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第1話:信州の朝と赤いリンゴ

【前書き】 定年退職、そして故郷・信州への移住。人生の「終着駅」に辿り着いたつもりの真一を待っていたのは、冷涼な空気と、一本の真っ赤なリンゴの木でした。

 高木真一は書斎の窓から、青空を背にした信州の山並みを眺めていた。  窓を開けると冷気が一気に流れ込み、部屋の温度が下がる。    寒い朝だ。  畑には霜が降り、一面が白く染まっている。

 外に出ると、白い霜の上に一本の煙が立ちのぼっていた。  やがて青空に吸い込まれるように消えていく。  その姿が、真一には自分の人生と重なって見えた。

 兄を亡くし、母がひとりになった。  六十五歳の秋、長年勤めた東京の機械メーカーを退職した真一は、母と妻・智子と共に北信州町での新しい暮らしを始めていた。

 しかし、母にとって何より可愛かったのは亡くなった長男だった。  笑顔を見せることも少なくなった母を世話しきながら、真一はどうすればその心を和らげられるのか、日々思い悩んでいた。

「真一さん、朝ご飯ができましたよ」 「今行くよ」 「お母さん、おはようございます」

 三人で囲む朝食は、東京にいた頃にはない格別な時間だった。  静かな食卓。母への思いが、いっそう愛おしくなる。

「今日は土曜日だから、山下さんに挨拶に行きませんか?」  智子の提案に、真一は頷いた。 「ああ、まだ行けてなかったね」

 親戚の山下さんは、地元の機械メーカーに勤めながら、高木家の田んぼを長年世話してくれている恩人だ。  北信州へ転居したことの報告と、来年の稲作を頼むために彼を訪ねた。

「山下さん、ご無沙汰しています。兄の葬儀の際はありがとうございました」 「お久しぶりです、真一さん。稲作は来年もお任せください」 「畑は少し自分たちでやろうと思います。母に教わりながら」 「ははは、叔母さんは野菜づくりの名人だからね」

 握手を交わすと、奥さんの淳子さんが笑顔で迎えてくれた。  智子ともすぐに打ち解け、婦人会への誘いまでしてくれる。  こうして北信州での生活が、ゆっくりと、だが確かに動き出した。

 十月二十日。よく晴れた日のことだ。

「今日は町を案内しよう。役場や病院、銀行を確認しておきたい」 「ついでに名所もね。母さんも一緒にドライブに行きましょう」

 旧跡や一茶展示館を巡った。  杖をついていた母も、久しぶりの外出に心なしか表情が明るい。  見学の帰り、駐車場の脇に一本のリンゴの木があった。

 風に揺れながらも、真っ赤な実が枝にしっかりとぶら下がっている。

「まあ、なんて綺麗なリンゴ」

 母が指差した。  青空に映えて輝くその姿に、三人はしばし見入った。

――残りの人生も、あのリンゴのように風に負けず輝いていたい。

 真一はそう心に刻んだ。  だが、この時はまだ知る由もなかった。  静かな隠居生活を送るはずだった彼の知恵と経験を、世界が再び必要とする日がすぐそこまで来ていることを。


【後書き】 「残りの人生も、あのリンゴのように……」そう願った真一。しかし、彼が培ってきた「技術」は、まだ彼を眠らせてはくれないようです。

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