名前を忘れた者(3/3)
ふと、近くに人の気配がした。小雪さんが戻ってきたのだろうか。
だが、そこにいたのは知らない男性だった。ヒゲが伸び、結っていないボサボサの髪が、顔にすだれのようにかかっている。身につけている麻の貫頭衣も汚れが目立っていた。
もしかして、みそぎのためにお湯を使いにきた人かしら?
初めは、男性の薄汚れた身なりからそう思ったけれど、すぐに考えをあらためる。
男性は憔悴しきっていて、歩く姿はふらふらと頼りなく、虚ろな目は病気のように見えた。もしかしたら、自分が今どこにいるのかも分かっていないのではないだろうか。
「大丈夫ですか?」
心配になって声をかけると、男性は初めてこちらに気づいたような顔をする。そして、おぼつかない足取りで私に近づいてきて、がっしりと肩をつかんだ。
「あんた、俺の名前を知らないか?」
「な、名前?」
弱り切った見た目とは裏腹に、私の肩を握る男性の手にはとても力がこもっている。私は思わず鳥肌を立てた。
「なあ、助けてくれよ! 俺を助けてくれ!」
「い、いや……! やめてくださいっ!」
男性に肩を揺さぶられ、私は小さく悲鳴を上げる。体の奥底から、じわじわと恐怖が這い上ってきた。
冷たい声が聞こえてきたのは、その時のことだった。
「私の妻に何をしているんだ」
残月様だった。
残月様が私の肩から男性の手を引き剥がすと、彼は支えを失った棒きれのように後ろに倒れる。残月様はそんな男性には一瞥もくれず、私に「行くぞ」と促した。
けれど、私は「待ってください」と残月様を引き留める。
「あの人、体の具合が悪いのかもしれません。先ほども、名前がどうとかよく分からないことを口走っていて……。ひょっとして、悪霊にでも取り憑かれたのではないでしょうか。祈祷をしてあげたほうがいいかもしれません」
いきなり間近まで迫ってきた時は恐怖を感じたけれど、今の私は地面に丸まってピクピクとしか動かなくなってしまった男性に哀れみを覚えていた。
しかし、残月様は首を横に振る。
「その必要はない。あれを救える者はどこにもいないのだから」
不意に、男性が絶望的なうめき声を上げた。その体が薄くなり始めている。私はぎょっとしてしまった。
「え……。これって……!?」
私が思い出していたのは、昨日、自分の身に起きたことだった。神域に来た途端、私の体も透け始めたのだ。
私が呆然としている間にも、男性の体は徐々に透明に近づいていき、やがて見えなくなった。いつ今し方まで彼がいた場所には、もう何も残っていない。まるで、初めからここには誰も存在していなかったかのようだ。
「い、今のは……」
「亡名者だ」
私が震える声で尋ねると、残月様がそう教えてくれた。
残月様は、先ほどまでは男性が私を怖がらせたことに怒っていたようだけれど、今は悼むような表情をしている。
「神域の民の中には、まれに自分の名を忘れてしまう者がいる。それが亡名者だ」
「名前を忘れた? それは、名なしと同じことですか? ……だから彼は消えてしまった?」
「ああ。名を失った者は、各地をさ迷い、何とかして自分の名前を思い出そうとするが、大抵は叶わない。その内に、あの男のように追い詰められておかしくなってしまう者もいるのだ」
「そんな……」
「せめて鎮魂の祈りくらいは捧げてやりたいが……。奴の名も分からないのでは、それも不可能だ」
「私も……名なしのままだと、ああなるのでしょうか……」
私は先ほどまで亡名者がいたところを見つめる。彼が消える寸前に見せた、諦めのこもった表情が忘れられない。
「お前は平気だ。必ず自分の名前を見つけられる」
残月様が力強く言って、私の肩を抱いた。
「さあ、そろそろ中に入ろう。もうすぐ一雨来そうだ」
「……はい。……あっ、ですが、小雪さんが……」
「彼女には私から伝令しておこう」
残月様が近くに落ちていた小石を拾った。そして、髪から翡翠のかんざしを引き抜いて、それを唇に当てて呟く。
「残月の名において命じる。石よ、小鳥に変われ」
残月様がそう言い終わった途端に、石に変化が起きた。カタカタと動いたかと思うと、あっという間に灰色の小さな鳥に変身したのだ。
「小雪のところへ行け。まれびとは私が預かっていると言うのだ」
残月様からの伝令を言付かった小鳥は小さな声で鳴いたかと思うと、翼をはためかせて空を飛んでいく。私はその様子を呆気にとられて見ていた。
さすが神様だわ。こんな不思議なことができるなんて!
昨日、何もないところから火を生み出しのも、きっとあんなふうにしたのね。
「行くぞ」
もう一度促されて、私は我に返る。開きっぱなしになっていた口を慌てて閉じ、残月様と共に館のほうへ歩いていった。




