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微々たる抵抗  作者: 水月
2/2

宿屋

物語としての進展は、今回はあまりありません。本作の主人公である少女の、内面的説明を兼ねたものと考えています。それではどうぞ、お楽しみください。

宿屋しゅくやの名簿には、私の名前が記された。

カロナ・D・R・カツィーヤ。

Dはデンなんとかで、Rはルブドなんとか。濁音が多いことだけは覚えている。

私の本当の名前はカロナ・カツィーヤなのにね。彼がこうした方がいいと言って、DとRを付け足したの。

なにか、手入れの行き届いていない暗い森の泥沼みたいに、濁っていて、意地汚い感じ。きっと雑草が鬱蒼うっそうと生い茂っていて、前脚をツタに絡めた犬の死骸が、胴体の半分くらいを沈めていて、目に見えるところも毛が抜け落ちていて、頭を害虫に喰われて赤くなっているのよ。ハエや他の虫たちが、ブンブンとたかっているんだわ。

それくらいこのDとRには薄気味悪く、抑えきれない嫌悪を感じるのだけれど、彼がすでに記入しちゃったから、取り返しがつかない。


私は、すねた。体中の埃と、いいしれぬ不快感を洗い流すために、シャワーのコックをひねる。

勢いのある水流が、私の腰まで届く長髪に一層強くあたりつける。水の膜を作って、互いに絡みあった髪の毛が、私の柔肌に張りついてペタペタする。温かい。

透明な温水が、上から下に流れ落ちながら、私の白身を包みこむ。タイルの床にぶつかって弾け飛んだ水滴が、軽やかな音をたてて、それでも水の膜を通って、私の耳にはくぐもって聞こえる。それがちょっと幻想的なものだから、束の間、名前のことは忘れる。

私は髪を掻きあげた。

きらびやかな黄金のカーテンがひらけて、豊穣の雨が私の顔に降りそそぐ。

まぶたに重くのしかかる。鼻先にだってあたる。重力に従い唇を濡らして、顎に伝い落ちたり、なだらかな曲線を頬に描いたりする。

他人よりも細い首、肩、鎖骨のくぼみで波を起こしたりして、下へ下へと私の体を這っていく。

いつしか火照ってきて、肌色をほのかに紅潮あかくさせる。

からだが軽い。全身から力が抜けて、腕はダランとし、思考を手放し、脚も体を支えるのが億劫になったのか、伸び伸びとしている。

足の裏面だけが痺れてきて、血の巡りと、私がここに存在するという証を、ためらいもなく認識させる。

反面、まぶたは重たかった。

脳が目を開けるのを嫌がっているみたい。私も心地よく思っているから、まぶたを通して、曖昧なのだけれども不思議に明るい空間にまどろんでいたい。

ただその時は、シャワーの温めるまぶたの裏よりも、重くて開かなかったことを考えていたのだ。


借りた部屋は豪勢ではなかったけれど、必要な設備は充分にそろっていた。

まずはシャワールーム。これはもう確認した。バスと一体式で、体の大きな人が足を伸ばせるくらいには広かった。色は白を基調にしていて、壁の材質はわからない。水気をはじくことは確かなのだけれど、木でも、石でも、粘土でも、ましてや金属でもなさそうだった。

シャワールームと部屋とを隔てる扉は、木製だった。入る時は目立たない黄土色だったのに、出るときには暗茶色に変わっている。湿気を吸収して、快適な空間を保つことで、重用され、一般にも広く普及している木材だが、ここにあるのは木目も美しい希少品のようだ。縦方向に、点々と、黒色で細長い斑紋が走っており、それが暗茶色に浮きでていて、とても落ち着いた印象を受けた。

扉を抜けると、先ほどよりかは少し大きな小部屋にでた。

右側の壁、手前に、猛々しい野獣が彫られた木製の台座が置いてあって、その上に見るも柔らかそうな、雲色のバスタオルが三つ折りに畳まれていた。

入るときにも見たはずなのだが、ちっとも記憶になかった。

私はタオルを頭に被せ、髪の毛の含んだ水分を丁寧に拭いながら、台座の彫刻を半ば呆然とした眼差しで眺めていた。

体毛の見事にさかだった、おそらく狼が、牙を立て吠えたてている。熊の親子がいて、親の左腕には傷がある。傷口には何も塗られていなくて、周りよりも明るい色をしているから、これは新しくできた傷で、本来の彫刻ではないに違いない。遠く離れないところに鳥がいて、たぶんワシだ。両翼の羽の一枚一枚さえ、荒々しくもどこか繊細さを秘めて、彫られていた。

その3体は、熊の子も含めると4体だが、すべて同じくらいの大きさになるように、立ち位置を決められていた。そして瞳には宝石がはめられていて、見るものを射竦めるように、光が反射していた。

私には、唯のタオル載せにはしては似つかわしくないように思われた。

髪の毛の水気を拭っていると、すっかり腕か疲れてしまった。

腕や肩、胴体、脚とを軽く拭き取り、羅を羽織り、背にくっつく後ろ髪を外にだし、そうしてはじめて小部屋を見まわしてみる。

空気を入れ換えるためにある細長い縦穴に、白い薄布が二重に掛かっている。足下に近いところで折り重ねられていて、風を受けているのか揺らめいていた。

反対側には大きな鏡台があって、今は閉じられているが、開ければさぞかし装飾の派手なことだろう。隣には洗面台が置いてあり、こちらの鏡は隠されてなくて、実用的な代物だった。

頭がぼんやりとしてきて、うまく説明できない。どうやら腕だけでなく、頭まで疲れているらしい。


次の部屋で休もうと考えて、優雅とは程遠い動作で扉を開け、頼りない足取りで、夜陰の見えるロッキングチェアに辿りつく。

この部屋のことは起きた後の私に任せよう。

身を任せて、軋む音を聞き届けると、もうまぶたは開かない。


嫋々(じょうじょう)。さらさらと髪をさわる。

宿屋の庭木と、栄養の足りている豊かな土の匂い。

見上げなくともわかる。きっとあの月は今も、笑っているに違いなかった。

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