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序 わをんちゃんとあぎとくん

「僕が大きくなったら結婚してくれる?」


 ちっちゃなあぎとくんはそれはそれは可愛らしかった。

 あの頃のあぎとくんの表情筋は一切の仕事を放棄していたけれど、それでも愛らしかった。

 ハイライトはないけど、きゅるんきゅるんのどす黒いおめめで、お花を持って私を見上げるかわいいかわいいあぎとくん。

 その姿はもう、本当に食べちゃいたいくらいに可愛かった。



 とある著名な学者はこういった「結婚する前の妻は食べてしまいたいほど可愛かった。あの時食べておけばよかった」と。



「だからね、わをんちゃん。他の男と同じ空気を吸ったらそれは浮気なんだよ。僕の言っていることわかる? 僕なにか間違ったこと言っているかな? いや、言っていないよね。僕は大好きな女の子に浮気してほしくないって言ってるだけなんだよ。さっきから、いや、君に会ってからずっとずっと。それなのに君はこうやって浮気もどきばっかり繰り返してさ、僕はそれイヤだから止めてって何度も何度も言っているのになんで男と一緒に行動しちゃうのかな。本当にあり得ないよね。ねぇ、わかる、僕の言っていること。僕からの愛情を確かめるためにこういう事をしているって言うの? いや、それあり得ないからねえ。わをんちゃん、僕はわをんちゃんのことが大好きで大好きで愛してて、いや、そんな安っぽい言葉では伝えきれないほどの情を君に傾けているわけだよ。なのに、なのにさぁ、何で君は僕以外の男のいる場所で酸素を吸って、僕以外の男がいる場所に二酸化炭素を吐き出しているの? その二酸化炭素がその男に触れるとは考えなかった訳? ねぇ、わかる? 僕何か間違ったこと言ってるの? え、間違ってたいってよ、わをんちゃん、僕の何が間違っているって言うんだよ」



 一息である。

 もう一度言おう、一息である。

 あぎとくんは一息で長ったらしい台詞を言いきった。

 呼吸はちゃんとしているのだろうか。

 息切れした様子など微塵もない。

 瞬きもなく、そのハイライトのない暗澹たる瞳が私を見ている。



 胃が痛くなってきた。

 あと、頭もクラクラしてきた。

 そろそろ、失神するかもしれない。

 原初の恐怖が今目の前にあった。

 いや、今目の前にあるのは、というかいるのはあぎとくんなわけだが。


「・・・・・・いや、ソレは呼吸なんですよ」

 私は両手をあげて、あぎとくんに掌を見せる。

 敵意はない、のポーズである。

 もしくは、助けてくれのポーズかもしれない。

 口角は引き攣っていただろう。

「落ち着きましょう、あぎとくん、落ち着きましょう」

 なんとか笑顔を作ったが、あぎとくんの表情は地獄のままである。

 ニコリともしなければ、微動だにもしていない。


「は? また呼吸した? ねぇ、分かってる? 僕、君が吐き出した二酸化炭素が他人に触れるのが嫌だっていう話をしてたんだよ? なのに、何でまた二酸化炭素を吐き出したの? 二酸化炭素を吐いたら、君が吐き出した二酸化炭素が他の人に触れちゃうでしょ? なんで吐き出しちゃったの? それはもう浮気じゃない? もしかして、ちゃんと僕の話聞いてた? 聞いてたなら何で呼吸したのか全然分からないし、聞いてなかったなら僕のこともう好きじゃない・・・・・・は? 本当に無理なんだけど、一緒に死のう、わをんちゃん。大丈夫、そんなに苦しませないようにするからね、地獄で一緒に幸せになろう、わをんちゃん」

「いや、あのね、酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出すのは生命活動なんですよ。浮気じゃない。浮気じゃないんです。落ち着きましょう、あぎとくん、落ち着きましょう、あなたは落ち着かねばならないと思います、はい、そうに違いありません」

「なんで今無料翻訳機みたいに喋ったの? ふざけてるの? 浮気した後のこの状況で、なんでそんなに悪ふざけみたいな事ができるの? 浮気を軽くとらえすぎじゃない? 浮気って言うのはね、したら死刑になることだよ。わかる? 浮気は心の殺人だからね、浮気した人間も殺されなくちゃいけないんだよ。なのに、そんなに軽く流すなんて信じられない。わをんちゃんはいつもそう、僕はいつも真剣に喋ってるのに、わをんちゃんはいつもいつも軽く考えて、しっかりと聞いてくれない。僕はいつだって本気で考えて死ぬほど悩んで言ってるんだよ? そう、僕はね、冗談かなにかで言ってるわけじゃないんだよ? なのに、なんでそう軽いの? なんで僕に真剣に向き合ってくれないの? ねぇ、僕の何がいけないか、ちゃんと言葉にして言って」



 時の流れは残酷である。

 残酷すぎて涙が出そう。

 というか、視界が滲んできた。



 所々腐って、今にも壊れそうなひきづり村の廃神社の中。

 私はかわいいかわいいあぎとくんに殺されそうになっていた。

 あぎとくんの手に握られているのは包丁である。

 そこら辺に捨ててあったのか、その刃は錆びてボロボロだ。

 なんでこんなところに包丁があるのか、考えたくはない。

 そして、錆びきったそれが、まだ物を切れるかは分からない。

 しかし、それでも刃物は刃物である。

 向けられてご機嫌にはなるはずはない。

 そして、向ける方もご機嫌であるはずもない。



 しかも、恐ろしいことにその刃は上方を向いている。

 以前、聞いたことがある──刃が下向きと上向きでは殺傷能力が違うだとか、殺意が違うとか。

 うん、上向きだと殺意が強いのだと聞いたはずだ。

 それが眉唾物の話かどうかまでは分からないが、とにかく、目の前の刃は上を向いていた。


 つまり、あの話が本当であれば、あぎとくんには強い殺意があるということだ。


 ・・・・・・そもそも、普通に刃物を持ったら、その刃が上を向くことはない。

 なので、おそらく何らかの意志や考えに基づいて、刃を上を向けているのだろう。

 その殺意に込められた意志やそこにいたる考えが何なのか、全くもって知りたくはないが。


 いや、上を向いていようが、下を向いていようが、殺意があろうが、なかろうが、そして錆び付いていようが、刃物は刃物。

 私は刃物を向けられている。

 最悪だ。


「落ち着きましょう、落ち着きましょう、あぎとくん。忘れているかもしれないんですけど、実は君はやべぇ村の廃神社に生け贄よろしく閉じこめられて、放置されていたのを私に助けられたところ・・・・・・」

「殺す」

「落ち着きましょう、本当に落ち着きましょう、話せば分かります。心を。心を落ち着けるのです。コスモも電波も大地も地球もこの世のありとあらゆるモノが言っています、おちついて刃物を下ろすのです。さぁ、深呼吸をして、大丈夫、まだ間に合います」

「刺す」

「太宰~」




 私はちょっぴり泣いた。

 うん、ちょっぴり。

 ちょっぴりね。



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