名前を忘れた者(2/3)
必ず名前を見つけてみせると決意したからには、早速行動あるのみだ。
「あなたは、ご自分の名前をどうつけたのですか?」
私は侍女に尋ねた。
「名前ですか? 自分でつけたわけではありませんよ」
私の髪から丁寧に水気を拭きながら侍女が言った。
「ご紹介が遅れましたね。私は小雪といいます。私の名前をつけたのは両親ですよ。私が生まれた日は雪が降っていたそうです。だから、雪のように真っ白な肌の美しい娘になるようにと思って、小雪と名づけたとか」
そうか……。普通の人は自分で自分の名をつけたりしないのね。当たり前すぎて、そんなことは思いもよらなかったわ。
名前なんて、生まれた時から誰でも当たり前に持っているもの。それなのに、私には名がない。
昔はそのことが悲しくて泣いた日もあったけれど、その嘆きはいつの間にか日常の一部になってしまって、最近では何も感じなくなっていたのだ。
「どうです? 私って、雪みたいに色白ですか?」
私の気持ちが暗くなり始めたのに気づいたのか、小雪様がわざとらしく体をひねって尋ねてくる。私は思わず笑ってしまった。
「ええ、『小雪』というのは、あなたに相応しい名前だと思いますよ。私も自分に似合った名前をつけられるように頑張らないといけませんね。まずは、小雪様だけではなくて、もっと色々な人に話を聞いてみることにします。そうすれば、何か名付けの手がかりのようなものがつかめるかもしれませんもの」
「いい考えですね。……あっ、私に『様』はつけなくていいですよ。立場は奥方様のほうが上ですから」
「……そうでしたね」
まだ「神の妻」という身分に慣れていないことを痛感した。もしかして、今の私はこの神域で二番目に地位が高いのだろうか。昨日まで奴婢と同格の扱いを受けていたことを考えると、妙な気分だった。
「そういえば、この神域にはほかの住民もいらっしゃるのですか?」
「ええ、たくさん。この館で働いている者たちだけではなく、外にも集落があって、職人や農民も大勢住んでいますよ」
その辺りは、私の住んでいた村があった現し世とあまり変わらないようだ。私はさらに質問をする。
「私がそういった人たちにお話を聞きにいくのは、問題ないでしょうか?」
「あらやだ! 『問題ないでしょうか?』だなんて!」
小雪さんは目を丸くした。
「奥方様は残月様の花嫁なのですよ。行きたいところへ行っていいんです。なんなら、この神域を出て、元の村に帰ってしまうこともできるんですから。残月様だって止めはしないでしょう」
「え……。それは、この神域を追い出される日が来るかもしれない、ということですか?」
「追い出される!? まさか! そういう意味で言ったわけでは……」
小雪さんの話はほとんど私の耳に入ってこなかった。残月様に神域から出ていくように言われるかもしれない、という可能性に私の心は囚われしまう。
私が頼りにならない娘だということは、すでに残月様にバレてしまっている。もし彼が、そんな不出来な妻などいらないと思ったらどうなるだろう?
名前がないせいで、今の私はまだ残月様の正式な花嫁ではない。それは、私との縁など切ろうと思えば簡単に切ることができるという意味ではないだろうか。
せっかく居場所と愛してくれる人を見つけられたと思ったのに、それを手放すことになるかもしれないなんて……!
あまりの衝撃に私は打ち震えた。名なしのままだと、私はここにいられないかもしれないのだ。
私が思い出していたのは立波村にいた奴婢のことだ。奴婢は物と同じ。だから、主人の都合で簡単によそに売られてしまう。
私は神の供物ということもあって、そんな心配とは無縁だったけれど、まさかここにきて村の奴婢たちと同じことで頭を悩ませないといけないなんて思ってもみなかった。
「奥方様は何も気にしなくていいんですよ」
私の不安を察したのか、小雪さんがなだめるような声を出した。
「残月様は奥方様を見限ったりはいたしません。それより、奥方様が気にしなければならないのは、ご自分のお姿です。……ほら、見てください」
小雪さんが私の腕を取って、目の高さに掲げた。私はポカンとしてしまう。
汚れが落ちきった体を見るのは、いつぶりだろうか。こすられて薄紅色になった肌は、意外なくらい弾力があってみずみずしかった。
私は自分の体をあちこち見回してみる。どこもかしこも綺麗になっていた。何だか心までさっぱりとしたようで、気分も上向きになってくる。
小雪さんが小鉢に入った粘り気のある汁を手に取った。さねかずらという植物から作った整髪料だろう。それを私の頭に塗り、漆塗りのクシで髪をとかしていく。
その次に小雪さんが取り出したのは、濃い藍色の筒袖の上着。それを素肌の上から私に羽織らせてくれる。そして、腰から下には、裳という筒状の衣服を着せてくれた。色は白。ひだがついており、丈は足首まである。
「これは……身分の高い方しかできない服装ですよね?」
「奥方様は残月様の花嫁ですからね~」
私が度々忘れてしまう事実を小雪さんが丁寧に思い出させてくれた。
神の妻になると、こういう服も着ることになるのね。どうにも慣れないわ……。
……いいえ。慣れなくて正解なのかしら? まだ残月様が私を神域から追い出す可能性だってあるわけだし……。
そんな私の悩みなど吹き飛ばすくらい、小雪さんは陽気に振る舞っている。「髪も結っちゃいましょうね~」と言って、慣れた手つきで私の髪を低い位置で一つに束ね、深い赤色の紐で結ぶ。
そこに瑪瑙の勾玉がついた銀製のかんざしを何本か飾り、仕上げに真っ白なツツジを一輪挿した。
「最後は装飾品です!」
他人を着飾らせることが好きなのか、小雪さんはかなりの上機嫌だ。六角形の切り子玉を連ねた首飾りや、キラキラ光る透き通った腕輪を私の体につけていく。額には、半円の形をした金属製の冠を被せられた。
最後に、まるで天女の羽衣のような見た目の領巾という肩掛けをふんわりと着せられる。
「素敵……!」
着替えが終わった私の全身を上から下まで眺め回し、小雪さんがため息を吐く。
「奥方様は、磨けば瑠璃にも玻璃にもなるお方なのですね!」
「そんな大げさな……」
「あら! お疑いなら、ご自分の目で確かめてください!」
小雪さんが湯桶の中の湯を指差す。言われるままに、私はそこに自分の姿を映してみた。
「わあ……」
声にならない声を発して、私は棒立ちになった。
自分でこんなことを言うのは変かもしれないけれど、確かに素敵だ。
湯上がりで上気した肌はほのかに紅潮し、汚れもなく清潔そのもの。服装の効果なのか、どことなく高貴な姫君のような気品がある。
澄んだ茶褐色の瞳を彩るのは長いまつげ。その顔立ちは、皆がよく言うようにお姉様とそっくりだ。でも、私のほうがお姉様より痩せているためか、目が大きく見える。
さねかずらの汁のお陰で、これまで手入れをしたことがないとは思えないほど、髪もツヤツヤして、黒々と光り輝いていた。飾られた銀のかんざしやツツジの花が、その艶やかな黒さを引き立てている。
「私……こんなふうにもなれるのですね……」
水に映った不鮮明な姿ではあるものの、自分の中に眠っていた新たな一面を見た私は驚きを隠せない。
「本当はここに翡翠のかんざしを飾るんですけどねえ」
小雪さんが残念そうに、黒い絹のような私の髪に触った。
「これでも充分だと思いますが、まだ足りないのですか?」
「翡翠のかんざしは神域の住民にとって必須の品なんですよ。成人の儀でもらうものですから」
なるほど。だから侍女である小雪さんも翡翠のかんざしを挿していたのか。こんな上物を成人の証として身につけるなんて、神域には贅沢な習慣があるのね。
それに引き換え私は、名前といい、かんざしといい、皆が当然持っているものを何も所有していないなんて……。
そんなふうに気分が暗くなったのは一瞬のこと。華やかに装うと心の中まで明るくなるのか、「まあ、いいか」とすぐに気持ちを切り替えることができた。私って、こんなにお気楽な性格だったかしら?
「さあ、あとはお化粧をすれば完璧ですよ! 支度がすべて調ったら、残月様にも見せにいきましょうね。きっと奥方様の美しさに心を奪われて、丸一日離してもらえなくなりますよ! ……あっ!」
楽しげにしていた小雪さんの顔が曇る。
「いっけない! 私ってば、お化粧に使う紅を忘れていました! ちょっと取ってきますね!」
そう言うなり、小雪さんは建物のほうへ駆けていく。元気な人だわ。
小雪さんを待つ間、私は別人のようになった自分の姿をもう一度水鏡に映してみた。
今でさえ輝くばかりに華やかなのだ。これでお化粧までしたら、どこかの里のお姫様に間違えられるかもしれない。そう思うと、くすぐったいような気分になった。
我ながらバカみたいに浮かれている自覚がある。けれど、奴婢に混じって生きてきた私は、これまで一度もオシャレなどしたことがなかったのだ。
でも、私も年頃の娘である。美しく着飾ることに興味がないといえば嘘になってしまう。巫者の館の貴人たちがきらびやかに装うのを、陰から羨ましく眺めたことも一度や二度ではなかった。
その憧れがこんな形で叶うなんて! 私はもう一度チラリと水鏡を覗き込み、顔を綻ばせる。押さえようもなく心がウキウキと弾むのを感じずにはいられなかった。




