第9話 捨て猫を拾う女の子を拾いたい
自分の記憶が本物なのか。
誰だって一度くらい疑ったことはあるだろう。
昨日あったことがぼんやりとしか思い出せない。あるいはその逆、くっきりと思い出せるがどうも信憑性がないようなことしか浮かばない。昨日の俺は何であんなことをしたんだ? とか、昨日あったことって本当に現実だったのか? なんて心配になってくる。
うっかり二度寝をしてまどろんだ夢心地の時のように、自分の感覚が信じられなくなる。
バカみたいな話だ。
だいたいの場合、そもそもこんな感情自体さっさと忘れてしまう。
何せはっきりしないものなのだ。それが記憶なのか、現実味なのかはさておき、どっちにしろ、どうでも良くなってどこかへ消える。
だけどこれが、転生した記憶ってのだと話は別だ。
まるきり一つ分の人生の記憶があるわけだから――って十七年だから普通の人の四分の一くらいだけど。
俺はあんよの前には、こっちの世界の記憶を思い出していた、くっきりはっきりと。
東京のベリパピな男子高校生で女という女にモテモテだったが、ちょっとした誤解で幼馴染みから刺されそうになった拍子に落下死してしまった。
――そんな、波瀾万丈桃色吐息な俺の太く短い人生が、めくるめくるようにおぎゃあな俺の脳内を駆け巡ったわけだ。
だけどよ、クラスにさ、一人くらいいなかったか? 私前世の記憶があるの、なんて言うやつ。
「私、イギリスのお城に住んでいたの。覚えてわ、お姫様だったのよ」
俺はそいつの胸を確認してから「君は今も、俺にとってはお姫様だよ」って言ったけど、正直なところちっとも信じちゃいなかった。
だいたいイギリスってさ、お城で現役バリバリの王族が慣らしてた頃なら、まだイギリスなんて名乗ってなかったんじゃないか? スコットランドとかウェールズとか、まあ、たわわな胸の前にはそんなことどうだって良かった。
他にも「オレは宮本武蔵の生まれ変わりで」とか言っている剣道部のアニメオタクがいたけど、こいつは会話する気にもならなかった。
つまりあれだ。
前世だの生まれ変わりだの、そんなもんはまるっきり信用できないもんだったってことだ。
ところが俺は当事者になってしまった。
他のアホや、ちょっと夢見がちな胸の大きい女の子のことならいざ知らず、自分のこととなってしまうと、それはもう信じないわけにもいかない。
いかないのだけれど。
本当に、本当だったのか。
赤須暗真(※1)としての俺は実在したんだろうか。
今目の前にいる美少女の俺に、本当に前世なんてあったのか。俺以外だれも、日本のこと、あっちの世界のことを知っている人間は、異世界には誰もいなかった。
もちろん赤須なんちゃらなんて名前、誰も知らない。
俺の記憶の中にしか、存在しない世界、存在しない前世の記憶。
だけど、一度として疑わなかった。
それは何故か。
断言しよう。
美しい女性を見たときの胸の高鳴り、そして大きな胸を見たときの高揚感。
これは紛れもなく本物、偽りなき大和男子、益荒男の魂にのみ存在するクオリアとも言える、絶対的な感覚。
俺は男だった。今は違うが、何の疑いようもなく言い切れる。
美少女の俺は仮の姿、偽の自分でしかない。
そして――ついに俺はこっちの世界へ戻ってきたのだ。
やはり俺は男で、こちらの世界は実在し、赤須という人間もいたのだ(※2)。
――のはずなのに。
「赤須さん?」
梢桐先輩が、俺の名前を呼んだ。
美少女の俺を、男である俺の名前で呼んだ。
「……何で、その名前で」
俺の中の何かが脅かされる音がした。
訳もわからず逃げて、気づけば校舎の裏のどこか、狭い苦しい日陰にいた。
うずくまって、気持ちを落ち着ける。
待て待て、どうして先輩が今の俺を赤須と呼んだかはわからないが、それだけだ。
たったそれだけで、別に俺の存在が脅かされることなんてない。
俺は男だ。
異世界へ転生して、美少女になったが、ようやくこっちへ戻ってきた。
そう、だよな?
「どうしたの、お主ずいぶんと動転しているみたいだけど」
すっと横に、魔王が立った。
赤い髪をしている以外はどこにでもいそうな少女。はっきりいって素手でも勝てるレベルのガキ。
「お、お前! 起きたのか! そ、そうだよ、お前だ。お前がいる。まず異世界は本当だな、うん、いいな? あったよな、異世界?」
「わわっ、やめてって、妾、頭がくがくされるとしゃべれないよ」
仕方ないので手を止めてやる。
「異世界ね。そういう言い方をすると、妾にとってはここが異世界なんだけどね」
「俺は美少女だよな?」
「え、え? ちょっとお主それ自分で聞くの? ……そうね、妾的にはもうちょっと背が低くて垂れ目気味なのが好みなんだけど」
「そういうの聞いてないから!」
「……今日も、お主はとびきり可愛いよ」
魔王は顔を赤らめながら言った。
そういうのも聞いてないけど。
異世界はちゃんとあって、俺は美少女で……あれ、俺はそんなことが確認したかったのか?
よくわからなくなってきた。そうじゃなくて、俺は男だった頃の俺のことを確認したくて、でも魔王は男の俺のことは知らないわけだから。
――つまり、こいつは役に立たないということだ。
なるほど、胸もなければ価値もない。そういうやつなのか、こいつは。
一息ついたところで、魔王が俺の顔をのぞき込んできた。
「それでどうしたの? お主何かあったの?」
「ああ、えっとな」
◆
「何でお前に説明せにゃならんのか」
「今説明してくれる流れだったんじゃないのっ!?」
何だ流れって知らん知らん。胸の大きなお姫様にでも生まれ変わってこいよ。
「……ともかく顔を隠した方が良いな。学校をうろつくには美少女は目立ち過ぎる」
いったい今俺の身に何が起きているのか。
そもそも俺は昨日の俺のことを調べにここに来たんだぞ。まあそっちはちょっと調べればわかるだろうけど。
手っ取り早いのは、あいつに直接聞くことだろうが、それはちょっと避けたい。
放課後学校に残っている連中なら、ある程度のことは聞けるだろう。
それなら部活に入っている人間だな。
となると――。
「こんなところにいた! ねえ、赤須さん。どうしたのいきなり走り出しちゃって。驚いたわよ」
ひょっこりと校舎の影から、顔を出したのは梢桐先輩だった。
「ひえあっ!? せ、先輩! 違うですよ、ちょっとあの、子猫がいて! それが可愛かったからつい走って追いかけちゃって!」
そう、先輩っていう子猫を、ね。とウィンクの一つも決めてやりたいが、今の俺は美少女。アイドル顔負けのお目々ぱちくりができるけれど、女の子相手にそんなことしてもしょうがない。もちろん男相手にするつもりもないが。
「学校に子猫……? 野良猫かしら、連絡しないといけないわね」
連絡ってどこにだよ、と野暮なことは聞かない。いや野暮っていうか怖いことか? はっきりとさせない方が良いことだってあるのだ。
そう、こいつはルールを破る相手には悪魔のように公正で血も涙もない。例え親戚やOBだろうと、野良猫だろうと学校へ許可なく入るのは――って。
「野良猫は別に学校へ入るのに許可なんていらないだろ!」
「……何を言っているの? ただ猫好きの友人に連絡をしているだけよ」
「ああ、なんだ。良かった」
「彼女に頼んで捕まえてもらうわ。野良猫は捕まえてから保健所(※3)に連絡しないといけないから」
「ちょっ……!?」
猫好きの友達になんてことさせるんだよ。
本当に血も涙もないな。
「で、野良猫のことは良いとして、赤須さん」
梢桐先輩の視線が俺を越えて、ある一点へ向いた。
「……あ、あの、先輩、こいつは俺のその妹の友達で、ちょっと学校見学に」
「その人、誰かしら?」
魔王は、警備室送りとなった。
俺はあの赤髪の少女のことを忘れないだろう。多分、胸のサイズぐらいには。
◆
顔を隠す方法か。
変装でも良い、とは言え、これほどの美少女だ。どう隠したところで目立ってしまう。顔をすっぽり隠せばなんとかなるが、それでは学校内を歩き回ることはできない不審人物になってしまう。
ではどうする? 答えは簡単だ。昔から言うじゃないか、木を隠すなら森の中、美少女を隠すなら――。
「……女子トイレかな」
いやいや、美少女の軍団とかいればそこに隠れたよ? 別に隠れる必要がなくてもそんな集団いたら突っ込んでってるけどさ、でもないから、美少女を隠すのにばっちりな美少女の軍団とかないから!
やれやれ、とため息をついてから校舎の周りをぶらぶらしてみる。まだ八時前だからか、校門付近と違ってほとんど人影もない。
俺の目的は体育館の近くにある武道場……? 床の半分には畳の並んだ小体育館なわけだが、道場といっていいほど立派なものでもない。柔道の授業に使ったりするんだが、ここにいるのは柔道部員ではない。
「ふんっ! ふんっ!」
と鼻息も荒く、拳をひたすら突いているのは何が楽しいのかわからないが、こんな朝っぱらから練習している空手部員だ。
部員たち、ではなく、部員。
つまり朝練に励んでいる物好きは、物好きというだけあってたった一人だけだけだ。
背が高く、筋肉質のむさ苦しい男。
こんな男にわざわざ会いに来る俺もかなりの物好きだと言えなくもないが、こいつはこれでも俺の数少ない友人で、しかも今回の俺の目的に合致する。
朝も夜もなく鍛錬、鍛錬と続けるこの空手バカなら昨日の放課後もまず間違いなく学校に残っていたはずだ。
しかし、な。どう声をかけるべきか。
俺は突如現れた美少女――だがその正体はお前の友人、元は男で異世界帰りの美少女天才魔法使いだ。
などと言うわけにもいかない。そんなんアニメとか漫画だ。
まあ悩んでも仕方ないしな。美少女に声をかけられて怒る野郎もいるまいさ。俺は適当に呼びかけた。
「おい、間数。朝練中に悪いんだけど、ちょっと良いか」
「ん? 誰だ、あんたは?」
間数英司(※4)は手を止めて、額の汗を拭う。
「ああ、えっと俺……じゃなくて、私は……転校生、そう謎の美少女転校生でね」
「はあ? 転校生? 確かに見たことない顔だけどよ、何で転校生がこんなところに?」
表情はほとんど変わらないまま、間数が不思議そうに言う。
「あ、あれだよ、私ほら、見て? わかるでしょ、外国人! だからその、こういうジャポーネなところとても素敵で見学してたのネ!」
「はあ……ああその髪色、なんだ留学生か」
間数は何となくわかったのかわからなかったように肯く。
「そうそう、空手って良いですよねーカラテファイターっての? あれでしょ、ソニックブームとかね?」
「……そうか」
無表情でよくわからないが、練習を邪魔されて不機嫌なのか? ぶっきらぼうに肯くだけだ。こいつの顔つきはいつも通りだけど、普段はもっと人当たりが良いやつなのにな。仕方ない、さっさと用件を済ましてしまおうか。
「あ、あのさ! 間数、昨日の放課後のことなんだけどさ――」
「オレの名前」
「え?」
「さっきも呼んでたよな、オレの名前だよ。何で知ってるんだ?」
「……え、あ、あれ?」
し、しまった。
何で俺はうっかりこいつの名前を呼んでしまったのか。
まずいな、これじゃ謎の美少女転校生の謎の部分が強調されてしまう。知らないはずの名前を知っている初対面の美少女。このままでは余計に謎めいてしまうじゃないか。
実は宇宙人? 女スパイ? 魔法使い? とかそんな話に――って俺、天才魔法使いだけども。
「いや、そんなことよりあんた、すごく可愛――って、あれ、赤須だよな?」
何かを言いかけたところで、一瞬言いよどんだかと思うと、間数はしかめた顔で俺の名前を呼んだ。
「赤須だな、あれ、オレはどうしてた? ん? お前もだ、何だよ転校生って変な冗談言うなよ。こっちは練習中だってのに何の用だ?」
「え、いや……あれ? な、何で……」
さっきまで、俺のことを知らなかった。
ついさっきまで見知らぬ美少女だって認識していたはずなのに。
何でだよ。
俺は、混乱しながらも、「邪魔してごめんねっ」とウィンク(※5)をして誤魔化した。男相手ならこれでどうにでもなるだろ。きっと。
※1 赤須暗真
赤須暗真だった頃の俺には当然前世の記憶なんてなかった。だがもし前世があったら、おそらくリバー・フェニックスかオーランド・ブルームだな。あいつらは他人とは思えない。きっと前世の俺の姿に違いない。
※2 こちらの世界は実在し
脳みそプールの中の五分前蝶々説なんて話があったよな? 確か脳みそはプールで泳いでいる時に蝶々を見ると五分前のことも忘れてしまうことがあるという話だった。つまりこの世界が本当に実在するか、ということを証明できる人間はいないんだ、あの蝶々を除けば。
※3 保健所
保健所は野良猫、野良犬を引き取ってはくれるが、基本的に捕まえたり探したりなんてことはまではしてくれない。もちろん飼い猫、飼い犬は引き取ってくれるけど。一度告白して付き合い始めた女の子が一ヶ月で体重二十キロ増量したからといって、じゃあ別れようなんていうやつが男らしくないように、自分で飼って置いてほいさよならなんてのは人としてどうなのかと。でも、太るやつが悪いよね。胸より腹のが出てるって女としてどうなのかと。
※4 間数英司
リンゴを素手で砕ける男。目標はスイカを砕くことらしい。バカかよ、砕いてどうすんだよ。包丁で切った方が食べやすいだろうが。
※5 ウィンク
実はちょっとばかり恥ずかしいのだけれど、俺は男だったこと、つまり生まれ変わる前はウィンクができなかった。だって男がウィンクなんてすることないし、する必要もない。だから美少女に生まれ変わって直ぐにウィンクの練習をした。でも俺は知った。別に美少女でも基本的にウィンクする機会なんてない。今回はたまたま練習が役に立って良かったよ。え? する意味って? 美少女がウィンクだぞ、それだけで意味があるだろ。