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名もなき供物の幸せな神隠し  作者: 三羽高明


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9/9

私のお月様(2/2)

「俺の名前? 熊八(くまはち)です。八頭の熊みたいにでっかくて丈夫になりなよ、って意味ですね」


(まこと)。正直な子になってほしいから真です」


(しのぶ)といいます。名前のとおりに忍耐強い! ……なんてことはありませんけど」


 昨日、神域へやって来た時は夜も更けていたので見る暇がなかったけれど、ここはどこまでも広がる田園と緑豊かな山や林、あちこちに点在する集落で構成されたのどかな場所だった。


 一面に広がる田んぼでは、農民が作業をしている。木陰の下にいる人たちは、昼の休憩に強飯(こわいい)の握り飯を食べていた。


 立波村では、食事は基本的に朝と夕の二回だけだったけれど、体を動かす労働者たちは昼食を取る習慣があった。どうやらそれは神域でも変わらないらしい。


 私は休んでいる人たちのところへ行って、片っ端から名前を聞いてゆく。


三吉(みよし)っす。毎日三つはいいことに巡り会えますように、って感じっすかねえ」


 神の花嫁が神域へ来たという話はすでに伝わっているのか、皆は嫌な顔一つせずに、素直に名前を教えてくれた。


 もっとも、私は残月様に横抱きにされた状態で聞き込みをしていたから、協力したくないなんて言えなかっただけかもしれないけれど。


 それに、先ほどまではもっと大所帯だった。


 威厳を出すために貴人の顔を団扇(さしば)で隠す係や、(きぬがさ)と呼ばれる日傘をさす係までいたのだ。


 ただ名前を聞いて回るだけなのにそんなに大勢が着いてくる必要はないと思ったから、彼らには途中で帰ってもらったのである。


 どうして身分の高い方というのは、ちょっとした用で外出するだけでもこんなに大げさになってしまうのだろうか。質素な生活に慣れきっていた私には、さっぱり分からなかった。


「日が暮れてきたな」


 夢中で聞き込みをしていると、残月様が空を見上げてそう言った。


 先ほどまでお昼だった気がするのに、もう太陽が山の端に沈みかけている。日が落ちたら農作業はできないので、農民たちはポツリポツリと家に帰り始めていた。


 まだまだ色々な人の名前を知りたかったのだけれど、私たちもそろそろ引き上げる時間のようだ。どうして時がたつのはこんなに早いのかしら? 


 残念に思いつつも、私も残月様と共に帰宅した。


 もう夕方ということは、私は随分と長い時間、彼に抱かれていたことになる。残月様、腕を痛めていないかしら?


 心配になった私は、館の敷地を囲う三重の柵を通り過ぎるなり、残月様の腕の中から飛び降りた。


「申し訳ありません。ずっと私を抱えていて、お疲れになったでしょう?」

「なんてことはない。丸一日でもこの腕の中に閉じ込めておきたいくらいだ」


 残月様は平然と言って、ハシゴを登り、近くの建物の中に入る。私もあとに続くと、すでに室内では夕食の用意が整っていた。


 その献立の豪勢なことといったら!


 薄茶色の高坏(たかつき)に山盛りにされた湯気の立つ強飯に、丸々と太った(たい)の塩焼き、蒸した鹿肉と海藻の汁物。小鉢に盛られているのは……干した柿!?


「どうしてこんなものまで? 柿は今の時期の果物ではないのに……」

「霊力を使って凍らせたのだ。そうすれば、日持ちするからな」


 残月様は事もなげに言ってのけたけれど、私は「まあ、すごい!」と驚いてしまった。


 残月様の言う「霊力」とは、彼が時たま使う不思議な力のことだろう。立波村にもそういった力を持つ者はいた。巫者(ふしゃ)の一族である。特に私の姉は一族の中でも強い霊力の持ち主で、神降ろしを行うことができる。


 けれど、村にいるどんな強力な巫者でも、残月様には敵わないだろう。石を鳥に変えたり、ものを凍らせたりするなんて、まさに神がかりの(わざ)としかいいようがない。


「本当に素晴らしいお力ですね。そのような能力があれば、何でもできるではありませんか」


「いや、そうでもない。何事も使い手の技量次第だ。……ほら、料理が冷めてしまうぞ」


 残月様が鮭のなますを食べながら言った。「使い手の技量次第」ということは、ほかにもこんなに強力な霊力を使える人がいるのかしら? 神域って、とても神秘的なところなのね……!


 私は大きなお(わん)を両手で持って、熱々の汁物を一口ずつ飲んでいく。胃の()から温まっていって、体中に活力がみなぎるようだ。


 残月様は、そんな私の様子を目を細めて見ていた。


「今日の聞き込みの成果はどうだった? 名はつけられそうか?」

「今は、まだ」


 私は空になった椀を置いて答える。


「世の中には、本当にたくさんの名前があるのだなと実感して、ただただ圧倒されるばかりです。そんな星の数ほどもある名前の中からたった一つ、私に合うものを見つけ出すなんてできるのか、まるで分かりません」


 なんだか急に食欲がなくなってきた。目の前に並ぶ(ぜい)を尽くした料理の数々を億劫(おっくう)な気持ちで眺める。


 けれど、残月様は私と違って悠然(ゆうぜん)と構えていた。


「自分に合う名前というのは一つしかない。つまり、まれびとが見つけなければならないのは、星ではなく月ということだ。月は一つしかないだろう?」


「月、ですか。私にぴったりの名前も、お月様のように目立つ形で提示されればいいのですが……」


「そう心配するな。月は見えなくてもそこにある。待っていれば、その内に雲の影からひょいと出てきてくれるだろう。隠れた月が出てくるまで、共に空を見上げようじゃないか」


 つまり、残月様はこれからも名前探しに協力してくれるということね。少し不安が軽くなるのを感じた。


「ありがとうございます。空の月は雲に隠れていても、地上の月は見失いようもないくらい明るく輝いていて頼もしい限りです」


「当然だ。私はお前の夫だからな」


 残月様が艶っぽく笑った。


 別に変な意味で言ったわけではないのですが……!


 そう訂正しかけたけれど、立波村の女たちは意味深長な言葉で男性を誘うこともしばしばあったと思い直し、何も言わないことにした。捨てられないための努力は常にしておくべきだ。


 ふと、残月様の(さかづき)が空になっているのに気づいた。気に入った男性の世話を甲斐甲斐しく焼く村娘の姿なら何度も見たことがある。私は酒壺の中身を柄杓(ひしゃく)でくみ取り、盃に注いでやった。


「口移しでは飲ませてくれないのか?」


 残月様が上機嫌で盃を傾けながら聞いてくる。く、口移しですって!? さすがにそんなことまでする覚悟はまだできてないわ!


 でも、神域から追い出されないためには、ためらっている場合ではないのかしら……?


「冗談だ」


 おろおろする私がおかしかったのか、残月様が笑いながら言った。


 もう! 悪い方! こんなことをおっしゃるなんて、酔っているのかしら?


「安心しろ、まれびと」


 残月様が盃を置いて、私を抱きしめた。


「お前の月はいつでもここにいて、まれびとを照らしている。私にできることがあれば何でもしよう。だから、必ず名を見つけてくれ。またお前と離れ離れになるのは耐えられない……」


 先ほど戯れを言った時とは一転して、残月様は真剣な口調になっている。


 一方の私は、残月様が何気なく漏らした言葉に首を傾げていた。


 また(・・)離れ離れになる、とはどういうこと? この神域に来てから、私と残月様が長い間離れていたことなんて、一度もなかったと思うのだけれど……。


「お前も、私と共にいたいと思ってくれているのだろう?」


 残月様の蒼白い瞳に私の姿が映っている。彼に負けないくらい私も心細そうな顔をしていると分かって、少しドキリとした。


 ええ、もちろん。神域から追い出されたら、もう行くところがありませんから。また立波村に戻るのは絶対に嫌です。


 うっかりと本音が出そうになって私は口を閉ざした。ここにいたいなら、こんな利己的な台詞は口にするべきではない。


 ……そう。私はとても利己的だ。


 それなのに、残月様はそんな私の下心を見抜けないでいる。彼は本気で私に好かれていると思っているのだ。本当は、残月様の気を引くための演技なのに。


 もしこのことがバレたら、私は残月様から嫌われてしまうかもしれない。そう思うと、妙に寂しい気持ちになる。


 どうやら私の中に、神域に留まりたいという思いとは別に、残月様に好かれていたいという心が芽生えつつあるようだった。


「あまり腹は減っていなかったか?」


 ほとんど手つかずのまま残されている料理を見て残月様が言った。


「疲れているのなら、今日はもう寝たほうがいい。明日もまた、名を探しに行くのだろう?」


 残月様に続いて私も席を立った。そのまま、彼と別れて寝屋に向かう。


 申し訳ありません、残月様。まれびとはあなたを騙しています。


 私はふぅ、とため息を吐いた。


 本当のことを告げると考えただけで、足が竦んでしまう。それに、残月様だってこんなことは聞きたくないだろう。妻の愛情が、全部見せかけだけのものだったなんて。


 だから、もう少しだけこのままでいよう。


 なんとも情けなくて臆病な決断だけれど、私はそう心に決めた。すべてはこの神域で暮らしていくため。そして、残月様と一緒にいるためだ。

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