第10話 保健室のニオイ
行きつけのバーに行くと、馴染みのマスターは俺が何も言わなくても『いつもの』を出してくれる。ライク・ア・ポンペイ。火山噴火に飲まれて滅びた都市をイメージして創ったらしいマスターのオリジナルカクテル。味はそのまんま生き埋めにされるって感じ。
これ俺、自分から注文したこと一回もないよね? マスターに試飲お願いされて、一回飲んで「やばい」って感想言っただけだよね? いい加減俺これ以外の飲みたいんだけど? と内心思っていても口には出さない。
ここは大人が集まる、紳士淑女の社交場だからな。無粋なことは言わんのだよ。
と、カウンター席の端に見ない顔を発見した。
くっそマズイオリジナルカクテルのせいかここは常連以外の客はほとんどいない。多分新規は「へえ何これ、オリジナルなんだ」って感じであれを頼んで、「ああ、生き埋めって感じの味だ。最低、もう絶対来ない」となるのだろうな。
俺はマスターに頼んで、新顔の女性に『いつもの』を。って違う違う、普通に美味しいやつね。マスター、あれよ、マティーニとかそういうの? なんかよくある感じのでよろしくね?
俺のおごりを喜んで受け取った巨乳の女性は、「さっき飲んだのはひどかったけど、他は美味しいのね」と喜んでいた。おい、既に被害者だったか。
しかし、その唯一マズイオリジナルが話題のきっかけになると、俺と彼女は意気投合してそのまま夜のネオン街へ――。
――と、そんな感じになっていてもおかしくないのだ。
本来ならば。
俺はなんせ転生して、前世の記憶があるわけだから、もうかれこれ精神的には三十ちょっとも生きているわかだ。
三十だよ、三十。本当だったら俺も今頃ロバート・デニーロみたいになってたはずなのに、どうよ、美少女ですよ。何でだよ!
文句を言えば枚挙に暇もないって限りだけども、一番今言いたいことはあれだな。
今俺の頭はペーパーボールオーバーザヘッドな感じでイカレてやがるらしいってことだ。そうでもなきゃまだ俺は布団の中で、夢を見ているってことだろうね。
そうでなきゃさっきから赤須暗真が美少女であるところの今の俺と混同されていることがまるでわかりっこないわけだよ。
◆
ほんの数秒前まで俺は謎の美少女転校生だったはずなのに、瞬きもしていない間に赤須と呼ばれ、間数の友人であるイケメンメンズの赤須暗真として接せられている。
さも生まれてきた時から――とは言い過ぎかも知れないが、少なくともこの学校に一年半通っていた間――まるで過去や俺の存在が塗り替えられているかのようだ。
「そろそろ教室行かないとな。オレはシャワー浴びてくるけど、赤須は……って顔色悪くないか? おい、平気か?」
「ああ、たいしたことないよ」
やはり聞き間違えでもなんでもないらしい。
おかしいよな、今の俺と間数とは初対面のはずだろ。だって俺今美少女よ? 髪の毛がプラチナブロンドなんよ? ちょっと見間違えるレベルでもないしさあ。スカーレット・ヨハンソンっ間違えられるならまだわかるけどさあ、何で今の俺が赤須って呼ばれるんだよ。
「そんなことないだろ、ほらちょっと肩貸すから……あーいや、あれだな汗かいってしそれも悪いか」
「……別に大丈夫だから、さっさとシャワー浴びて来いっての」
今それどころじゃないから一人にして欲しかった。けれど間数は簡単に聞き入れる様子じゃない。何だよ、しつこいな。こんなやつだったか?
「わかった、じゃあ直ぐシャワー浴びてくっからそこで待っててくれ。保健室まで負ぶってやっからよ」
「はあ? 良いよ、保健室なんか――」
と断ろうと思ったが、待たれよ。俺は異世界の長い生活でいろいろな思い出に陰りを見せているのだが――主に日本史の授業の内容とか――我が校の最大の誇りであり、最大の功績、ありていに言えば奇跡とまで呼ばれる事実、そう、うちの高校の保険医は若くて素敵な美人女性なのだ。
そんなことあるのか? 異世界転生とかひょっこりすることがあったとしても、若くて美人の保険医が実在するか? と思わなくもないだろうが、真実なのだから仕方ない。何を隠そう、俺がこの高校へ進学することを決めて唯一絶対無二の理由なのだから。
「そうだな、保健室行くか……」
この混乱した気分を落ち着けるには美人保険医が良く効くに違いない、と俺は確信した。 どこかで風邪の特効薬を発明すればノーベル賞がもらえるってのを聞いたことがあるけどね、妙齢で美女の保険医も十分ノーベル賞(※1)ですよ。平和賞とかジョン・ベイツ・クラーク賞とかそういうの。
「しかしあいつシャワー長いんだよな、早く行きたいし放って置いて一人で行こうかな」
男子空手部員なんていうと汗臭いイメージがありそうなものだが、間数はかなりの綺麗好きな方で、なんせ高校にウェットティッシュのボトルを持ってきているような男なのだ。
そりゃあシャワーも念入りだ。まだ八時前だってのに練習を切り上げる辺り、それだけシャワーの時間を確保することがあいつにとって重要なのかわかる。
ま、俺もどっちかと言えば綺麗好きだ。清潔さってのは俺みたいな生まれながらのモテ男子だって大事なものだからな。
綺麗好き、でも綺麗なお姉さんはもっと好き。と俺は間数を置いて出て行こうとしたのだが。
「悪い、待たせたな」
とちょっと息の荒い間数が現れた。首から青いスポーツタオルを掛けていて、髪はまだだいぶ濡れているようだった。
「……いや、早いな」
俺の予想よりもかなり、いや、かなりかなり早い。つうか綺麗好きの間数がこんなぱっぱと烏の行水みたいにシャワーを済ませてくるなんて信じられない。何だよ、何がお前をそんなに駆り立てているのか。金か? 俺は別に礼なんて払わないぞ。モノどころか心ですら感謝なんてしないからな、男には。
「ほら、背中乗れよ」
「……お、おう」
なんとなく、勢い的なもので俺は間数のでかい背中に乗ってしまう。
手早く済ませてはいるものの、汗臭いってことはない。どことなく石けんの匂いがするぐらいだった。
「汗臭いか? ちょっと我慢してくれよ」
「……そんなことないけど」
間数の方も急ピッチで仕上げてきたことに心配があったらしい。俺が正直に答えると安心したように「じゃあ落とされないようにつかまっててくれよ」と俺の分と自分の分の鞄も軽々と抱えて早足で歩き出した。
人の背中ってのは、案外と乗り心地が良いものだ。ってのは転生してから初めて知ったことだった。子供の頃は向こうの親におんぶされたことがあるし、ラプスにも何度か背負われている。
男だった頃、つまりこっちの世界にいた頃は、男が誰かの背に身体を預けるなんて論外だろうよ、という謎の益荒男精神があったわけか、取り立てて機会がなかったからかほとんど負ぶられた記憶がない。
やっぱりちょっと揺れるし、けっこう落ちそうになることがあるのに、不思議な安心感がある。人肌ってのはリラックスさせるのに最適な温度(※2)だとか聞いたことがあるから、それも関係あるのかも知れない。
俺は、そっと間数の背中に顔を――って、おいおいおい。
転生先とは言え親である父親とか、あれでも美少女のラプスはともかく!
百パーセント純度の男でしかない間数相手に、俺は何をしているのか! 何を考えているバカ野郎、心も身体も許すつもりなんぞないだろうが!
だいだい待て、今の俺がどういう立ち位置なのかよくわからなんが、あれだよな。俺は赤須として扱われているんだよな? なら高校生の男女だろ? おんぶとかする? しねえよ! おかしいだろ! もっと早く気づけよ! つうかお前もお前だろ間数、何負ぶってんのさ!
「ちょ、ちょっと! もう良いって、降ろしてくれ。やっぱ自分で歩くから」
「もうすぐだからおとなしくしてろって、な」
暴れる俺をちっとも気にとめず、間数はずかずかと歩き続ける。校舎内に入ると、流石に人が増えてくるし、すげえ見られている。これって俺が美少女だからか? それともおんぶされてるから?
ああ、もう、上履きとかいう文化がこの学校にも残っていたらなあ。靴を履き替える隙に逃げ出せたんだが。まったくいつの間に上履きって履かなくなったんだ? それとも俺が知らないだけでまだけっこうな高校が上履き使ってるのか?
さっきよりもずいぶんと具合が悪くなってきた頃、やっとのことで保健室についた。
時間にすればほんの数分だが、精神的には数時間だった。
◆
「ほらもう良いからさ。間数は教室行けって」
「心配だしオレももうちょっと付きそうけど」
「いらねえよ! ガキじゃねえんだ。先生来てたらで俺の分も代返して置いてくれよ」
と間数を追い返した。
何せこれから保険医の美女との感動の再会なわけだ。俺以外の男なんぞ邪魔なだけだ。
しかしな、実はこれだけ鳴り物入りな登場となるが、実のところ俺とその名物保険医の間に特別な蜜月があるわけではない。
俺も入学当初は期待に胸を膨らませて保健室へ通った。けれど俺と同じような志を胸にした他の男子生徒たちとの紛争、そして既に三年ほどのキャリアのある保険医である彼女からすると俺らのような男子生徒なんぞあしらうのはとっくに手慣れていて――。
残念なことに一方的な憧憬めいた感情が俺の中にあるという以外は、単なる一生徒と保健室の先生という関係でしかない。
だがどうだ。今の俺は精神的には熟成されたイイ男である。年上のお姉さんだった保険医に対しても、対等以上の関係を新たに築き上げられるのではないだろうか。
俺はそんな、入学当初の儚い期待とは全く別の、もっと薄汚い大人の邪な欲望を抱きながら保険教諭の戸倉英香(※3)と対面するわけだった。
保健室の消毒アルコールの香りも戸倉先生の匂いだと思うと悪くないな、とずっと前と同じ事を思った。
休み時間には半分友達感覚で来ている女子生徒たちか、アホな夢を見えいる男子生徒のどちらかがいるのだけれど、朝のこの時間には戸倉先生の他は誰もいなかった。
戸倉先生は窓際のデスクに向かって、ちょっと高そうなオフィスチェアに座っていた。書類の整理でもしていたらしい、俺がドアを開けてから気づくまでにちょっとした間があった。
「あら、早い時間に珍しいわね」と振り向くと相変わらずの美しい顔で優しげに微笑んだ。「どうしたの、どこか具合が悪いの? それとも教室に行きたくない理由があるのかな?」とちょっと冗談めいた言い方をする。
でも実際、保健室登校なんて連中がいるらしい。教室には行かないけど、学校まで来て保健室で授業中の時間を過ごすわけだ。まあね、気持ちはわかるよ。
だって、美人だもの。
「先生に会いたくてね」と昔なら言っていただろうか。美少女魔法使いたる今の俺はそんなこと言わない。「ちょっと昨日の夜寝不足で、少し教室に行く前に休ませて欲しいんです」
「良いわよ、ベッド空いてるから使って」と言ってから戸倉先生は俺の顔をまじまじと見つめた。かなり近い距離だ。
「あ、あの、私の顔に何か?」
まさか俺がここの生徒じゃないってバレたのか? それとも俺は赤須として認識されているのか? どっちにしても逃げた方がいい気がしてきた。何呑気に保健室なんて来てんだよ。今そんな場合と違うだろ。
「私そのやっぱり授業出られるかも的な……」
「ずいぶんと顔色悪いわね。ちょっとおでこ借りるわよ」
逃げようとした俺の肩をそっと押さえて、もう片方の手で俺の淡い色の髪をのけた。異世界で戦闘のいろはにほへほへを学んだ俺は即座に払いのけ、飛び退くよくように跳ね――と言ったことは、戸倉先生の大人の瞳があまりに蠱惑的で身動き一つできなかった。
なすがままに、そっと迫ってくる戸倉先生のおでこを受け入れる。
「うーん、どうかなちょっと熱っぽいかしらね」
「え、えと、先生。そのそういうのはほら、まだ朝だから早いんじゃ」
「そんなことないわよ。朝の方が普通熱って低いものなんだから。微熱ってぐらいだけどね、しっかり休んで行きなさい」
いまいち話はかみ合っていないが、休憩所という言葉に特別な意味を見いだせる俺は肯いてベッドに腰掛ける。
年上のお姉さんだった戸倉先生のひんやりしたおでこの感触――こいつを今までのちょっとやんちゃなベリーイケメンな以外は平凡な高校生男子だった俺には味わえなかったものだ。
これが異世界帰りの力か? いやまだ偶然の可能性もあるよな。
「汗かいちゃってるわね。代え出してあげるから着替えちゃいなさいよ」
「え? 着替え?」
シャツ、というのは俺が来ている制服のシャツのことか。白いシャツだから、ワイシャツと言えばいいのか? それともブラウス(※4)? なんで女子用になるとブラウスになるんだろうな。――って。
「ほら、脱がすの手伝ってあげるわよ」
「い、いやいや自分で! 自分で脱げるから!」
何故か服を脱がされる俺。しかし、俺は確信する。俺の精神的なナイスミドルが、戸倉先生の好感度を爆上げしている。
保健室で、戸倉先生と二人きり。服を脱がし合うイベントなんて今までありえなかったじゃないか。
けど何で俺が脱がされる側なんだよっ!(※5)
※1 ノーベル賞
すごいやつ。そういえばノーヘルでバイク乗ってた先輩がいたな。あの人もすごい人だったな。つまりそういうことなんだろうなあ。
※2 人肌
だからね、人と人が肌を重ね合うことってとっても大事なんですよ。どうですか? 肌重ね合わせません? って俺が合わせたいのは粘膜なんだよな。でもほら、粘膜って言うとちょっとあれじゃん? だから肌よ、肌。言葉にも服を着せろということだ。粘膜にも着せるだろ?
※3 戸倉英香
美女で高校の保険医。医者って言うと、すごく勝ち組の職業って感じだけど、保険医っていうとそうでもないよ。でも学校の保険医になるのも医者の免許は必要なんだよな? 多分。あれ、必要なのは教員免許の方なのか? うーん、わからんな。あ、職業差別的な発言じゃないぞ。だって俺は女医も女保険医も大好きだからな。
※4 ブラウス
ブラウスってのはつまり女性用の衣服なわけだが、特別な感情はわかない。一方で男物のシャツを着る美少女にはむんむん邪な思いが沸いてくる。不思議だな、相反する感情と現実ってやつなのか。でも実際、裸の上に来てくれるなら別にブラウスでもかまわないよね。ちょっとサイズがでかいってのは重要だけど、別にブラウスでもワイシャツでも俺は気にしないよ。
※5 服を脱がされる側
服を脱がしてくる女の子って素敵だよね。でもさ、今俺美少女だからなあ。相手が美人の女保険医だって言ってもちょっと特殊な状況過ぎるっていうかさあ。でも場所が場所だし、こっから期待して良いんだよね? 何にって? ほら、くんずほぐれつ?