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名もなき供物の幸せな神隠し  作者: 三羽高明


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8/9

私のお月様(1/2)

 残月様の言うとおり、高床の建物に入った途端に、小雨がぱらぱらと降ってきた。


「やむまで少しかかりそうだな。……ここへ」


 床に座った残月様が、自分の太ももをぽんぽんと手のひらで叩いた。私は言われるまま、大人しく彼の膝の上に座る。


「先ほどは言いそびれてしまったが、その格好、とても似合っているぞ」


 ()で、撫で、撫で……。


 残月様が私の頭をすり減りそうなくらい撫で回す。それだけではなく手も握ろうとしたようだけど、何を思ったか途中で動きを止めて、「ああ、そうだ……」と小さな声を漏らした。


「これをお前に渡そうと思っていたのだ」


 私を膝の上に乗せたまま残月様がすぐ傍の棚から取り出したのは、蓋のついた小さな容器だった。中には、黄色っぽいとろりとした液体が入っている。


「ドクダミで作った軟膏(なんこう)だ」


 残月様が液体を指ですくって、私の手の甲にすり込んだ。


「肌や唇の荒れにいいらしい。髪に塗っても構わないそうだ。お前の手荒れもこれで治るだろう」


「そんなにお気遣いいただかなくても……」


「気にするな。私はお前の夫。妻にこれくらいしてやるのは当然だ」


 私の指先のあかぎれに残月様が軟膏を塗っていく。


 ぱっくりと割れた傷口に薬が染み込んできて、ジクジクと(うず)いた。けれど、痛みはしても不快に感じなかったのは、残月様の心遣いが伝わってくるからだろうか。


 手荒れなんて病気でも何でもない。だから、自分の体のことなのに治療しようなんて思ったこともなかったのだ。


 それなのに、残月様はこんなにも細かな気遣いまで見せてくれた。この疼痛(とうつう)は優しい痛みだ。軟膏だけではなく、残月様の愛情まで体の中に入り込んできた気がして、私は不思議なほどに安心感を覚えた。


 薬を塗り終わっても、残月様は私を離そうとしなかった。指先のあかぎれもまだ疼いている。愛って尾を引くものなのね。


 でも、あまりのんびりとしているわけにもいかないわ。


「名前を探しに行こうと思っていたのですが……」


 私は小窓の外を見る。雨足は先ほどよりも強くなっていた。


「名前探しか……。それは、ここにいてはできないことなのか?」

「そうですね。色々な方からお話をうかがおうと思っていたので……」


 というよりも、残月様のお膝の上でできることなんて限られているのでは? がっちり抱きすくめられて、ろくに身動きも取れないくらいなのだから。


「そうか……。それなら仕方ないな。雨がやむように祈ってみよう」


 残月様が髪からかんざしを引き抜いて、小窓から身を乗り出す。小石を鳥に変えた時のように、またあの奇怪な力を使うつもりなのだろう。


 私は残月様の後ろ姿を見ながら、「私に早く名前を見つけてほしいと思いますか?」と尋ねた。


「ああ、もちろんだ」


 残月様が即答する。やっぱり名なしの妻なんて、いつまでも手元には置いてもらえないのね……。


 私はまだズキズキと脈打つように痛む指先に目をやる。先ほどまで心地良かったはずの疼きが、急に体を絶え間なく責め立てる鈍痛に変わってしまったように感じられた。


 痛む指先をこすりながら、私は思い悩んだ。


 あと九日という時間制限があるとはいえ、実際に私が名前を見つけられるのはいつになるか分からない。


 それまでは、どうにかして別の方法で残月様の心をこちらに繋ぎ止めておく必要があるんじゃないかしら?


 といっても、一体何をすればいいというの?


 私は必死で考えた。


 けれどすぐに、これはそんなに一生懸命に頭を悩ませるような問題ではないかもしれないと思い直す。


 立波村での私は……というより奴婢や私は、雇い主に逆らわないことを徹底していた。言いつけには二つ返事で従い、時にはお世辞を言ったり、媚びを売ったりすることもしばしばだった。


 雇い主の側でも奴婢のそういう態度を調子がいいと思っている節はあったが、反抗的な奴婢よりも素直な奴婢のほうがかわいがられていたのは事実である。

 

 今回もそれと同じだ。雇い主と夫という違いはあるけれど、残月様の気に入るような振る舞いをすればいいのである。


 それに村の女たちも、男の関心を引くためにあの手この手を尽くしていたではないか。そんな先輩たちのやり口を真似しない手はない。


 私は、窓から身を乗り出していた残月様に後ろから抱きついた。


 よし、次は……思わせぶりな言葉よ!


「好きです!」


 ええと……。これだけじゃ、まだ足りないわよね?


「私は、名前も翡翠のかんざしも、皆が当然のように所有しているものを何も持っていません。……そんな私でも受け入れてくださいますか?」


「……」


 あ、あら……? どうして無言なの……?


 残月様が黙りこくってしまったものだから、私は冷や汗をかいた。


 もしかして……失敗した? 


 どうしましょう! 誘惑なんて慣れないことをしたからだわ! 私ってば、なんてバカだったのかしら……。


 ……いいえ、まだ諦めてはいけないわ。残月様の歓心を買う方法は、ほかにもあるはず。さあ、考えるのよ!


 焦っていると、突然残月様が体を動かした。油断していた私は床の上に尻もちをつきそうになる。


 でも、無様に転んでしまう前に、残月様が私の体を抱き上げてくれた。


「私がお前を愛しいと感じているのと同じように、お前も私を想ってくれていたのだな! やはり、お前は私の妻だ!」


 残月様は私の脇の下に手を入れると、軽々と体を持ち上げて、部屋をくるくると回り出した。


 私が身につけている領巾(ひれ)がひらひらと揺れて、まるで空を飛んでいるようだ。残月様が足に帯びている鈴がリンリンと小刻みに音を立てる。


「ああ、惜しいな……。まれびとに名前さえあれば、今すぐにでも婚礼の儀を執り行うことができるのに……」


 こんなに華やいだ表情の残月様は見たことがない。どうやらかなり喜んでいるようだ。


「こうしてはいられないな。何が何でもお前を生者の世界に留め置き、婚礼の儀を行うためにも、早く名前を見つけなくては!」


 残月様は私を抱きかかえると、外に飛び出した。彼の力のお陰か、雨はすでにやんでいる。


 何なの、この急展開は?


 でも、これですぐに捨てられたりはしないだろう。私は残月様の腕の中で胸をなで下ろした。

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