プロローグ 船上の黄昏男
船の上。海の男たちが、海鳴りに負けじと走り回っている。
退屈そうな男はそれを、一段高いところの柵に肘をかけて眺めていた。
屈強な海の男たちに負けず劣らず筋肉質な男の顔は、明らかに場を――戦場の土を踏んできた雰囲気を湛えている。鎧さえ着ていれば、男は現役の軍人に見えただろう。しかし、その男は平服。つまり、麻の服を着込んでおり、せいぜいが斧を持っているぐらいだ。
要するに、とても現役の軍人には見えない、という事だ。事実、この男は既に退役している。その背に見えるのは獰猛な虎ではなく、疲弊しきった猿と言ったところか。男は後ろ姿だけで哀愁を醸し出していた。男の顔は、潮風が顔に染みている様にしかめっ面であった。
男の境遇を語る為には、まずこの船がイル・ステシュ帝国の港町、イルガルデから出ている事を知っておいてもらいたい。そこから西へ三日程すると、貿易国であるパートマデット王国がある。男が乗っている船は、それへの交易船だ。
金も伝も持たない男にとって、国から交通費が出たのは奇跡とも言える幸運であった。正確には、この船を動かせる人員を雇うだけの費用だったが、食うや食わずの生活を送っていた男にとってそれは些細な違いに過ぎなかった。
男の名はフランシス。たった五日前まで、イル・ステシュ帝国が一兵士でしかなかった男だ。今はれっきとした無職である。
と言うのも、つい先日終戦を迎えたバジャハ・ンディガナ王国と帝国の戦争にて、多大な国力消耗が起こった帝国が軍縮を行ったからだ。面子だけは保とうと移動等に際した費用の発生は帝国側が持ってくれるというが、職を失った者達は堪った物ではなかった。
フランシスもそれに当てはまる。帝国内は今、無職となった兵隊で溢れ、ぐちゃぐちゃの肥溜めのような状態であったから、元々滅んだ村から来ていた男にとって死活問題だったのである。
仕事など見つかりそうもない、と早々に別の仕事と言う考えを切り捨てた男に、交通費無料――あくまでも、パートマデットへの船への便乗だが――は、どこまでも甘い砂糖のようなものであった。
「以外と、どうにもならないものだなぁ」
ふとそんな事を呟いて、大きくため息を吐いた。海に吐き捨てられた言葉は潮に乗って流れて行くようであった。フランシスの背後を通り過ぎる内の何名かが、「お互い頑張ろう」とばかりに男の背を叩いて行く。だが、男の気は少しも晴れなかった。
しかし退役した軍人である男も、順風満帆とは言えずとも、それなりに満足はできる生活が出来ていた所から、いきなりの素寒貧。気落ちもすると言うものだろう。仕方無いともいえた。
しかも備考を加えるなら、この男に働ける伝などない。パートマデット、その代表的な港町であるウーステッドでも男に知己はいないから、正しく裸一貫での就職となるわけだ。身内を、それも遠方の従兄等を受け入れるので精一杯なところへ、男の入り込む隙など欠片も無かったのだ。
どうした物か、と途方にくれる。斧があっても、振るう機会が無ければ唯の鉄屑。振るう理由が無ければ慈悲無き殺人道具だ。そんな物を振るう気は、男には無かった。
「どうしたものか、ね」
ボツリ。釣り餌の様にばら撒かれた独り言が、海に消えた。
ゆらり、ゆらり。どぷん、どぷん。船は進む。船の柵に寄りかかりたそがれる男、フランシスの深い悩みを置き去りに。
帝暦八十二年。正確には、イル・ステシュ帝暦八十二年。世は戦乱に満ちてこそいたものの、一旦の収束を迎え様としていた。暦の名を冠す帝国を中心となり、講和同盟を組む事が決定したからだ。
ここ五十年間、続きに続いてきた戦乱の世。イル・ステシュ帝国一強ながら、帝国の、そして周辺諸国の被害は計り知れない。幾多もの民が傷付き、飢え、苦しんできた五十年。それを見てきた帝王は、「この戦乱を止めよ」の大号令を下した。
すぐに、曇天の雲が山風に吹かれた様に、戦乱の世が消え去る――等と、言う事はなく。大号令が下されてから、四年は経っている。極小数の甘い汁を啜った国々を鎮圧していた時間だった。しかし、此度の戦でそれもようやっと終わり、世に微かな平穏が見えた。
戦いはまだ終わらず。しかし、大きな戦はもうないと言って良かった。
帝国を始まりに、ゆっくりと軍縮が推されている。周辺諸国も、のんびりそれに追随して行く。今からは、そんな世の中である。退役軍人であるフランシスも、それを信じて疑わなかった。
だが、フランシスは近い内に、知ることになる。この世には、甘い汁を啜り続けたいと望む者、そして戦場を欲する者達がいる事を。そしてその者達がどれだけ盲目的で、後ろ向きに向上心を滾らせているのかを。
これは、戦乱終わりし、収束への時の狭間に。
無くなった筈の戦場を、また淀み行く世の中を。その手の内の斧で切り裂く、戦場譚。
高く掲げられし、戦斧の戦記である
注釈
帝暦
……最も栄えた国の名を暦に冠すのが世界の常識であるため、
現在は一強であったイル・ステシュ帝国の名を取っている。
その為正式な名称は"イル・ステシュ帝国暦"となるが、これからの文章ではすべて帝暦と記す。