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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

生贄令嬢の楽園 〜役立たずと捨てられた私は、氷の辺境伯様に溺愛されながら雪解けの花を咲かせます〜

作者: 鳴芽明
掲載日:2026/01/31

 十八歳の誕生日の朝、私は死を贈られた。


 目の前に置かれたのは、装飾も何もない、不気味なほど真っ白なドレスだ。


 これを着て、今すぐ北へ向かえと、お父様は冷たく言い放った。


「光栄に思え、リリア。お前みたいな魔力なしの役立たずが、一族のため、ひいてはこの領地のために命を捧げられるのだから。これは伯爵家の娘として、最高の誉れなのだよ」


 お父様の声には、娘を死地へ追いやる悲痛な響きなど微塵もなかった。あるのは、厄介なゴミをようやく処分できるという晴れやかな安堵だけだ。


 無理もない。伯爵家には今、かつてない存亡の危機が迫っていたからだ。


北の守護者、ドラグウェル辺境伯。


 この国では、彼こそが人の姿をした龍の怪物そのものであると伝えられている。


 王家ですら、彼の怒りを買えば国ごと食い尽くされると恐れ、五十年に一度、生贄を捧げることで平穏を買っているのだ。


 もし生贄を拒めば、辺境伯の中に眠る龍が目を覚まし、この地を地獄に変える。そんなおぞましい伝承が、子供の読み聞かせに使われるほど根深く信じられていた。


そして今回、その龍の飢えを凌ぐための餌に指名されたのが、伯爵家だった。


「お姉様、本当にお疲れ様。お姉様が身代わりになってくれるおかげで、私はこれからもこの家で贅沢ができるわ。せいぜい、美味しく食べられなさいね?」


 隣でクスクスと笑うのは、本来なら生贄になるはずだった妹のシャーリーだ。彼女には豊かな魔力があり、両親からも溺愛されている。


 本来、五十年に一度の周期に当たったのはシャーリーの代だった。けれど、この家の人々は愛する妹を救うため、魔力なしの私を、魔力があると偽って身代わりに差し出すことを決めたのだ。


 龍への捧げ物に偽物を混ぜる。それがバレた時にどうなるかなど、彼らは考えてもいないのだろう。


ただ、目先の厄介払いができて、可愛い娘が助かればそれでいいのだ。


 家では家族として数えられたことすらない、名ばかりの令嬢。食事は冷え固まった残り物、ドレスは妹が捨てたお下がり。


そんな私が身代わりとして差し出されるのは、この家では当然の流れだったのだ。


 私は抵抗もせず、真っ白なドレスに身を包んで、用意された黒塗りの馬車に乗り込んだ。


 ガタン、と重い音を立てて車輪が回り始めたとき、外側からバタンと扉が閉ざされた。


 それだけではない。御者が金槌を振るう音が聞こえてくる。窓という窓に板が打ち付けられていく。光が遮られ、馬車の中は一瞬で暗闇に包まれた。


ーーああ、もう本当に戻れないんだ


 馬車の中は狭く、埃っぽい。


 何日経ったか分からない旅路。差し入れられるのは凍りついたパンとわずかな水だけ。


 馬車が北へ向かうにつれ、隙間風はナイフのように鋭くなり、私の肌を容赦なく刺した。


 恐怖と寒さで、私は膝を抱えて丸くなることしかできなかった。


 五十年前、別の領地から生贄にされたシンシアという女性も、こんな気持ちだったんだろうか。


王都では彼女の絶叫が国中に響いたなんて恐ろしい噂がある。


龍の怪物に食われる瞬間、彼女は何を思ったのだろう。


 私もすぐに、彼女と同じ場所へ行くのだ。


やがて、馬車が停止した。


 重々しい門が開く音が響き、しんと静まり返った空気の中に、雪を踏みしめる靴音が近づいてくる。


 バキバキと、板が引き剥がされる乱暴な音がして、扉が勢いよく開かれた。


 眩いばかりの白光が差し込み、私は思わず目を細めた。


「……降りろ」


 低く、地を這うような野太い声。


 視界が慣れてきた私の前に立っていたのは、一人の男だった。


 銀色の髪を荒々しくなびかせ、黄金の瞳を鋭く光らせた巨躯の男。


 その肌はあまりに白く、美しく整った顔立ちは氷の彫刻のように無機質で、けれど圧倒的な威圧感を放っている。


 彼こそが、北の守護者にして龍の怪物と恐れられる男、アルタイル辺境伯。


 私は震える足で地面に降り立った。


 一面の銀世界。吐く息は真っ白で、心臓が今までにないほど激しく脈打つ。


 周囲には、誰一人いない。


 出迎える従者も、賑やかな歓迎の気配もない。


 ただ、巨大な黒い石造りの城が、私を飲み込もうと口を開けて待っているようだった。


「……ついてこい」


 アルタイル様はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。


 雪に足を取られ、ドレスの裾が濡れて重くなる。


 それでも私は、置いていかれまいと必死にその後を追った。


 城の中は、外よりは幾分マシだが、しんと静まり返っていて、不気味なほどだった。


 長い廊下を歩く間、聞こえるのは自分の足音と、アルタイル様の衣擦れの音だけ。


 明かりは等間隔に置かれた燭台の火のみで、揺れる影がまるで生き物のようにつきまとってくる。

 

 やがて、彼は重厚な扉の前で足を止めた。


 ギィ、と鈍い音を立てて開かれた部屋の中央で、彼は私を振り返った。


 逃げ場のない室内。黄金の瞳が、私を射抜くように見下ろしている。


「……名は何という」


「リ、リリアと、申します。伯爵家から……参りました」


 私は震える声で、必死に言葉を絞り出した。


 いつ、龍の怪物の姿になって襲いかかってくるのか。


 死の恐怖で、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えて、私は覚悟を決めて首を差し出した。


「お、お好きなように、してください。私は、そのために来たのですから……」


 私の言葉を聞いた瞬間、アルタイル様の眉がピクリと動いた。


 彼は無言のまま、一歩、また一歩と私に近づいてくる。

 

 ドクン、ドクンと、自分の心臓の音が耳元でうるさく鳴っている。


 壁際まで追い詰められ、彼の影が私を完全に覆い尽くした。

 

 冷たい、けれどどこか熱を帯びたような大きな指先が、私の顎に触れる。

 

「……食うぞ」


 至近距離で囁かれたその言葉に、私はぎゅっと目を閉じた。


 喉元に鋭い牙が突き立てられるのを、私はただ待つことしかできなかった。


 逃げ場のない、城の一室。


 大きな手が私の顎を上向かせ、逃がさないとばかりに固定している。

 

ーーああ、ついに。ついに私は、食い殺されるんだ

 

 ぎゅっと目を閉じる。


 首筋に、喉元に、いつ鋭い牙が突き立てられるのか。そんな恐怖で全身の血の気が引いて、指先まで凍りついたように動かない。

 

 死にたくない。


 そう叫びたいはずなのに、どうしてか頭の片隅では、ようやくこれで誰にも邪魔されずに眠れるんだ、なんて投げやりな安堵が浮かんでいた。


 けれど、いつまで経っても、鋭い痛みは来なかった。


 代わりに聞こえてきたのは、カチャリ、という金属が触れ合う小さな音。


 それと、どこからか漂ってくる、香ばしくて、驚くほど食欲をそそる芳醇な香り。


「……いつまで、そうしている」


 不機嫌そうな声。


 恐る恐る目を開けると、そこには首を傾げたアルタイル様が立っていた。


 黄金の瞳は相変わらず鋭いけれど、その視線は私の首筋ではなく、背後のテーブルに向けられている。

 

「え……?」

 

 私が間抜けな声を漏らすと、アルタイル様は無言で顎から手を離し、椅子を引いた。

 

「座れ。冷める」

 

「冷める……? あの、召し上がらないのですか? 私を」

 

「何を、言っている。俺が食うのは、これだ」

 

 彼が指差した先には、見たこともないほど厚みのある、見事なステーキが並んでいた。


 立ち上る湯気。滴る肉汁。たっぷりとかけられたソースの香りが、空腹の胃を容赦なく刺激する。

 

 私は、呆然とアルタイル様とステーキを交互に見つめた。

 

「あの、あの……人喰い、というのは……」

 

「……くだらない。どこで誰が言ったか知らんが、俺は人間を食う趣味などない。龍の加護を持つ我が一族は、確かに魔力維持のために大量の食事を必要とするが……それは、ただの食事だ」

 

 アルタイル様は、まるで、そんな当たり前のことを聞くな、と言いたげに、自分の席に腰を下ろした。


 そして、私の分と思われる皿に向かって、不器用にナイフを動かす。


 大きな手で、一口大に肉を切り分けていく。

 

「道中、ろくなものを食わされていなかっただろう。その様子では、毒など入っていなくとも、今にも倒れそうだぞ」

 

「……っ」

 

 思わず、涙が溢れた。


 恐怖から解放された安心感だけじゃない。


 実家で、お父様やお母様に、せいぜい美味しく食べられなさいと笑われた私が、ここに来て一番最初に言われた言葉が、倒れそうだという、私自身の身を案じる言葉だったなんて。

 

「なぜ、泣く。……肉が、嫌いだったか?」

 

 アルタイル様が、戸惑ったように眉を寄せる。


 慌てて首を振って、私は震える手でフォークを握った。

 

 切り分けられた肉を一口、口に運ぶ。


 噛みしめるたびに、上質な脂の甘みと肉の旨味が口いっぱいに広がった。温かい。冷え切っていた胃の底から、ゆっくりと体温が戻ってくるのを感じる。

 

「……おいしい、です。こんなに温かくて、美味しいお肉、初めて食べました」

 

「……そうか」

 

 アルタイル様は短く答えて、肉を口に運び始めた。


 けれど、その黄金の瞳が、チラリ、チラリとこちらを窺っていることに気づく。

 

 彼は無愛想で、声も低くて怖いけれど、もしかして。

 

「あの、アルタイル様。その、さっき、どうして顎に触れられたのですか?」

 

 私が恐る恐る尋ねると、アルタイル様の手がピタリと止まった。


 彼は気まずそうに視線を逸らし、ぼそりと呟いた。

 

「……顔色が、悪かったからだ。……それと」

 

「それと……?」

 

「……あまりに小さくて、弱そうだったから……支えただけだ」

 

 支えた。


 それは、実家で受けてきた押さえつけるための力とは、全く違うものだった。


 不器用で、力が強すぎて、少し怖かったけれど。

 

 その時、ふと気づいた。


 彼の耳の先端が、銀髪の隙間から、ほんのりと赤くなっていることに。

 

この人、もしかして、すごく……口下手なだけなのかな?

 

 けれど、安堵したのも束の間。


 私は、自分が置かれた生贄という状況を思い出す。

 

「アルタイル様。私を食い殺さないのだとしたら、私はここで何をすればいいのでしょうか。実家にはもう戻れません。私は、身代わりとして差し出された、魔力もない役立たずの娘なんです」

 

 アルタイル様はナイフを置き、真っ直ぐに私を見た。

 その瞳に宿っているのは、嘲笑でも、軽蔑でもない。

 

「……生贄としてではなく、妻として来た、と言ったら?」

 

「え……?」

 

「……俺は、生贄など求めていない。求めているのは、俺の、この暴走しがちな魔力を……側にいて静めてくれる、伴侶だ」

 

 アルタイル様はそう言って、大きな手を、テーブルの上にそっと差し出した。

 

「リリア。お前が役立たずかどうかは、俺が決める」

 

 その言葉の重みに、私は再び、目頭が熱くなるのを感じた。


 お腹がいっぱいになると、猛烈な眠気が襲ってきた。


 この数日間、ボロ馬車の中でまともに眠れなかった緊張の糸が、温かい食事とアルタイル様の言葉によって、ぷつりと切れてしまったみたいだ。


「……眠いのか」


「あ、すみません、その……」


 カクンと落ちかけた頭を慌てて持ち上げると、アルタイル様が椅子から立ち上がり、私の隣まで歩いてきた。


 見上げれば、やはりとんでもなく大きい。けれど、先ほどまでの食い殺されるという恐怖は、不思議と消えていた。


「立てるか。部屋へ案内する」


 差し出された大きな手を、私はおずおずと握った。


 驚いた。彼の掌は、氷のような外見に反して、火傷しそうなほど熱かったのだ。


「あの、アルタイル様……お手、すごく熱いですけど、お風邪ですか?」


「……いや、これが普通だ」


 彼は少しだけ視線を逸らした。


 そのまま手を引かれ、廊下を歩く。


 アルタイル様の手からは、ドクドクと力強い拍動と、何か荒れ狂う嵐のような熱が伝わってくる。これが、龍の加護というものなのだろうか。


 案内されたのは、私にはもったいない、豪華な寝室だった。


 ふかふかの絨毯に、天蓋付きの大きなベッド。暖炉には赤々と火が灯り、サイドテーブルには見たこともないほど澄んだ水が入った瓶が置かれている。


「今日からは、ここがお前の部屋だ。必要なものがあれば、何でも言え」


 私は、部屋の入り口で立ち尽くしてしまった。


 あまりの綺麗さに、一歩を踏み出すのが怖かったのだ。私の着ているドレスは、馬車の中でついた汚れで汚かったから。


「どうした。気に入らないか?」


「いえ!そんな、滅相もありません!ただ、私みたいなのが、こんな素敵な部屋を使ってもいいのでしょうか。実家では、屋根裏の物置みたいなところが私の部屋だったので……」


 つい、ポロリと本音が漏れてしまった。


 アルタイル様の黄金の瞳が、一瞬、鋭く細められた。


「……屋根裏?」


「はい。窓もなくて、冬は隙間風がすごくて。でも、ここはとっても温かいです」


 私が精一杯の笑顔でそう言うと、アルタイル様は何かを堪えるように拳を握りしめ、そのまま無言で私のドレスの袖に触れた。


「……伯爵家は、お前をぞんざいな扱いをしていたということか」


「……お役に立てない私が悪いんです。魔力もなくて、家族の恥さらしだと言われてきましたから」


 俯く私。けれど、次の瞬間。


 アルタイル様の熱い手が、私の頭をそっと撫でた。


 大きな、分厚い手。撫で方はひどく拙くて、まるで壊れ物を扱うような慎重さだったけれど。


「ここでは、そんな扱いはさせない。明日、新しい服を。お前が選びきれないほど用意させる」


「アルタイル様……」


 彼はそれだけ言うと、逃げるように部屋を出て行こうとした。


 その背中があまりに寂しそうで、私は思わず声をかけた。


「あの、アルタイル様!」


 彼は立ち止まり、肩越しにこちらを振り返る。


「……さっき、お手に触れた時。すごく熱くて、苦しそうでした。私、魔力はないですけど……背中をさすったり、お茶を淹れたりすることならできます。もし、アルタイル様が苦しい時は、いつでも呼んでください」


 アルタイル様は目を見開いた。


 そのまま、何も言わずに扉を閉めて行ってしまったけれど、閉まる直前、彼の顔が耳まで真っ赤になっていたのを、私は見逃さなかった。


 一人になった部屋で、私はふかふかのベッドに身を沈めた。

 

生贄なんて、嘘。アルタイル様は、とっても不器用で、優しい人だ。


 でも、それならどうして、五十年前のシンシア様は消えてしまったんだろう?


 彼女は、今もどこかで生きているんだろうか。それとも、やっぱり……


 疑問は尽きなかったけれど、あまりの温かさに、私の意識はすぐに深い眠りへと落ちていった。


 翌朝、私は柔らかな陽光に包まれて目を覚ました。


 北の国は朝が遅いけれど、窓の外には見渡す限りの銀世界が広がり、それが朝日を反射して宝石のように輝いている。


こんなにぐっすり眠れたの、いつ以来だろう。


 実家の屋根裏では、常に誰かの呼び声や、掃除を命じる怒鳴り声を恐れて眠りが浅かった。けれど、この城の静寂はとても心地よかった。


 私は顔を洗い、ドレスをできるだけ整えて部屋を出た。


 昨日案内された大きな食堂へ向かうと、そこにはすでにアルタイル様の姿があった。


 彼は難しい顔で食事をしていたけれど、私の気配に気づくと、黄金の瞳をわずかに揺らした。


「……起きたか。体調はどうだ」


「はい、とっても元気です。あの、アルタイル様。朝のお手伝いをさせてください。お掃除でも、洗濯でも、何でもやります」


「……そんな必要はないと言ったはずだ。お前は客として、いや、妻としてここにいる」


 アルタイル様は呆れたように息をついた。


 けれど、私は引き下がれなかった。実家で役立たずと叩き込まれてきた私にとって、何もしないで大切にされることは、逆に不安で仕方がなかったのだ。


「お願いです。私、じっとしているのが一番苦手なんです。それに、アルタイル様のお役に立ちたくて……」


 私が必死に食い下がると、彼は観念したように、勝手にしろ、と呟いて視線を食事に戻した。ただし、その耳の端がまた少し赤くなっているのを、私は見逃さなかった。


 さっそく私は城の中を歩き回り、自分にできることを探し始めた。


 この城は大きくて立派だけれど、どこか男所帯という感じで、細かいところに手が届いていない。


 まず気になったのは、アルタイル様が使っている執務室の乾燥だ。


 北国の冬は厳しく、暖炉の火は欠かせないけれど、その分空気がひどく乾いている。アルタイル様の手が驚くほど熱かったのも、魔力の暴走だけでなく、この環境のせいもあるかもしれない。


 私は実家で、庭の隅っこに生えていた薬草を煎じて、自分用の塗り薬を作っていたことを思い出した。


 実家の医師には、雑草で何をしている、と笑われたけれど、あかぎれだらけだった私の指先を救ってくれたのは、いつもその雑草だった。


この城の温室に、似たような草があればいいんだけど。


 城の奥にある、魔力で温度が保たれた古いガラス張りの温室。


 そこへ足を踏み入れると、私は驚きで声を上げた。


 そこには、自分が住んでいた領地では見たこともないような珍しい植物が、まるでジャングルのように生い茂っていたのだ。


「……これ、もしかして……あ、それに、銀の雫も!」


 どれも図鑑でしか見たことがない、貴重な薬の原料だ。けれどここでは、まるで雑草のように力強く育っている。


 私は夢中になって、枯れかかっていた葉を摘み取り、土を整えた。


 不思議なことに、私が土を触ると、植物たちが喜んでいるような、柔らかな光を帯びる気がした。


 数時間後。私は温室で見つけた薬草と、厨房で分けてもらった油脂を混ぜ合わせ、特製の保湿クリームを作り上げた。


 そして、それを持って再び執務室へ向かった。


「あの、アルタイル様。これを……」


「……それは何だ」


「保湿のクリームです。アルタイル様の手、すごく熱くて乾燥していたから……」


 私は勇気を出して、彼の大きな手を取り、指先にクリームを塗った。


 彼は驚いたように身体を強張らせたけれど、拒絶はしなかった。


 私の指先が彼の熱い肌に触れる。


 その瞬間、パチリ、と静電気のような光が弾けた。

 

「っ……!?」


「あ、ごめんなさい! 痛かったですか?」


 慌てて手を離そうとしたけれど、逆にアルタイル様にグイッと手首を掴まれた。


 彼の黄金の瞳が、驚愕に染まっている。


「リリア……お前、今、何をした」


「えっ? ただ、クリームを塗っただけですけど……」


「……違う。お前が触れた瞬間、俺の奥で荒れ狂っていた魔力が、嘘みたいに静まった。……お前、本当に魔力がないのか?」


 アルタイル様の声が震えていた。


 私の指先を通して、彼の龍の熱が吸い取られていくような、不思議な感覚。

 

 その時だった。


「あらあら。廊下まであんなに光が漏れて……。これじゃあ隠居生活も退屈していられないわねぇ」


 開け放たれたままだった扉の向こうから、不意に声が響いた。


 驚いて振り返ると、そこには豪華な毛皮を羽織り、背筋を真っ直ぐに伸ばした、凛とした佇まいの老婦人が立っていた。


「……ばあさん。勝手に入ってくるなと言っただろう」


 アルタイル様が、頭を押さえて深い溜息をつく。


 けれど、老婦人はそんな不機嫌な態度などどこ吹く風で、私の方へと歩み寄ってきた。


「あなたがリリアね? 初めまして。私はシンシア」


 彼女は慈しむような笑みを浮かべて、私の目を見つめた。


「……あなたがさっき、この子の熱を吸い取った時の光。五十年前の私と同じだわ」


「えっ……? 五十年前、同じ……?」


「あなたの先代の生贄よ」


 その名を聞いた瞬間、私の背中に冷たいものが走った。


 シンシア。五十年前、この城へ送られ、その絶叫が王都まで響いたと言い伝えられている悲劇の令嬢。


「シンシア様……!? でも、あなたはーー」


「食い殺された? いいえ、私はこうして生きているわ」


 シンシア様は、おどろおどろしい噂を吹き飛ばすように軽やかに笑った。


「この家はね、人を食べるんじゃないの。世界の毒を、その身を器にして黙って引き受けているだけ。……それを王都の臆病者たちが、自分たちの後ろめたさを隠すために生贄なんておぞましい言葉にすり替えたのよ」


「世界の、毒……」


 シンシア様は確信に満ちた声で囁いた。


「あなた、自分が触れた場所がどうなるか、本当はもう気づいているんでしょう?」


 その言葉が、私の心に眠っていた記憶の蓋を跳ね飛ばした。

 

 掃除を終えた後の清浄な空気。


 私が触れた土からだけ、冬を越して芽吹いた花。


 役立たずと罵られながら続けた、あの無意味だと思っていた日々の手触りが、今、アルタイル様から伝わる熱とぴたりと重なる。


ああ。私は、壊していたんじゃなくて、癒していたんだ。


「……ばあさん、もういい。ここからは俺が話す」


 アルタイル様が、低い声で静かに割って入った。


 彼は私の目を真っ直ぐに見つめ、私の手首を掴んでいた大きな熱い手で、私の両手を包み込んだ。


「リリア。お前の力は、何かを壊すためのものじゃない。……ただそこにいるだけで、荒れ狂う嵐を凪に変える。それは誰にも真似できない、俺が、そしてこの地が、最も必要としていた光だ」


 アルタイル様の手から、ドクドクと力強い拍動が伝わってくる。その鼓動が、今は驚くほど穏やかだった。


「お前を捨てた者たちは、自分たちが何を放り出したのか、今に知ることになるだろう。……リリア、俺の側に、いてくれないか。お前を二度と、あんな冷たい場所へは戻さない」


「アルタイル……様……」


 視界が涙で滲んだ。生まれて初めて、誰かに必要だと言葉にしてもらった。


 彼の手は驚くほど熱くて、けれど私の心を溶かすように優しかった。私は震える手で彼の衣を掴み、何度も、何度も頷いた。


 この日を境に、私の生贄としての生活は終わりを告げた。


 代わりに始まったのは、不器用な龍の主と、その側に寄り添う私の、穏やかな新しい日常だ。





 それから三週間の月日が流れた。


 その間、私は城での新しい役割に夢中になっていた。


 午前中は、温室でシンシア様から薬草の育て方や魔法の扱い方を教わる。私の手が触れるだけで、枯れかけていた北国の植物たちは瑞々しく蘇り、温室は色鮮やかな花が咲き誇る楽園へと変わっていた。


 午後は、アルタイル様の執務室へ向かうのが日課だ。


 特製のクリームを塗るたび、彼の肌に宿る荒れ狂うような熱が、凪のように静まっていく。


「……リリア、お前が来てから、魔力の暴走で夜に目覚めることがなくなった」


 ある日の夕暮れ。窓の外を眺めながら、アルタイル様がぽつりと零した。その黄金の瞳は、出会った頃の無機質さが嘘のように、私を穏やかに映している。


「お役に立てて、嬉しいです。……私、ここに来て初めて、自分の手が誰かを救えるんだって知りました」


 差し出した私の手を、彼は熱い掌で優しく包み込む。


 かつて死を贈られたあの日から、私の世界は塗り替えられた。


 そんな平穏が、ずっと続くと信じていた。


そして更に月日が流れ、城の庭に積もった雪がさらに深くなった頃、城の鐘が荒々しく鳴り響いた。


「辺境伯!どこだ、辺境伯!早く出てこい!」


 静寂を切り裂く怒鳴り声と共に、泥にまみれた父とシャーリーがなだれ込んできた。かつての威厳はどこへやら、父の目は血走り、狂気じみた焦燥に支配されている。


 アルタイル様は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


 そして、傍らに立ち尽くしていた私の肩を抱き寄せ、父たちを冷徹に見下ろした。


その静かな、けれど圧倒的な威圧感を含む動き一つで、広間の空気が物理的に凍りついた。


「……騒がしい。我が城で、何をしている」


「辺境伯!我が領地は今、魔物に食い荒らされ壊滅寸前だ。生贄を捧げたのに、なぜ守護の力が働かない。これはどういう――」


 わめき散らしていた父が、ふと、アルタイル様の傍らにいる私に気づいた。


 父は、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、次の瞬間、吐き気を催すような嫌悪を露わにして私を指差した。


「な、なぜお前が生きている……なぜ喰われていない」


「お父様……」


「そうか、分かったぞ。お前があまりに不味そうな欠陥品だったから、龍が満足しなかったんだな!生贄の役目すら果たせないのか、この役立たずが!」


 父が言葉を重ねるほど、私の肩を抱くアルタイル様の掌から、凄まじい熱量が溢れ出した。広間に渦巻くのは、怒りによって具現化した殺気だ。


「……貴様、今、なんと。リリアを、何と呼んだ」


 地を這うようなアルタイル様の声。けれど、混乱の極致にいる父はその警告に気づかない。


「辺境伯!代わりの餌なら用意した!だから早く、領地の魔物を消し去ってくれ!」


 父は隣で震えていたシャーリーの腕を強引に掴み、アルタイル様の足元へ放り出した。


「嫌っ、嫌よお父様!離して!死ぬのは嫌っ!」


「黙れ!はじめからお前を差し出しておけばよかったんだ!」


 父はシャーリーを怒鳴りつけると、今度は這いつくばるような勢いでアルタイル様へ向き直った。


「さあ辺境伯、シャーリーは魔力が豊富だ。こいつを好きなように喰らって、一刻も早く我が領地を護ってくれ!」


 醜い悲鳴と身勝手な怒号が、冷え切った広間に虚しく響き渡る。


 周囲に控える側近や衛兵たちは、あまりの浅ましさに言葉を失い、ただ不気味なほどの沈黙をもって、その光景を蔑んでいた。


 娘を、救済のための対価として差し出し合う父。

 床を這い回り、必死に命乞いをする妹。


 かつて、この人たちの機嫌一つに怯えていた自分が、今では遠い昔の出来事のように感じられた。


 私はただ、悲しいほど冷めた目で彼らを見つめていた。


 胸を刺すような痛みも、激しい怒りもない。ただ、目の前で喚く肉親たちが、言葉も通じない別の生き物のように思えてならなかった。


 私の世界はもう、ここにある。私を抱きしめるこの熱い手の主のもとにしかないのだ。


 アルタイル様が、私の肩を抱く手にぐっと力を込めた。彼から溢れ出す圧が、叫ぶ父と妹の声を強引に抑え込む。


「…………以上か」


 地を這うような、アルタイル様の声。


 父は、その圧倒的な重圧に、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。


「お前たちが自ら捨てたものが、どれほどの救いだったか。……それを知ることすら、貴様らには許されない」


 アルタイル様は説明すら拒絶するように、側に控えていた衛兵たちへ短く、冷徹に顎をしゃくった。


「連れて行け。二度とこの者たちを、俺の視界に入れるな」


「なっ、待て!このままだと家が、私の爵位が!」


「お姉様!お願い、助けて!お姉様っ!」


 足元に縋りつこうとしたシャーリーの手が、届く前に衛兵たちに引き剥がされる。


 私は一言も発さなかった。助ける理由も、罵る言葉も、今の私には必要なかったから。


 閉ざされる扉の向こう、遠ざかる悲鳴。


 静まり返った広間で、アルタイル様が私の肩を抱く手に、さらにぎゅっと力がこもる。


 見上げれば、そこには私を案じる、ひどく熱い眼差しがあった。

 

ああ。この人は、私を生贄としてではなく、一人の人間として守ってくれている。


 その体温だけで、私はもう、どこまでも生きていけると思った。





 あの日、父たちが絶叫と共に城を追い出されてから、数ヶ月が経った。


 風の噂によれば、私の実家であった伯爵家は、魔獣被害による領地の荒廃を食い止められず、爵位を剥奪されたという。


 お父様やお母様、そしてシャーリーが今どこでどうなっているのか、詳しいことは分からない。

 

 けれど、それを聞いても私の心に湧き上がるのは、怒りでも喜びでもなかった。


 ただ、遠い国の昔話を耳にした時のような、ひどく冷めた感覚。今の私にとって大切な世界は、この白い雪に包まれた城の中にしかなかったから。


「……リリア、寒くないか」


 城の広い中庭で、背後から温かな声がかけられた。


 振り返ると、銀髪を風になびかせたアルタイル様が、大きな毛皮のコートを持って立っていた。彼は私の肩を包み込むようにコートをかけると、そのまま大きな手で私の手を握りしめる。


「ありがとうございます、アルタイル様。でも、不思議ですね。ちっとも寒くないんです」


「……それは、お前の力が、この地の冷たすぎる魔力を静めてくれているからだ」


 アルタイル様は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。


 シンシア様が言った通り、私の浄化の力は、アルタイル様の熱を奪うだけでなく、この城全体に満ちていた刺すような冷気を和らげていた。

 

 私が庭の隅、雪に埋もれていた小さな植木鉢に触れる。


 その瞬間、指先から柔らかな光が溢れた。


 すると、数日前まで凍りついていたはずの土から、緑色の芽が力強く顔を出し、みるみるうちに小さな白い花を咲かせた。


「……咲いた」


 アルタイル様が、黄金の瞳を驚愕に染めて絶句した。


 冬が半年以上続くこの北の地で、雪の中で花が咲くなど、これまで一度もなかったことだ。


「リリア。お前は本当に……いや、俺にはお前を言い表す言葉が見つからない」


「言葉なんていりません、アルタイル様。あなたが、私を見つけてくださった。それだけで十分なんです」


 私が微笑むと、アルタイル様は耐えきれないといった様子で、私をその逞しい腕の中に閉じ込めた。

 

「……かつての俺は、この身を焦がす熱の中で、いつか本当に龍になって壊れてしまうのか不安だった。……だが今は、この命が続く限り、お前の隣で、この穏やかな景色を見ていたいと思う」


 耳元で囁かれる、深く、愛おしさに満ちた声。


 アルタイル様は不器用に、けれど誓いを立てる騎士のように、私の髪にそっと口づけた。


「愛している、リリア。お前こそが、俺の、この地の、唯一の救いだ」


「私も、私も愛しています、アルタイル様」


 生贄として贈られた死のドレスは、今ではこの城で、誰よりも幸せな花嫁のドレスへと変わっていた。


 私の物語は、ここで終わるわけではない。


 これからこの白い地を、アルタイル様と共に花でいっぱいに変えていくのだ。


 十八年間、屋根裏で見上げていた狭い空よりも、ずっと広くて、温かなこの場所で。

 

 雪解けの雫が、キラキラと朝日に輝いている。


 それは、私たちの新しい日々の始まりを祝う、祝福の光のように見えた。




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