潮騒
5月○日
気がつくと凄く大きくて、深い穴の中にいた
不思議と僕は助けを呼ぶ気にはなれなくて、ただとても遠くにある穴の入り口を見つめていた
しかしそこからは壁のような色をした白しか見えず、やがて僕は見るのを諦めてまたぼんやりと暗い穴の中に突っ立っていた
遠くで水の音が聞こえた
それは大きな川の濁流の様にも、また蛇口をひねった先から流れる水のようにも聞こえる
音のする方へ向かおうとすると、後ろに誰かの気配を感じた
ふっとを振り返ると、人が5mくらい後ろの方で、ジッと動かずに立っている
暗くて顔は見えない
しばらく僕とその人は動かず、ただ向かい合ってお互いを見つめていた
遠くで水の勢いが増した気がした
どれくらい時間が経ったのだろうか
突然、全く動く気配がないその人の方へ僕は後ろから背中を押された様に片足踏み出す
すると、突然影になっていたその人の顔がハッキリとみえた
僕の顔だった
僕が息を飲むと同時に、向こうの僕は暗闇に溶けるように消えた
どれくらい時間が経ったのだろうか
ここには時間の概念がないのかもしれない
諦めた様に、僕はまた暗闇に向かって歩き始める
5月○日
人間は自分の思考の中に閉じ込められていて、どう足掻いてもそこから一生でることができない
自分の思考に操られて他者と争いを起こし、自分の思考によって自己嫌悪を抱く
信じれば神は存在するし、現実主義者に神などいない
平等とはかけ離れた現実を、ただ嘆く奴は何も分かっていない。自分の中で作り上げられた狭い視野で、洗脳された正しさに固められて不幸を嘆いているだけじゃないか
言い換えれば不満を垂らすその現実もお前の一部なのに、死ぬまで気がつけないなんて。
あぁ
息が詰まるほど窮屈だ。
5月-日
隣りのクラスの女子が、同級生に身体を売っていると噂になっている
放課後試しに彼女を呼んできいてみるとあっさりOKされた
断られなかった事に対する安堵と同時に、どことなく失望を感じた
その日は日曜日に会う約束をして彼女と別れる
「晴彦くんは前からちょっとかっこいいと思ってたし、3000円でいいよ」
この女に3000円払う価値と理由が僕にあるのだろうかと思いながら、ありがとうといいお金を渡す
「でも意外だなー 晴彦くんもこういうのに興味あるんだ」
「黙れ」
一瞬ビクッとしたように体を震わせた後
焦らないでよ、と笑いながら慣れた手つきで服を脱ぐ
若くて柔らかい、健康な女子学生の身体の曲線をゆっくりと指でなぞりながら、
僕はこの女の名前を知らないことに気づく
まぁ、いいか
もう会うこともないだろう。
髪を整え、服を着る彼女の背中をぼんやりと眺めていると腹の底まで風が吹き抜けて行くような、どうしようもないほどの虚無感に襲われた
そのまま僕は、何も言わずホテルを出た
5月-日
たまに行く場所がある
果てしなく広い海に向かって、頼りなく伸びる桟橋だ
ここの浜辺には、空の缶ビールや菓子の袋などが無造作に散らばっていて、とても綺麗とは言えない
それゆえに、人が少なく僕はここが好きだった
どこまでも大きく、静かに波打つ海をみていると、まるで自分の身体や存在が粒子になり分散されて、海の一部になったかの様な気持ちになる
自分のコードの様に複雑に絡まり手が付けられなくなった感情は、まるでどこかに置いて来たかの様で、深い安心に包まれる
普段生きている世界に感じる息苦しさから、自分が居るべき所はあそこではない様な気がしてきた
潮が満ちて来て、海から吹く風に段々と夜の匂いが混じり始める
はやく帰ろう。
5月○日
眠るたびに空っぽになって行く様だ
日にちを重ねるごとに、人間として必要な感情や他者への関心が、眠っている僕の頭から枕の上にこぼれ落ちていき、諦めに似た深夜の空白だけが僕を埋めていく
洗面所の鏡で見た自分の顔が犯罪者のような目をしていて、本当にこれは自分の顔かと一瞬戸惑う
どこかで見たことがある様な気がして思考を巡らすと、
穴の中であった自分の顔にそっくりだった
5月-日
また桟橋に立っている
深く底が見えない大きな海は、人間にうっすらと畏怖の念を抱かせ、また同時に胎内で眠っているかの様な安心感を与える
この海に全て身を任せて、ただ漂うことができたらどんなに幸せだろう。
きっと自分はこの海の中で砂よりも小さく、海を構成している一種の概念になれるのだ
風が囁く
少し身を乗り出し、海をのぞいてみた
底が見えない海の上に、僕の顔が波に揺られて形を作らずゆらゆらと映っていた
頼りなく揺れる自分の顔
僕は今ここで一人、自分の輪郭を保つこともできない
波の音が大きく、耳のすぐそばで聞こえた
穴の中で会った僕が、音ともなしにやってきて後ろから肩を押した
身体がふっと前に倒れる
その瞬間、突然左腕を掴まれた
はっとして振り返ると、あの日ホテルで会った彼女だった
「 …危ないよ」
彼女がここにいることにも驚いたが、何よりも驚いたのは自分があと少しで落ちようとしていたことに、気がつかなかったことだった
「たまにここの桟橋に来てるよね。あたし、君がここにいるの何回も遠くから見てた。」
「……」
そのまま何も言わない僕を見て、彼女が言葉を続ける
「あたしね、何度もこの先の人生に、何にも希望が見出せなかったことがあるんだ。昔から1人で育ってきて、人と上手く関わる方法も知らなかったし、もちろん誰かに愛された記憶もなかった。きっとこのまま楽しいことよりも苦しいことの方が全然多くて、幸せとは程遠い世界で、でもそれが当たり前って自分に言い訳ばかりして泥の様に生きる未来しかないと思ってた。」
「何か、そういうことばかり考えてたら、急に周りの事に対する関心が全部なくなっちゃったんだよね。自ら明かりの見えない暗闇へ向かってじわじわと、確実に進んでいく。止まることも時間が許してくれないの。くだらないかもしれないけど、それがすっごくあたしにはバカらしくて、絶望だと思った。だからそう思った途端これからの未来全てがどうでもよくなって、あたしは何でも出来る様になった。どうせどう足掻いたって進むんだからって。
それからは1人でいるのも全然苦痛じゃなかったし、噂の対象や変な目で見られるのも気にならなかったよ。とにかくあたしは身軽だった。もともと親しい人なんていなかったんだし。
知ってると思うけど、身体も売ったよ。男をその気にさせてお金を貰う事なんて、思ってたよりも死ぬほど簡単だった。
でも、お金はどんどんお財布に溜まってくのに、自分はどんどん薄っぺらくなっていく気しかしなかった。
結局はそれに耐えられなくて、すぐにやめちゃったけど。何でも出来たはずなのに、それはさらに自分で自分を削っていっただけだった。
もう、いよいよ私には何も残っていないと思ったよ。この薄っぺらの自分を、未来が見えない今を、全て終わりにしたいと思った。とうとう自分に対する関心もなくなっちゃったんだよね。それで、ふらついた足で何かに導かれる様にこの海に行ったら、桟橋に誰かがいるのが見えた。それが君だった。」
掴まれたままの左腕をじっと見つめながら彼女の話を聞いていた
静かな波の音が後ろから僕と、彼女を包む
世界から隔離された空間で、この掴まれた左手だけが僕と現実とを繋ぐ綱の様に思えた
「君はただじっと立ってた。遠目から、それは呆然と海を見ている様にも見えたし、本当は海なんか目に入っていなくてどこかはるか遠くを見ている様にも見えた。
あたしはさっきまでの事を忘れて、君から目が離せなくなってしまった。
すごく勝手だけど、私を今このタイミングでここに導いて来た何かは、制服を着た彼だと確信に近いものを感じたの。
君は、私と同じ目をしてたから。
そこからあたしは学校でも君を目で追うようになった。
だから初めて晴彦くんから話しかけられた時はびっくりしたよ。内容もだけどね。でも、君と少しでも関わりが持てるならいいって思った。おかしいでしょ。」
2人の頬が徐々にオレンジに染まってゆく
彼女がすぅと息を吸った
「でも今こうして、君をここに引き止めることが出来た。覚えがないかもしれないけど君が私を助けたように、あたしは君を助けたかった。生きているのか死んでいるのか分からない毎日の中で、突然君が現れてわかったの。いや、本当はもっと私の周りにはたくさん素晴らしいものがあったのに、可哀想な自分の世話をするのに精一杯で見落としていただけかもしれない。
あのね、いつだって「今」が全てだけど、この「今」が永遠に続くわけじゃないから。綺麗事に満ちたこの世界の中でも、私たちが知らないことはまだまだたくさん、海よりも広くあるの。それは本当にすぐそばにあるのに、ずっと目を伏せて自分を守るだけでいたら絶対に気づけない。あたしがそうだったように。
晴彦くんはいつもあたしと同じ目をしてたから、これをどうしても伝えなきゃと思ってた。あたしと同じ様に自分を削ることでしか自分を守れなくなるなんて風に、晴彦くんにはなって欲しくなかった。」
しばらく沈黙が続き、また波の音だけが僕達を包む
夕日を反射する彼女の目は、まるで色がついた様に煌めいていた
僕が口を開く
「あのさ」
「名前、なんていうの」
「あたし?イツキだよ。漢数字の壱に、希望の希で、壱希」
僕は壱希が掴んでいた手を握り直した
そのまま手を引いて浜辺の方へ歩き出す
「いこう」
もうすぐ日が落ちて、ゆっくりと夜がやってくる
夜は潮とともに来て、きっと僕達を飲み込んでしまうだろう。
そうなる前に僕達は逃げなければいけない。明かりの灯る方へ。
壱希が僕の手を握り返す
また大きな波の音がした