第2話 家族の絆
ブチ切れた俺はロードローラーよりも危険だ。
普段は温厚で紳士なことで有名な赤須暗真(※1)、十と六歳、乙女座の美少年。
世界平和と女性と女性の胸が大好きな、愛に生きる男。たくさんの女の子と仲良くしていたらブチ切れた幼馴染みにカッターで切り刻まれそうになって異世界へ転生してしまった。何でさ!
しかし一度怒れば、世界平和とかクリムゾン嘘、本当は女の子のことしか考えてないから! といつも以上に正直者になってしまう。
腹を空かせて異世界から、実家へ戻ってくれば、母親から出されたのはカレーとロールパンとサラダ(※2)。
ふざけんじゃなえ、こんなもの出されたら戦争じゃねえか!
「カレーとパンって。ナンでもねえし、カレーパンでもねえ。こんなんありかよ! ビーフシチューじゃねえんだぞ……っ!」
と文句を言いながらも出されたものは黙って食う俺。はあ、なんて優しいんだ。もう一回くたばったら聖人になるかも知れない。
しかし一口、一口と食べていると、いつの間にか食べ終わっていた。
カレーもパンもサラダも残さず完食している。
つまりロードローラーが地面を平らにするように、俺はカレーを平らげたわけだった。
空腹はスパイスとも言うが、カレーはスパイスそのものなのだ。
何もおかしなことはない。
腹が膨れると、冷静さを取り戻すことができた。
怒りも一周回って、今は無感情に等しい。
平気で花とか踏んで歩けるし、小学生の女の子とも付き合える。
「いや、やっぱ小学生はダメだろ犯罪だ。巨乳の小学生なら、法律も目をつむってくれる可能性はあるのだが……」
「何変なこと言ってるの?」
「ふっ、言って置くけどこっちの世界の小学生女児は発育良いからな。お前も余裕こいてると負けるぞ」
ラプスのまるで平坦な胸を見て俺は慈しむ心とその他諸々の感情を思い出す。
って大事なことを忘れていた。
胸の膨らみよりも大事なことがあるのか。いやあるのだ。
「……戻ってきたけど、戻ってないんだった」
今の俺は、異世界の天才魔法使いリリカ・ネクラマ・パーテーション(※3)、同じく十と六歳、最近ちょっと胸が大きいと肩がこるって本当だったんだなって実感している美少女。アホな勇者と一緒に元の世界へ凱旋したのは良いんだけど困っています。
仮に元の姿――正真正銘の赤須暗真ならば、母さんとのさっきのアホなやり取りはいらなかったし、我が物顔で「え、米ないの? ふーんそう、じゃあスーパー行ってきて? パックご飯? ふざけんな、早炊きで許してやるから黙って生米買って来い」って関白な対応ができたのに。
向こうからしたら俺は謎の美少女――加えて今は、ラプスが適当言ったせいで、自称許嫁で種付け済という、明らかにわがままが許される立場ではない。
母さんの混乱に乗じて夕食をせしめたが、家から追い出されなかったことが奇跡とも言える。
母さんとラプス、二人のアホが生んだ奇跡だった。
「どうしたのネクロ、なんか落ち込んでない?」
考え込んでいる俺にラプスが心配そうな顔で聞いてきた。こいつは勇者だけあってか、人のことを気にかけるって言うか、そういう意味での気配りができるやつなのだ。ただほっぺたに付いたパンくずが、明らかに俺を小馬鹿にしている。
気遣いはできないやつなんだよ、こいつ。
「……ちょっとお手洗い借りて良いですか」
と俺は立ち上がる。
「あの、廊下へ出て直ぐ左に行くと壁が左右にあって――」
と場所を教えようとする母さんだが、自分の家のトイレの場所なんてわざわざ聞かなくてけっこうだ。
俺はトイレの先にある、浴室へと入った。一人になりたかっただけで、別にトイレに用はない。
元の姿――男へ戻る。
思いつく方法は一つだけだが、成功する見込みははっきり言ってかなり低い。
その手段は魔法だ。
と言うか、元々魔法で戻る以外に解決策なんてないだろう。だって女が男にすっかり変わる方法なんて魔法ぐらいだろ? いや、もちろん医学的な技術である程度はどうにかなるかも知れないが、それはちょっと違うというか、仮に男にはなれたとしても元の俺に戻ったとは言えないし。
ただ魔法で、どうにかなるのか。
うん、悩むより先に試してみるか。
「えっと、うん……」
俺はしっかりと風呂場のドアを閉めて、窓の外から近くに人がいないことも確認する。
魔法を使っているところを見られるわけにはいかないからな。
もちろん、この世界には存在しない超常の力であるか隠す必要がある――というのもあるのだけれど、単純に魔法の呪文を唱えているところ見られたら超恥ずかしいからだ。
だいたい向こうの世界なら、妖精語ってことで、多分一般人から見ればよくわかんないけど不思議な呪文って感じになるんだけど、日本で唱えたら普通に日本語でぶつぶつ気味悪いこと並べてるだけだからな。
幸い、呪文と言っても混沌とか黄昏とか深淵とか――そういう痛い感じのやつじゃないのはまだ救いだ。
でももっとさ、今風のにさ外国のロックバンドの名前とか(AlcatrazzとかWhitesnakeみたいなの)にしてくれたらカッコイイし、魔法って感じで俺もばっしって決められんのにさ。そこら辺もうちょっと考えて欲しいんだよね。
つうか最早呪文って本当に必要なの? ダニエル・ラドクリフもハリポタの最後の方じゃ杖振って光の球飛ばすだけで呪文とかサボりっぱただったじゃん。
だいたいロード・オブ・ザ・リングじゃガンダルフは一回も呪文とか唱えてなかっただろ。イライジャ・ウッドに「ガンダァゥフッ!」ってエクスペクトパトローナム的なノリで名前呼ばれてたけど、あれは魔法と無関係だしな。
などと文句を言いながらも、俺は渋々魔法を唱えた。
古い妖精語――こっちだとまんま日本語で、うんにゃらかんにゃら、元の姿、男に戻してくんなましってなもんで。
「……」
浴室の鏡に映るのは、リリカ・ネクラマ・パーテーション。
白金色の髪と、エメラルド色の瞳を持つ新雪みたいに白い肌の美少女天才魔法使い。
向こうの世界での俺の姿だった。
つまり光がぴかぴかーとか、煙がもくもくーとかそういう感じのエフェクトすらなく、呪文はあっけなく失敗に終わったようだ。
失敗するだろうとは思ってたけどさ、こっちは恥を忍んで魔法使ってんだぜ? 失敗には失敗なりの何かがあるだろ。無意味に爆発するとか。いや、自宅の風呂場で爆発されても困るけどさ。
失敗の理由で考えられるのはぱっと二つ。
そもそもこっちの世界で魔法が使えない――という可能性。
俺は適当にシャンプーボトルとリンスボトルの中身を入れ替える魔法を唱えてみる。
「……あ、やばい、成功したのか失敗したのかわからない」
バカだ。なんでこんな地味なことしたんだ。今時格安ラブホだってこんな嫌がらせしてるやついねえだろ。
「せっかくだし髪洗うか」
俺の白金色の髪は美少女特有のキューティクルで十分な髪質は保っているものの、やはり長年の旅での生活で――こちらの世界の一般的な女子と比べるとやや痛みが目立っていた。
冒険の最中はろくに髪も洗えないからな。
こっちじゃ、美容院のお姉さん推薦のノンシリコンのシャンプーリンスで髪の手入れには余念がなかったのに、全く。
おもむろに服を脱いで、風呂場の外へ適当に放って置く。
「でシャンプーはどっちに入ってんだ?」
お湯ですっかり髪を濡らして軽く汚れを流してから、俺はしばし悩んだ後にリンスのボトルをプッシュした。
ドロリ、と透明感のある粘液性の強い液体が勢い良く飛び出て、俺の頭にかかる。軽く手で髪をもみほぐすと、柔らかい泡が立った。
「……シャンプーだ。ってことは、魔法使えるのか」
まさか最初から中身が逆だったってことはないよな? と思いつつ、念のためと次に使うやつのためを思って、もう一度中身を入れ替えてみる。
今度はシャンプーのボトルからシャンプーが出てくる。
俺の髪は肩胛骨の辺りまでのびた、ちょっとしたロングヘアーだ。男の時よりもだいぶシャンプーも使うし、髪を洗う手間もかかった。リンスもしっかりと髪に馴染ませたし。
「はぁ、すっきりした」
ってそんなことよりも――いや女子の髪はとても重要度の高いことだけど俺は女子じゃないから――魔法だ。
ちゃんとシャンプーとリンスが入れ替わって、元に戻ったのだ。
おそらく世界で四番目くらいに無意味な魔法ではあったけれど、魔法は成功した。
魔法自体は使える。だけど、男には、元には戻れなかった。
つまり、おそらくは魔力が足りないのだろう。
魔法というのは言葉を間違えず呪文を唱えれば、たいてい何でもどうにかなるのだけれど、使う魔法のレベルによって魔力を消費する必要がある。
で俺は向こうの世界にいた頃も何度か元の姿に戻れないかと魔法を使ってみたことはあるが、成功したことはない。魔力が足りないせいだ。
男に、元の姿に戻る、と言うことはつまり、今の美少女の身体をすっかり変化させると言うことだ。人間の身体を全て造り替えるわけだから――それはレベルの高い魔法ということになる。
これは推測だが、魔王クラス――ってことはないだろうが、少なくろも魔人クラスの魔力が必要だろう。生命や人体に携わる魔法は軒並み魔力の燃費が悪いのだ。おかげで回復魔法が使える白魔導師は普通の攻撃魔法が使える魔法使いの十分の一ぐらいしかいない。
俺は呪文こそ自由自在なわけだが、魔力そのものは一般的な上級魔法使いと大差ないレベルだ。
身体を造り替える魔法はできるはずがなかった。
当然ながら、世界を移動するほどの強力な魔法なんて使えるはずもなく、こっちの世界へ戻ってくる、という俺のもう一つの目標も長年実現しなかったわけだ。
だが偶然にも、魔王に身体を乗っ取られたことで、事情が変わったのだ。
俺の身体には図らずも、魔王の強大な魔力が残され――その力を使ってこちらに戻ってきたのはいいのだけれども、こっちの世界に戻ってきたことでその力は使い果たされ、元の姿に戻るという、むしろ優先すべき目標が解決されずじまいという結果なわけだった。
待て、これって勝手に付いてきたアホの勇者の分がなかったら、こっちの世界に戻って元の身体にも戻れたんじゃないのか?
「……あいつ後で泣かすわ」
俺は新たな決意を胸に、浴室を出て髪をタオルとドライヤーでゆっくり丁寧にかわかした。
◆
タオルを首にかけて、欠伸しながらリビングに戻ると。
「えーこれがネクっ――じゃなくて暗真、なのか? うーん、なんだろ、髪色とか全然違うのに違和感がない。顔の造りはけっこう似てるのかな。というか本当に男? すごく弱そうだけど、太鼓とかたたけるの?」
「あはは、あの子貧弱だからねー。でも脚は速いわよ。あとあれ、太鼓は知らないけど、女の子がいっぱいでてくるリズムゲーム? みたいのはよくやってたわ」
ラプスと俺の母さんがアルバムを見ながら盛り上がっていた。二人して並んでソファーに座っている。
「え、ラプス馴染み過ぎじゃない……?」
つうか許嫁って設定あったの忘れてるだろ、何写真見て驚いてんだよ。あとその感想ははなはだ遺憾の意だから、後日抗議させてもらうぞ。
「あ、ネクロ。遅かったね。お腹痛いの?」
「いや、別に」
「もしかしてつわりなの?」と母さんは心配そうに訊ねてくる。
ねえよ、ねえから。面倒だから、正直にシャワーを借りたと言うと。
「ネクロ、人様の家で勝手に浴室を使うのはどうかと思うな」
「……何かお前に言われたくないんだけど」
ここ俺の家だし。
「良いのよ、ラプちゃん! シャワーくらい、だって二人とも長旅をしてわざわざウチのバカ息子に会いに来てくれたんでしょ? そうだ、ラプちゃんもお風呂どう? 疲れ取れるわよ」
ら、ラプちゃん? え、何そのサンリオのザコキャラみたいなやつ。
「いや、そんな悪いですよ」
「遠慮しなくって良いわよ。待ってて、お湯は入っているから追い焚きするだけで良いのよ」
と母さんは浴室へ行く。
「……あの、ラプスさん。俺の母さんとちょっと仲良くなりすぎじゃないか?」
「私はいつも通りしていただけだけど。何か問題あった?」
「問題ってわけじゃないけどさ……」
何だろう、この煮え切らないモヤモヤは。
こっちが元の姿に戻れなくて困っているってのに、人の母親と仲良くしやがって。
いくらゆっくりシャワー浴びて髪洗ってたって三十分は経ってないよな、どうやってあんな仲良くなったんだよ。
「それにしてもこれがネクロかー。本当にこれが元のネクロなんだよな? 今まで正直半信半疑だったけど」
とラプスは興味深そうに俺の写真を見て言う。
「本当だよ。半信半疑って八割くらい疑ってたくせに……」
「ま、でも見た感じ、大差ないし戻れなくても良いんじゃないの?」
「バカかっ! 全ッ然違うだろ! 戻るわっ! 絶対戻るから!」
何を言うかと思えば。
そうかなあ、とラプスはアルバムの俺の写真を眺めている。やめろ、写真写りには自信があるって言っても、子供の頃の写真とか恥ずかしいだろ。
しかし、戻ってきた母さんとラプスのアルバム鑑賞会は続いた。
俺も美少女の身体のままでは、やめろと強く言うこともできない。やきもきしながら傍目で見ていると、風呂が温まり、追い焚きが完了したことを告げる電子音が鳴った。
ようやくこの鑑賞会も終わりか。
「ほら、ラプちゃん。お風呂入って来て良いわよ」
「そうですね、せっかく沸かし直してもらったな……ああ、そうだ。良かったら美香代さんもご一緒しませんか?」
「ちょっ!? お前何言ってんだよ!」
ラプスがアホなことを言うせいで、俺はちょっとジャンプして怒鳴る。
「何って、せっかくだから親睦を深めようと思って」
「深めなくて良いからっ! え、おかしいだろ、何で一緒に風呂って。銭湯じゃねえんだぞ」
「えーだって、ネクロ、俺が元いた世界じゃ風呂は一緒に入るもんって言ってなかった?」
「……そ、それは、言ったような言ってないような」
くそ、まずいな。エロい気持ちで適当なこと言った覚えがあるぞ。
いやでもこっちの世界で、初対面の人間が家庭用の風呂に一緒に入るなんておかしいからな。向こうの世界じゃ風呂自体そこまで一般的じゃなかったから、そういうのがおかしいおかしくない以前の問題だったけど。
そう、母さんが断ってくれれば問題は――。
「そ、そうね。せっかくだし。ラプちゃんはもしかしたら将来、暗真のお嫁さんになるかも知れないわけだから、他人行儀ってわけにも」
「た、他人だよっ!? 母さん、そいつ他人だから! 他人行儀で問題ないから!」
と俺が慌てて否定すると。
「えっと、貴女の母さんじゃないんだけど……」
とラプスとの温度差を如実に感じさせられるリアクションで、実の息子であるはずの俺は心に深い傷を負った。
恋愛ドラマで最終話に振られる当てつけ男の気分さながら、風呂へと消える二人を見送った俺。
失った家族との絆――そして元の姿を取り戻せる日は来るのだろうか。
そんな俺のところ、というより家へ帰ってきたのは、もう一人の家族、父さんだった。
別に高校生だけど反抗期とか特にない俺は、父親とも仲は良いのだが。
「ただいまー……って、え、あの、どなたでしょうか?」
リビングのドアを開けて、俺を見て固まる父さん。
ちなみに俺はソファーとかに座ってくつろぐ気にもなれず、テレビとソファーの間に置かれた脚の短いテーブルの周りをうろうろしていたところだった。
「……俺、じゃなくて暗真、の知り合い……じゃなくて友達、です」
「は、はあ。あいつの友達」
父さんはぽかーんとしばらく俺を見つめる。
多分、どう見ても外国人でモデルとかアイドルとかそういうレベルの美少女である俺に驚いているのだろう。でもほら、俺ってモテるじゃん? だからこんな美少女の友達がいても不思議じゃないだろ?
「あいつ、なんか悪いことしてんのかな」
「……してねえよ」
父親の小声に、俺も小声で文句を言う。
なるほど、俺は両親から信用されていないらしい。悲しい。
「それで暗真は?」
と父さん。ここだよ、ここ。と言っても信用されないだろうしな。
「まだ帰ってないみたい、です」
「……えっと母さんはどこかわかる?」
「お風呂入ってます」
「そ、そうか」
何故俺は父親とこんな気まずい会話をしなくちゃならんのか。
「えっと夕食は……」
「カレーみたいですよ」
みたいですよ、ってのはカレーだってのは知っているけど、いやお前が何で知ってんだよってなると思うから、何となくそうなんじゃないかなって知っている風を装っているわけだ。そんな細かいことどうでも良いだろうけど。
「そ、そうか。じゃあ食べようかな」
「……あの、俺、じゃなくて私、温めましょうか」
「え、いや、いいって。お客さんだろ。座ってなって」
え、何でなの。
ラプスは母さんとあんなに仲良くなってたのに、実の親子である俺と父さんは何でこんな感じなの。
何が悪いのか。まあ、多分俺が美少女だからだな。父さんも美少女を前に緊張してしまっているんだろうな。
「何だこれ? サラダか、まあ良いか。適当に盛りつけて食べようかな」
とわざとらしい独り言を言いながら父さんは俺の方をチラチラと見ていた。やはり美少女が気になって仕方ないと見える。
そうだ、俺は美少女なんだ。何が悲しくて中年のおっさんに気を遣わなくちゃならんのか。それも実の父親に! そうだ、父さんの方が俺に気を遣えば良い。俺客だし。
「あれ、ご飯ないの? パンか……」とぼやきながら一人食卓に座る父親を無視して、俺はテレビの電源を付ける。
テレビとか何年ぶりだよ、本当。
うわあ、すげえ小さい箱の中に人がいるよ、とか言いたくなる。
長い異世界生活でちょっとした浦島太郎気分――は違うか? 俺じじじじゃなくて美少女だし、だいたいこっちじゃ少しも時間が過ぎてないからむしろ逆か。――でチャンネルをカチャカチャいじる。
何か面白そうなやつあるか。ランボーとかやってないの? ってまだ七時前(※)だからニュースとかびみょうなのばっかだな。適当に一番可愛い女子アナのとこでも見よ。
十年ぶりのこっちの世界、日本。テレビから流れるたわいもないニュースが俺にはとても新鮮で、それでいてとても懐かしかった。
へえ大釜で、三千人分の釜揚げうどんね。そんなんやるから水不足になるんじゃねえの? コンビニに強盗ねえ、ってけっこう近所だし危ねえな。などなど。
俺はやっとのんびりと心を休ませることができた。
シャワーで身体を温めたせいか、魔王を倒した(一緒に倒された)疲れか、なんだかうつらうつらしてきて――。
次第に意識が――。
「大丈夫、大丈夫だから」
今にも眠りそうな俺の身体に、何かが覆い被さった。
聞き慣れた声――父さんか? と荒い息。
「ハァハァ、全部大丈夫だからね」
重たいまぶたを上げて、掠れた視界に映ったのは父さんだった。
目は大きく開かれ、紅潮した顔に半開きの口。
ゴツゴツした男の指が、俺の服を脱がそうとしていた。
「え、と、父さんっ!? ちょっと、ねえ、何してんだよっ!」
「大丈夫、何も心配いらないから。大丈夫だよ」
うわごとのように、心のこもっていない言葉。
どう見ても父さんは正気じゃなかった。
いやね、仮に正気だったらどうしようって話だから。親父が年端もいかない美少女を襲おうとしてんだぜ。もしシラフでやってんなら、俺の方がおかしくなるって。
「くそ、仙草かっ!」
さっきごちゃごちゃやってる時に、テーブルに置いてあったラプスの土産だった仙草を食べたんだろうな。あれ見た目はほうれん草とか小松菜に似てるし。
仙草は精力増強効果のある薬草だ。食べると性欲もかなり上がって、並みの人間なら正気がなくなっても不思議じゃない。
「だからってさあ、実の父親に襲われるのは勘弁して欲しいんだが」
仕方ない、とりあえず気絶でもさせるか。確か仙草の効果は一時間くらいなはずだったし、ちょっと眠らせて置けば元に戻るだろう。
仕事でくたびれた中年のおっさんなんて、異世界帰りの俺の敵じゃないぜ。
と思ったのだが、やはり体格差、男女の差というのは悲しいくらいに大きいらしい。
営業職(※7)・真治(41歳)はそのしょぼくれた身体のどこにその力と性欲を隠していたんだってくらい手強い。
俺のブラウスのボタンが知らぬ間にか全部外れている。どうする、魔法を使うか。魔法なら生身の人間なんて、頭を吹き飛ばす楽にくらいできるけど。
って父さんの頭吹き飛ばしちゃマズイだろ。この家、ローンあるし。たいした生命保険も入ってなかったはずだ。
加減して攻撃できるか? 自信ないな。腕か指ぐらいは消えてなくなるかも知れない。
――と悠長なことを考えていたら。
「お、おい、いつの間にっ!?」
今度は父さんの下半身が露わになっている。
やめろ、脚に当たるから離れてくれっ!
助けを呼ぶか。でも母さんにこの光景を見られたら大問題になりかねないし――ってそんなこと言っている場合じゃねえよ。
ヤルかヤラれるかだぞ。
「だ、誰か、助け――」と叫ぼうとしたところで、口に何かをつめられた。何かの布? か。待て、これ何の布だ? けっこう生臭いんだけどさ、父さんハンカチとか持ち歩いてたっけ? え?
いやいや、それよりも口をふさがれると、魔法も使えないし、助けも呼べない。
このままじゃ俺、親子で越えちゃいけない一線越えちゃうって。無理、無理だから、本当許して。
涙ながらに神へ祈った時だ。
――神はどうやらいるらしい。
「……大丈夫か。ネクロ」
「ふ、はぐふっ!」
江戸っ子の母さんと違って、異世界生まれ異世界育ちのラプスは早風呂だったようだ。一人で先に出てきたらしい。
まぶしいくらいの金髪を濡らしたまま、何故か俺の体操服を着てリビングへ戻ってきた。
「ふぁ、ふぁむふぇへっ!」
口に汚いものを詰められているせいで、ろくにしゃべれないのだが、必死に助けを求めた。というか、見てわかるよね? 早く助けて、大丈夫じゃないから。
「そっちの人はアルバムで見たからわかる。こっちの世界のネクロの父親だよな」
そうだけど、それがどうした。ほら、俺下着脱がされてるんだけど?
「……いくら家族でもちょっと仲が良すぎるんじゃないのか。こっちの世界だとこれが普通なのか?」
「そんなわけねえだろっ! 早く助けてくれ、襲われてんだよっ!」
人間、その気になると何とかなるらしい。俺はアゴが外れるかってくらい口を開けて、口の中から邪魔なものをはき出して、必死に叫んだ。
ラプスは「そうだったのか」と一言、軽く後頭部を叩いて父さんを気絶させた。あれだよ、俺は魔法使いで、こいつは接近戦専門の勇者だからね。別に俺が弱いわけじゃないよ?
そんなわけで、なんとか助かったが家族の絆はもう限界だし、俺のこれからもかなり不安しかない。
けれど、俺は絶対男に戻る! こんなこともう二度とごめんだからな(※6)!
※1 赤須暗真
東京の私立校に通う高校二年生――とここまでは平凡極まりないが、国民栄誉賞レベルの美少年で女の子にベラモテ、リヴァー・フェニクスかオーランド・ブルームの生まれ変わりではないかと一部では噂されている。
※2 サラダ
レタス中心のよくあるサラダだ。こんなちぎって洗うだけのものなのに、一品作りましたよ、みたいな顔してくるやついるよな。俺は最低限ポテトサラダぐらい用意してもらわないと、料理として認めないから。
※3 リリカ・ネクラマ・パーテーション
ネクラマは俺が元の世界の名前と似てる感じで呼ばれたいとつけたミドルネームなのだが、向こうの世界では一字略すのが親しい呼び名らしく、ネクラ! と呼ばれそうになって、いろいろあってネクロになった。死霊使いみたいだ。でも引きこもりみたいよりは良いか。
※4 七時前
だいたい俺もこっちの世界にいた頃はこのぐらいの時間に帰っていた。まだ学生だしな。けど父さんがいつもこの時間に帰ってるのは、よく考えるとちょっと早すぎないか? もしかして会社行くフリして公園で鳩にエサでもやってんじゃねえのか。毎日が夏休みなんじゃ――ん、確かそういう映画あったよな。
※5 営業職
父さんが営業ってのは知っているけど、何の営業なのかは知らない。おかしいか? 父親の仕事なんて、子供はよく知らないもんだろう。中学校に父親がプロ野球選手だけどどこのチームの選手か知らないってやついたからな。ルールもわかんないって。だから父さんが営業とか言って本当は武器商人とか秘密結社の工作員とか忍者の末裔で凄腕の傭兵だったとしても俺は全く気づかないけど、別におかしなことじゃないわけだ。あ、前振りとかじゃないから。父さんはただのおっさんだよ。
※6 二度とごめん
二度あることは三度ある。そんなことを言うやつがいるらしい。説教するから出てきやがれ。次回はもうこんなことないからな。魔法で大暴れしてやるんだから。