002 バレたら最期
凛は自室へ入ると、すぐに肩にかけたバッグをおろし、その中に入っている筆箱とプリントを取り出した。今日は数学の授業で課題が出されており、その提出日は明後日の数学の時間となっている。
目の前の問題はできるだけ早く片付けてしまわないと、後にだらだらと引いてしまう悪しき癖がある凛は、できるだけその日に片づけるように心がけていた。家に帰るとやる気が萎えるからと言って課題を出された日の放課後に図書室で片づけてから帰る日もままある。
さっそく取り掛かかろうと机で構えたその時、家全体にある音が鳴り響いた。
凛個人には特に用事あるときでもない限り不快なインターホンの音。
課題もあったので居留守を使おうかとも真剣に考えたが、課題は来客の対応をしてからでも遅くはないと自分に言い聞かせ、けだるげに席を立つ。
どうせ保険屋や訪問販売の類だろうと思って玄関扉を開けてみると、そこには意外な顔が見受けられた。
「こんちわー」
開口一番に快活な挨拶をして顔を見せたのは、同じくクラスの風木美冬だった。――もちろん美冬があの瞬間を見ていたのを凛は知らない。
「風木……さん? 何か用?」
凛はできるだけ心の棘を隠していった。
本心では早く出て行ってほしい。早くしなければ課題をやる気が萎える。
「んン? 用がないとクラスメイトは遊びに来ちゃダメなの?」
「ダメってわけじゃないけど……」
顔がいいだけに、困った顔が似合うのがまた困る。
美冬はこう言っているが、実際には何か明確な理由を持って来ていると凛は予想していた。しかし、凛には美冬が家を訪ねる理由がわからなかった。
特に仲がいいわけでもないし、確かに同じ地区ではあるが、凛は高校に上がるのと同時に引っ越してきたから高校以前の接点もない。せいぜいクラスで事務的な何かを話す程度の間柄なのだ。それなのに家を訪ねてくれば、多少は懐疑的になるのも仕方がない。
裏があるが、それが読めもしないのに断ることもできない。
内心は渋々に入室を許可した。
「じゃ、おじゃましまーす」
そういって、美冬は勝手に玄関をくぐった。お邪魔された凛は、しぶしぶリビングへと通す。
家に誰もいないからと言って、いきなり自分の部屋に招き入れるほどデリカシーがわけではない。むしろ家に誰もいないからリビングという空間をつかえたのだが。
十二畳の空間にはL字で黒い革張りのソファーにガラステーブル、四十型の液晶テレビなど、おしゃれというには飾り気はないが、シックな感じに整えられた家具が並べられている。どれもこれのが凛の父親の趣向だ。
適当に座ってと促すと、凛はオープンキッチンへと入り、その棚に入っているティーセットを取り出した。
「風木さんってコーヒー派? 紅茶派?」
「あ~、じゃあ紅茶で」
「味のリクエストは?」
「ストレートでいいよ」
相手に気を使わせない程度に自分の意見を言い、我を通さない程度に自分の意を伝える二人。どちらも周りの空気を読んで生活してきただけあって、そういった類の会話は得意だった。特に女の場合、日常生活の会話ですら気を遣い、したくもないリアクションを要求されることもある。
ティーパックで紅茶をすぐに出し、市販のクッキーを添えてリビングへと持って行った。
凛の家にはこれまた父親が趣味で集めている数々の紅茶の茶葉があるのだが、ここでティーパックにしたのは相手を「高いものを飲むのは気が引ける」と気兼ねさせないようにと凛の意思だ。
「……」
「……」
二人の間を無言がつつむ。音が鳴るのは紅茶のカップがテーブルに置かれるときだけ。
先に話を切り出したのは、
「風木さんと事務内容以外で話すのって初めてだね」
凛だった。声はいつもと変わらない、抑揚のない安定がある。家に入られた時点で、長引くのか覚悟し、同時に早く追い出すのもまたあきらめたからだ。
「そうだね。雅柴君ってあんまり表出て話す人じゃないみたいだし」
対して美冬は何かを切り出そうとしている分だけ声が浮ついていた。
「うん、まあ」
「……」
「……」
相変わらずの無言属性。
「あ、あのさ」
今度は美冬が先に切り出した。その声がひどく困惑しているのは凛にも聞いて取れた。
「あのその……み……」
「み?」
「見ちゃったんだ」
「ん?……何を?」
その先を耳をそばだてて聞いた。なぜか嫌な予感がする。
「その……ちょ、ちょー速く走ってるところとか」
普通じゃないその面持ちで話す「超」とは、明らかに通常以上という意味だ。そのことが分かった凛はひどく動揺した。もしかしたらという、推測をして。
「ちょー高く飛んでるところとか」
その推測はどうやらあたってしまったようだった。
今の話からするに明らかに今日の、しかも今さっき少女を助けたあの時のことを言っているのはすぐに分かった。
そして同時に――焦った。
当事者以外の第3者にその力の一端を見せた暁には、凛のそのとき使った力について記した書にある内容に基づいて罰を執行される。
それは死以外の死。
いや待てと凛は精神を正す。
あくまでそれは「力の一端を見せた」ことが、身内に「バレた」時の話だ。
だったらバレなければ、と甘ったれた考えを構築しているところで、急に家の電話が鳴り響いた。
その音に凛はびくりと肩を震わせる。
どうにも嫌な予感しかしないその音は、黒板を爪でひっかいた時のそれとまるで似ていた。
カチコチに緊張した声で美冬に断りを入れ、電話へと近づく。ナンバーディスプレイを見てみれば、そこにはやはり見知った番号が映し出されていた。
凍土に放り出されたかのごとくふるえる手を制し、ゆっくりと受話器を持った。
「も、もしもし」
受話器を持ったはいいが、一瞬喉が詰まって声が裏返りそうになった。震えはしたが、それでもなんとか裏返る事態にはならなかった。
『わかっているな』
受話器の奥から聞こえるその声は渋く、そしてドスの利いた男の声だった。忘れることのない、凛をこの道に無理やり引きずり込んだ根源――祖父。
『今日の八時に来い。そこにいる目撃者もつれて』
世間話も何もあったものではない。用件だけ伝えると一方的に電話を切られた。
ツー、ツー。受話器から聞こえるのはもはやむなしい音だけ。
受話器をゆっくりと置く。意識したわけでもないのに、乱暴な手つきとなってしまう。そこから一歩も動かない凛を不審に思った美冬は声をかけてきた。
「どうかしたの?」
どうもこうも言っていられる状況ではない。凛の焦りは最高潮にまで到達していた。
凛は一気に美冬の元まで歩くと、その両手をつかんだ。美冬のひゃッ、と女らしい悲鳴を上げ、少し顔を赤くしたのも気にかけず凛はその言葉を口に出した。
「俺たち死んだかもしれない」
――なんであんな場所にいたんだよ!
本当はそういいたかった。でもそれは違う。
自分の未熟さを偶然居合わせた他人のせいにして押し付けているだけだ。
向けるべき矛先は他人でなく、自分。
「へ?」
何を言っているのかわからないといった様子のリアクションをとる美冬に対して、凛の顔はまじめ極まりなく、そして青ざめていた。
言いたいことと口から出てくる言葉が違ってしまう。
「死なないけど死んだかもしれない」
「い、意味が分からないんだけど……」
愛想笑いで何かのギャグかと受け取る美冬。
死に準ずる何かなど、凛の経験上『死にかける』以外は浮かび上がらない。
そんなものはほとんど死んだも同然だ。確かに死にかけることはあったが、これから死にゆくわけでそんな時に冷静でいられるほど、凛は修羅場を潜り抜けてはいない。
「とりあえず説明は後でするから。その時にさっきの風木さんが見たそれも説明するから。
あと、七時半までにまたここに来て。あ、あの爺時間にうるさいからな……やっぱもっとはやく。でも言いなりってのも嫌だし、やっぱ最初通り七時半に来て。
あと、やり残したことがあったら今から七時までに何かやっておくといいよ」
苛立ちの募る声で矢継ぎ早に説明する。そのあとも凛は美冬に残りの言っておかなければならないことまで言い終えると、美冬をすぐに家へと帰した。
祖父は逃げれば何とかなる、とかそんな短絡的思考で出し抜けるような相手ではない。だからあの祖父から逃げられるとも思ってはいない。――腹をくくれということか。
一人しかいない12畳の空間はどうにも狭く感じる。いつもはそんなことないのに。
ああ、死んだのかな。
◇◆美冬の思い◆◇
(なんだったんだろうあの動揺っぷり。しかも死ぬとか死なないとかよくわかんないし)
美冬は急に焦りだした凛に無理やり家を追い出された。
なんなんだろうかといろいろなことに疑問に思うこともあるが、今はそれどころではない。
凛には2つ指示されたことがある。凛が混乱して説明したものだから理解するのに時間を要したが、要約すればこうだ。
1、午後7時半にもう一度家に来てほしい。
2、それまでの間、何かやり残したことがあるのならば済ませておく(ただし、他人へのあいさつ等はしないこと)
これではまるでもう二度と帰ることができないかのような内容だ。
その内容にいささか懐疑的な思いもあったのだが、あの状況から察するに、どうやら凛の超人的なアレは見てはいけないものだったのかもしれない。
そしてそれを見てしまった美冬にも何かまずいことが起ころうとしているのも察せた。
それにしても、と美冬は思う。
(なんなのあの動揺っぷり。まるで世界が終わったかのような顔して。どうせあの超人パワーだって何らかのトリックがあるんでしょ)
笑って先ほどの光景を思い出す。
しかし美冬は今一つのことで悩んでいた。内容は簡単で、7時半にもう一度ここに来るかどうかというものだ。
ここに来ること自体は問題ないのだが、死ぬだのどうだのといった話を信じるわけではないのだが、しかしあの『普通マスター』の凛が本気の顔で言っていたのだ。
少なくとも、凛に何かあったこと自体は容易に察しが付く。
(だったら行くしかないっしょッ! それにさっきの超人のトリックも説明してくれるって言ってたし)
美冬は未だ傍観者気分のせいか、その足取りは異様に軽い。
第三者であったが故に、これから当事者となるのにも気が付かず。
美冬は家に帰ると、さっそくバッグの到着を待った。
若干気が萎えたが、それでも念願の二十万円だ。うれしくないわけがない。今なら小躍りしてもいい気分だ。
自室のベッドの上で正座をしてじっと待つ。
到着は六時。現在時刻は五時半。あと三十分。その三十分が異様に長い。長すぎる。
一時間にも二時間にも感じられたその三十分。
刻々と動く秒針や分針。あと五分、一分。またその一分も長い。
まるでカップラーメンを目の前で待っている気分になった。
そして秒針はのこり十秒を切った。秒針は軽快な音を鳴らせて着々と進んでいく。
三、二、一、時計すべての針が同時に動いた時だった。
「……」
無音。
誰も来ない。なにも来ない。そこでようやく美冬は気が付く。
(ってそういえば六時ジャストに来るわけないじゃん)
寸分くるわず時間ちょうどに来れるほど運送業者はスペシャリストではない。
当然信号などの交通事情があるのだから、時間が前後する。あまりにうれしすぎ、テンションの高かったせいか、どうにも当然のことを忘れてしまったようだ。
恥ずかし、と美冬は誰もいない自室でつぶやいた。
つぶやき程むなしくなるものはない。まるで自分がさびしい一人ぼっちのような錯覚に陥る。
いっそのことツイッターにでも登録してつぶやこうか、と冗談で考えたその時だった。
ピンポーン。
家全体にインターホンが鳴り響く。
「キターーーーーーーーー」
近所の迷惑も考えずに大声を出し、机の上に置いてあった封筒を持って自室を飛び出して、階段をなりふり構わず降りていく。途中兄から「ウルセー! ご近所に迷惑だろ!」と自分も迷惑極まりない大きさの声で怒鳴られたが、そんなことを気にしていられる余裕はない。手に持つ封筒はグッシャグシャだ。
乱暴に玄関を出るとそこには運送業者の男性。
「こんにちは。代引きでお届けです。代金は二十万五千円となっております」
「はいはーい。えっとこれ」
そういって手に持ったぐしゃぐしゃの封筒からお金を出す。
一度に20万が飛んでいく瞬間など初めての美冬にとっては少々手痛い。渡したお金が手から離れるとき、若干力が入ってしまったのは仕方がないだろう。
特に気にすることもなくお金を受け取り、確認がてらにサインを美冬にさせて段ボールを渡すと、運送業の男性は軽快に「ありがとうこざいました!」と深く腰を折って早々にトラックへと戻っていた。
玄関をしめ、自室へと猛ダッシュで駆け戻る。
その時にも兄に「ウルセー! 俺に迷惑だろ!」と怒鳴られたがそれも無視だ。
ベッドの上でガムテープを遠慮なしにどんどんと破いてき、ゆっくりとその中に入っているブツを持ち上げた。ビニール袋に梱包されたそれを広げると、そこには念願かなってついに手に入れたパディントンバッグがそこにはあった。
高級感漂う綺麗な白い色を基調とし、バッグのちょうど真ん中の腹の部分にはクロエの象徴ともいうべき落ち着いた金色のカデナ錠。
それを見てやっと手に入れたんだという実感がわく。そのバッグに抱き着いてみたり、頬ずりしてみたくなってしまうのはどうしても仕方がないだろう。
一通り愛で倒すと、ふと気になった時計を見た。時計の針は午六時四十分を示していた。
七時まであと二十分。
凛の言うことをすべて鵜呑みにするわけではないが、やはり先ほどの「やりたいことはすべて済ませておけ」という話が気になって仕方がない。
仮に自分がもうすぐ死ぬと仮定したとしても、死ぬ前に何がしたいかと問われて答えられる回答を持っていない美冬には、これからしたことなどそう見つかるはずもないのだが、どうしてもやり残したことを探してしまうのは人間の性ともいえるかもしれない。
真剣に悩んでみても思いつかない美冬は、とりあえず今思いつくプチ贅沢を施行することにした。
財布を持って急いで自宅を飛び出す。たどり着いた先は近所のコンビニだった。
(ま、今すぐできるプチ贅沢なんてこんなもんかな。って言ってもいまどきのアレは侮れないからなぁ)
美冬は出入り口の脇にある買い物カゴを手に取って、まっすぐデザートコーナーへと足を進めた。
最近のコンビニスイーツはまったく侮れないものだ。
所詮コンビニスイーツ、とバカにしていると、おそらく人生を損しているともいえる。
なぜなら最近のコンビニスイーツは、モノによってはわざわざそのスイーツの発祥国にまで足を運んで、研究しているのだから。ベルギーチョコを使うのならばベルギーへと赴くことも少なくないし、ケーキであればヨーロッパの様々な国へ赴くことも。
そして最も注目すべきはやはりその値段だろう。五百円を切る価格で本格スイーツを食べられるのは贅沢と呼べるだろう。
本当の味を知る上ではコンビニスイーツは物足りない感が否めないだろうが、安さと味を比較すれば間違いなく楽しめる味となっているのは確かだ。
美冬は陳列された商品の中で、今最も食べたいスイーツをかごに入れて、ついでにペットボトルの紅茶を一緒に購入した。
すぐさま家に帰ると、時刻は六時五十分。あと十分で食べきらなければ……と考えたのもつかの間、美冬と冬樹の家は比較的近所にあることを思い出す。
凛の指定した時間は七時三十分。引っ張りに引っ張れば七時二十分までなら間に合う。
それをいまさらながらに思い出した美冬は、安心してスイーツに手を出した。
しばしの時間そのスイーツを吟味する。