は、堕天使を感知するセンサーかなにかだったのか。

 周囲を見回す霊児とエリル。地鳴りが低く唸っている。危険が迫っている、確かな前兆。

右か左か、前か後ろか。巨体のニセ破戒僧が襲撃してきそうな方向に、素早く視線を巡らす。

「上だああああぁぁッ‼」

 先に気付いた霊児の声に、すかさず美少女も空を仰ぐ。

 ほのかに茜に染まりかけた、天のキャンバス。暮れかけた美しい夕空を背景に、鉄骨が覗く建設途中の5階建てビルが視界に飛び込んでくる。

 倒れかけていた。

 つい先程までエリルがもたれかかっていたビルが、ピサの斜塔のように傾いている。勢いを増して、どんどんと地上のふたりに迫ってくる。

「あのバケモノッ……‼ ビルひとつ押し倒すってえのかあああッ‼」

「ウゴオオオオオッ――ッ‼」

 巨人の咆哮が建造物の向こうから響いてきた。もはや疑う余地もない。堕天使グリゴールは、エリルと霊児のふたりをまとめてビルの下敷きにしようというのだ。

「なんてヤツだッ! なんてヤツだッ! ふざけんなッ、バケモノ野郎ッ‼」

「霊児くんッ‼ 危ないッ!」

 ゆっくりと、しかし重量感を伴って5階建てビルが大地に倒れかかっていく。

 轟音。舞い上がる土煙。雪崩れる瓦礫に地面が震える。70%ほどまで完成していた建築物が、一瞬にしてコンクリートの塊に分解されていく。

「……くッ……大丈夫ッ!? 霊児くんッ、ケガはない!?」

 まだ地鳴りも止まらぬなか。崩落地点よりやや距離を置いた敷地内で、琴のような声が鳴る。砂塵が周囲に立ち込めていた。エリルの鮮やかな白セーラーも、だいぶ茶色く汚れている。

 少女の腕に抱えられた霊児のスウェットも、グレーが白に見えるほど土埃をかぶっていた。ハアハアと、荒い息が止まらない。エリルに運んでもらわねば、間違いなく常人の脚力ではビルの倒壊に巻き込まれていただろう。華奢な女子高生に助けられた、という情けなさより、迫る死の実感がはるかに霊児を覆い尽くしていた。

「く……クソッ! あいつッ、あのハゲッ……マジモンの怪物なのかよッ! 本気でオレを殺す気ッ……堕天使にとっちゃあ、オレが邪魔だってのかッ!」

 突然、エリルが少年を突き飛ばす。すごい力だった。軽々とスウェット姿が宙を舞う。

「ッ!? なッ……‼」

「今度こそ逃げてッ! いいから早くッ!」

 地面と平行に飛びながら、霊児はエリルの行動の意味を瞬時に理解した。

 両手を突き出した姿勢のまま、どんどんと小さくなっていく白セーラーの美少女。

 その背後に仁王立つのは、スキンヘッドの大男。

すでに右腕を大きく振りかぶっている。グリゴールの襲撃から守るために、エリルは霊児を突き飛ばしたのだ。

「エリルッ‼ 危ねえェッ‼」

 白い天使が振り返るのと、巨人の右フックが発射されるのは同時だった。唸る剛腕。エリルの顔に凶悪な拳が襲い掛かる。

 直撃――と見えた寸前、かろうじて細い腕が、横殴りの打撃をガードする。グラリと揺れる、スレンダーな肢体。桜色の唇が歪み、強く噛みしめた白い歯が覗く。

 ヤバイッ! このままじゃ、エリルがッ!

美少女の苦戦に総毛立った瞬間、霊児の背中に熱が走った。摩擦。土の地面を滑っているらしい。すぐに大地に背中が、叩きつけられた。息が詰まる。骨が軋む。ビル敷地内の大地を、グレーのスウェットがゴロゴロと転がり回った。

「ぐふッ! げほォッ! ゲホゲホッ! ……エ、エリルッ、無事かァッ!?」

 筋肉が、骨格が、悲鳴をあげるのにも関わらず、すぐに霊児は立ち上がった。視線を向ける。人間の姿をした、天使と堕天使の闘いの場に。2m超の大男の猛攻を、白セーラーの女子高生は凌ぐことができたのか?

 事実上、決着はついていた。

 美少女のくびれた腰に、グリゴールの極太の両腕が巻き付いていた。相撲でいうところの、サバ折り。プロレスでいえばベアハッグ。エリルの上半身が反ってしまうほどに、強烈に背骨と腰とが怪力で締め上げられている。

「なッ!?」

「……だ、だいじょう……ぶッ……! わ、私は……平気よッ……!」

 わかりやすいウソを、エリルはついた。

 本当に平気な人間は、顔中に脂汗を浮かせなどしない。本来凛とした瞳を、虚空に彷徨わせなどしない。ミシミシと背骨が軋む音色を、鳴らせなどしない。

 なによりも、5階建てビルを押し倒す怪力に締められ、平気でいられるわけがなかった。左右の腕もろとも巨人に抱え込まれているため、反撃に転じることも不可能に近い。先程のように掌から炎を噴き出しても、エリル自身に引火するだけだ。

「てッ……めええッ~~ッ‼ なにしてやがんだァッ、クソハゲぇッ‼」

 エリルの窮地は霊児のせいだ。霊児を守ったために、不覚を取ってしまったのだ。

 その事実がわかるだけに、少年の頭に血が昇った。絶叫した。拳を強く、強く握る。血走った視線が、真っ向からスキンヘッドの巨人を射抜く。

「ダメッ……! ダメ、よッ、霊児くんッ……! さっきみたいな無茶は……やめて! 私のことはいいから……あなただけは逃げてッ!」

 声が苦しげになるのを、懸命にエリルは堪えているようだった。

先程の膝カックン。背後からの奇襲とはいえ、凡人である霊児がなぜ逃げずに、グリゴールに挑めたのか。思い返すと、霊児自身がぞっとする。自分でもよくあんな無茶が出来たもんだと、不思議に思うほどだ。

 しかし今回はもう、無茶な突撃は通用しない。巨人は正面から霊児を見据えている。突っ込めば確実に殺されるだろう。逃げる以外の選択肢は有り得なかった。怒りがフツフツと沸いてきていても、霊児はエリルを見捨ててこの場を去るべきなのだ。

「こいつの本来の目的はッ……あなたなのよッ! 私以外の天使から『許可』をもらえば……あなたはもっと強くなれるッ! 人間界の未来のためにも、あなただけはここから逃げ……」

「そんなことッ! できるわけねえだろうッ‼」

「グフッ、グフフフ! いいぞ、お前ら。ふたりとも我が捻り潰してくれるッ! 小僧、そこで突っ立ってエリルが二つに折れるのを見ているがいい」

 エリルを抱えた巨人の両腕に力がこもる。ビクンッ、と白セーラーの肢体が震え、美貌が明らかな苦悶に引き攣った。

「うあああッ……‼ ああッ……! ぐ、うううッ――ッ‼」

「やめろって言ってんだろうがああッ――ッ‼ ぶっとばすぞッ、てめえェッ――ッ‼」

 なんの取り柄もないはずの少年が、獣のごとく咆哮する。怒りの眼光と剥き出した歯。強く握り締めた拳からは、血がうっすらと滲んでいる。膝だけは、ガクガクと震えていた。死ぬかもしれないという恐怖と、煮えたぎる激情。デッドオアアライブの綱引きのなかで、次の一歩を前に出すか後ろに出すか、霊児の心は決めかねる。

「グハハハハッ! ぶっとばすだと? やってみろ、小僧! 我はここに立っているぞ?」

 高らかに笑うニセ破戒僧が、スキンヘッドを少女の胸に押し付ける。そのまま額を押し出すように、前方に圧力をかけていく。

 メキッ……メキメキ……

 残酷な音色が、反り曲がったエリルの背筋から沁みだすように奏でられた。

「エッ……エリルゥッ~~ッ‼」

 甲高い悲鳴が、桜色の唇を割って出る、と思った。たまらず霊児は耳を塞ごうとした。

 だが、現実にエリルの口から紡がれたものは――。

「……あ……あはは……! 逃げて、霊児くん……私はッ……だいじょ、ぶッ……! 捕まったのは、あなたのせいなんかじゃない、からッ……気にしないで、いいのッ……‼」

 恐るべき巨人に再び特攻するか。それとも、明日のために生を選ぶか。

 踏み出せない霊児の背中を押したのは、苦痛のなかでエリルが浮かべた柔らかな微笑みだった。

「エリルッ‼ オレがバケモンに突っ込めるのはッ! 責任を感じている、なんて理由じゃねえェッ‼ ましてアレスターだなんだって関係ねえッ‼」

 少年の脚が力強く一歩を踏み出す。前へ。

 目いっぱい右の拳を握ったまま、一直線にスキンヘッドの巨人に突っ込む。

「男って生き物はなぁッ! たとえ自分よりはるかに強くても……カワイイ女は、命がけで守りたくなるんだよォッッ――ッ‼」

 締め上げていた少女を放り投げ、巨人が迎撃態勢をとる。グリゴールには最初からわかっていたのかもしれなかった。霊児が再び、突っ込んでくることを。

 真正面から飛び込む霊児に、巨大な拳が唸りをあげて迫った。

 だが少年は、疾走を緩めない。本当に当たって砕けるつもりだった。ただ怒りを込める。エリルへの想いを乗せる。握る。握る。握る。渾身の力で、右の拳を握り締める。

「飛び散れッ、小僧ッ‼」

「うおおおおおおおッ――ッ‼」

 風を巻いて唸る剛腕。

 少年の小さな拳が、怪物の巨拳を真っ向から迎え撃つ。どう見ても無謀だった。右手どころか、グレーのスウェット全体が玉砕すると見えた瞬間――。

 ゴオオオォウウゥッ‼

「し、神炎ッ!?」

 倒れ込んだエリルが叫ぶ。

霊児の右拳は、突如紅蓮の炎を噴いた。

「ギャッ、ギャアアアアッ――ッ!?」

 拳同士が触れた刹那、グリゴールの右腕は全体が業火に覆われていた。焦熱に焼かれる激痛に、惨めに喚く巨漢の堕天使。

「そうか。エリルが言ってたコツってのは……思いっきり『気持ちを込める』! つまりは『心を燃やす』ってことだったらしいな! これならオレでも炎を操れそうだぜ」

 霊児の右拳は、いまだ猛々しい炎を宿らせていた。不思議なことに自分は熱くない。悶絶するグリゴールの懐に躊躇なく飛び込む。

「よく聞けッ、堕天使‼ なんの取り柄も、能力もないオレだがなッ……!」

 炎渦巻く右腕を、大地から突き上げるようにして霊児は発射する。

「誰よりもアツくたぎることはッ‼ こんなオレでも出来るんだよォッ――ッ‼」

 噴き上げる火柱のアッパーが、グリゴールの顎を撃ち抜いた。

 炎に包まれた巨体が、宙を舞って飛んでいく。瓦礫の山へ。倒壊したビルの残骸に、禿げ上がった頭頂から突っ込んでいく。

 周辺一帯のビル群が、大音声に揺れる。

 激突の轟音を残して、破戒僧にも似た巨漢堕天使の姿は、コンクリートと鉄骨の山に埋もれていった。あとにはただ、黒い煙が濛々と立ちこめるのみ。

「……ゼエッ……ゼエッ……ハアッ……勝った……のか?」

 激しく肩を上下させ、霊児は炎の掻き消えた右手を静かに見つめた。

 押し潰されそうな疲労と倦怠感。どっと蘇る全身の痛み。肉体に張り付いたダルさや疼きこそが、平凡だったはずの少年が確かに闘いを切り抜けた証拠だった。

「そうよ。あなたは……堕天使グリゴールに勝ったのよ、霊児くん」

 いつの間にか隣に立っていたエリルが、陽だまりのように笑っている。抱きつきたくなるほど、チャーミングな笑顔だった。グリゴールから受けたダメージも、随分回復しているらしい。

い、今なら、ドサクサに紛れて思いっきりハグを……霊児が両手を広げかけた時、エリルの瞳は凛とした鋭さを取り戻した。

「でも! ああいう無茶はもうやめて! ギリギリで神炎が発動したから助かったものの、一歩遅かったら本当に死んでいたかもしれないのよッ!?」

「……うッ……ご、ごめんなさい……反省してます……」

「まったく……。でも、最後の瞬間は……昔のあなたに、ちょっと似てたかな……思わず、私……」

「え?」

 エリルの台詞は半ばで途切れ、最後まで霊児には届くことはなかった。

 腹部を両手で押さえ、眉を寄せた美少女は、ゆっくり前のめりに倒れていく。

「エ、エリルッ!? だ、大丈夫か! しっかりしろ! おい、エリルッ‼」

 瞳を固く閉じ、地面に突っ伏した少女は、ハアハアと荒い吐息を漏らし続けた。

遥か彼方より、けたたましいサイレンが、戦闘の跡地に近づいてきていた。




「グウウッ……ウゴオオオオッ~~ッ‼」

 積み重なった瓦礫を跳ね飛ばし、崩落したビルの残骸から巨大な肉体は這い出した。

 作務衣のような着衣は、ほとんどが焼け溶けている。右腕と顔面はベロリと皮が剥け、赤黒く爛れた地肌をさらけだしていた。全身を包む筋肉の鎧から立ち昇るのは、魚を焼いたときのような黒い煙。ビクビクと毛のない眉が震えているのは、痛みのせいではなく、屈辱がゆえだろう。

 巨漢の堕天使グリゴールは生きていた。黄色に濁った眼を、四方に振り撒く。グレーのスウェット姿も、純白のセーラー服もすでに周囲には見当たらなかった。

「おのれェッ……‼ おのれ小僧ォッ~~ッ‼ 今度会ったときは必ず殺してッ……」

「随分な有り様だな、グリゴール。その様子では『彼』を捕らえられなかったか」

 突如背後で湧いた声と気配に、2m超の巨体が硬直する。

 恐る恐る、スキンヘッドを振り向かせる。迂闊だった。憎き小僧と小娘の姿を探し求めるあまり、畏怖すべき対象が身近に潜んでいたことに気付かないとは。

「ク、クルエルさまッ……も、申し訳ございませぬッ……」

 痩身長躯。銀の髪と瞳を持つ男が、漆黒の三つ揃えを纏って佇んでいる。

モデルのような体型と端正な顔の持ち主だった。傍らには金髪の少女――身長は1mに届くかという小柄で、幼児と呼ぶのがより近いかもしれない。青い瞳に白磁の肌。ゴシック風の華やかな衣装を着こんだ姿は、本物のフランス人形が生命を得たかのようだ。

 だが、この愛らしい容姿を持つ少女を、カワイイと表現するには抵抗があった。その造形に一点の非もないにも関わらず。

 なぜなら、少女の背中には、身の丈を遥かに超す巨大な戦斧が負われていたから。

「フン。安心しろ、このバカが。最初から貴様ひとりで成功するなどとは思っていない」

 漆黒に身を包んだヤサ男が、薄い唇を吊り上げる。自分に向けられた銀の瞳は、冷たく侮蔑し切っている、とグリゴールは思った。まるで、ウシガエルのように大きさだけが取り柄の動物を見ているかのごとく、に。

「だがしかし。殺すという言葉は聞き逃せんな。『彼』は必ず生け捕りにしろと命じたはずだぞ? シャルロット、このバカには少しお仕置きが必要のようだ」

 罰を言い渡す時ですら、銀の瞳には憤怒や苛立ちといった感情より、唾棄するような蔑みが色濃くにじみ出ていた。

 ビクリと仰け反った巨漢に、音もなくフランス人形の少女が寄る。グリゴールの股間にすら、金髪縦ロールの頂点は届いていない。オトナと子供、の比喩すらこの身長差の前には生ぬるく感じる……と見えた矢先。

 ふわりと、シャルロットの名を持つ少女が浮いた。それがジャンプによるものだとは思えぬほど、軽やかに、ゆるやかに。

 生けるフランス人形が右手を振る。ビンタ。小さな小さな掌が、大きな大きなスキンヘッドの側頭部をしたたかに叩く。

 爆発に似た轟音が響き、2m超の巨体は弾丸となって瓦礫の山に再び飛び込んだ。

 5階建てビルの残骸を突き抜ける。二度、三度と地表を跳ね、天衝く高層ビルの壁面に激突して、ようやくニセ破戒僧の肉体は進撃を止めた。

「バカめが。なんならそこで、ずっと寝ていても構わん」

 フンと鼻を鳴らし、かすかな微笑すら浮かべて、銀髪の男は踵を返す。

「ようやく『彼』に、会える時がきたな。私の大願も成就する日は近い」

 去りゆく男の脳裏に、巨人の存在はすでに忘れ去られているようであった。


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