立波村脱出作戦(3/4)
「誰かそこにいるのか?」
背後から声をかけられた私は凍りついた。男性の奴婢が羨道の中を覗き込んでいる。
「お前……供物か? どうしてここに……」
言い訳を思いつくより早く、私は駆け出していた。奴婢が「おい、待て!」と駆け寄ってくる音がする。
「どこへ行こうとしているんだ!」
地面に敷き詰められた石の隙間につまずいた私は、あっという間に奴婢に捕まってしまった。「離してください!」ともがく。
「私は神域へ行くんです! 残月様と咲月様のところへ……!」
「神域だと? 何を寝ぼけたことを言っているんだ。お前は土蜘蛛様の供物だろう。村から出ることは許されん」
「私は残月様と咲月様の花嫁です!」
力いっぱい暴れたけれど、相手は男性だ。抵抗虚しく、私は羨道の外に引きずり出されてしまう。
霊力を使ってこの場を切り抜けようにも、両手をがっしりとつかまれているので、髪からかんざしを抜くことができなかった。
「逃亡は罪だぞ。土蜘蛛様に罰していただかなくては……」
奴婢は私を土蜘蛛のところへ引き立てようとしているらしかった。私は身を硬くする。
今土蜘蛛の前に連れていかれたら、もう一度名を奪われてまた記憶を消されてしまうだろう。それだけは絶対に避けなければならない。
墳丘を降りていく奴婢に、私は決死の覚悟で体当たりした。まさか、私にまだ抵抗する意思があるとは思わなかったのだろう。油断していた奴婢は体勢を崩し、私の腕をつかんだまま墳丘を転がっていく。
巻き添えを食らった私の体は水流に揉まれる木の葉のように激しく回転しながら、奴婢と一緒に地面を目指して転げ落ちていった。私が霊力で動かした大岩もこんな気分だったのだろうか。
「ううっ……」
私の捨て身の作戦はどうにか成功した。地面にたどり着く頃には、奴婢が私の手を離していたのだ。
ふらつきながらのっそりと起き上がった私は、急いで体を確認する。……良かった。少しすりむいたり、あちこちが痛んだりするけれど、動けないほどの怪我は負っていないみたいだわ。
奴婢がまだ起き上がれないでいる内に、私はふらふらする足にむち打ってもう一度横穴へ向かおうとした。
「どこへ行こうというのだ?」
先ほど奴婢に逃亡を発見された時よりも強い戦慄が私の体を駆け抜ける。いつの間にか、土蜘蛛がすぐ傍にいた。
「墳丘の辺りで騒ぎがあったと言われて来てみれば……。供物よ、お前の仕業か?」
勘が鋭い土蜘蛛は、騒動の原因が私にあると見抜いているらしい。私はジリジリと後ずさる。
「お前、名を取り戻したのか……?」
土蜘蛛が信じられなさそうに言った。
「奇妙なこともあったものだ。まさか自力で術を解く者がいるとは……」
静かな口調とは裏腹に、土蜘蛛が荒々しく飛びかかってきた。私は横に退き、髪からかんざしを引き抜く。
「結の名において命じる! 魔を払え!」
かんざしから清らかな風が吹き出した。
だが、その攻撃が当たっても、土蜘蛛はびくともしなかった。愕然となる私に対し、土蜘蛛は吠えるような笑い声を上げる。
「その程度の力で我を隠り世へ送り返そうと?」
土蜘蛛は口元についているハサミをカチカチと鳴らした。
「お前ごとき人間では、我の体には傷一つつけられんだろうよ。さあ、大人しくもう一度我のものになれ!」
土蜘蛛が吐いた糸を私は首を引っ込めて避ける。
「誰があなたの供物になんかなるものですか!」
私はなおも飛んでくる糸をどうにかかわしながら、土蜘蛛に背を向けて走り出した。かんざしをギュッと握りしめる。
「何とかしないと……」
けれど、私の霊力では土蜘蛛を倒せない。神域へ駆け込めば咲月様が撃退してくれるかもしれないけれど、土蜘蛛はそう簡単に私を逃がしはしないだろう。
もう一度神降ろしをして咲月様に事情を話し、村へ来てもらおうかしら?
でも、そんなことをしている時間はないわ!
後ろを振り返れば、土蜘蛛が私を追いかけてきているのが見えた。土蜘蛛から逃亡しながら神降ろしをするなどという芸当はとてもではないが無理だ。
だけど、土蜘蛛も言っていたじゃない! 自分は人間ごときには倒せない、と。つまり土蜘蛛を撃退するには、神のように霊力が強い者の手を借りないといけないということだろう。
……そう、神のように霊力が強い者。でも、それは神でなくともいい。
私はハッとなった。
そう、神でなくともいいんだわ。たとえば、土蜘蛛と同じ物の怪は? もしくは死人!
隠り世の住民である彼らなら、同じ世界出身の土蜘蛛に対抗することもできるんじゃないかしら?
問題は二つ。どうやって彼らを呼び寄せるかと、呼び寄せたところで協力してくれるか、だ。
といっても、呼び寄せる方法なら、一つだけ心当たりがあった。けれどこれは、あまり気が進まない手段である。
それに、やって来た死人や物の怪が私を助けてくれるかも分からなかった。
多分協力してくれないし、そのまま私が隠り世へ連れていかれることになる可能性が高いだろう。
でも、村から離れることができれば、少なくとも土蜘蛛からは逃げられる。隠り世へ行ったらもう一度神降ろしをして、残月様か咲月様に助けにきてくれるように頼むのはどうかしら?
……いや、やっぱりダメね。こんな作戦、面倒事を増やすことにしかならないもの……。
不意に、何かに腕を取られた。土蜘蛛の糸が体に巻きついている。私はそのまま土蜘蛛のほうに引き寄せられかけた。
……前言撤回! 迷っている暇はないわ! グズグズしていたら、取り返しがつかないことになってしまう!
私は土蜘蛛に向き直ってかんざしを構えた。
「魔を払え!」
「無駄だと言っているのが分からないのか!」
土蜘蛛は私が何をしたのか気づいていないようだった。破れかぶれになった供物が最後の悪あがきをしていると思ったのか、勝ち誇ったような声を上げる。
「さあ、もう一度我にお前の名を寄越すのだ……!」
早く来て、早く……!
徐々に近づいてくる土蜘蛛を見ながら、私は必死に祈る。
ふと、辺りが薄暗くなり始めた。晴れていた空が急に曇り始めたのだ。
それだけなら大したことではないが、土蜘蛛はピタリと動きを止め、上空に顔を向けた。肌が張りつめるような気配が辺りに立ちこめる。にわかに漂い始めたその異様な雰囲気に、私は怯えると同時に興奮を覚えた。
やったわ! 来てくれたのね!
上空に黒い穴が空いたかと思うと、そこから雲のような鳥の大群と、その鳥の背中に乗る武装した骸骨が出てきた。
「あ、あれは隠り世の……!?」
驚愕した土蜘蛛は、その場に縫いつけられたように固まっていた。その拍子に糸が解け、私は自由の身になる。
やがて私と土蜘蛛は、鳥と、その背中から降り立った死人たちに囲まれることになった。
「奥方様……。あなた様もしょうがない方だ」
死人の隊長らしい武人が呆れた声で言った。
「我々の国には、隠り世から連れ去られた者は追わないという決まりがあります。だというのにあなた様は、二度にわたって掟破りをして……。今度は隠り世から逃がしませんから、そのおつもりで」
「掟破りのことは大変申し訳なく思っています。ですが、事情があるのです。どうか話を聞いていただけませんか?」
「お話なら、隠り世でうかがいましょう。さあ、お前たち。奥方様を捕縛するんだ」
やはりダメだったか。元々望み薄な作戦だとは思っていたけれど……。
ところが、予想もしなかったことが起きる。武人の一人が土蜘蛛を指差し、動揺したような声を上げたのだ。
「た、隊長! あの者……手配書にあったお尋ね者ではありませんか!?」
「む……? そういえば見覚えがあるような……」
隊長は土蜘蛛をしげしげと眺める。その間、土蜘蛛は石にでもなったように動かなかった。
「……思い出したぞ! 神殺しと、度重なる神域の乗っ取り未遂……。こやつは重罪人だ!」
隊長が両手を打ち鳴らすと、やはりそうかと死人たちが騒ぎ出す。彼らの関心は、今やすっかり私から土蜘蛛へと移っていた。
それにしても、「度重なる神域の乗っ取り未遂」ですって?
神殺しは朱雀のことだろうけど……。土蜘蛛は残月様の神域以外も乗っ取ろうとした前科があるということ? なんて不敬なのかしら! 「重罪人」と言われるのも納得だわ。
それに、神に成り代わりたかったはずの土蜘蛛が、ただの人間の私を依り代にしようとしていた理由も分かった。
本来の姿をさらせば、こうして隠り世の住民に正体を悟られてしまう。それを防ぐためにはどんな相手でもいいから別の体の中に隠れ、自分が誰かを誤魔化す必要があったのだ。
「奥方様、我々と取引をいたしませんか?」
土蜘蛛から目を離さないように気をつけながら、隊長が言った。
「土蜘蛛を捕縛するお手伝いをしていただければ、あなた様の罪は水に流しましょう」
「掟破りを見逃してくださるのですか?」
私は驚いたけれど、隊長は平然と「もちろんです」と言った。
「土蜘蛛の犯した罪と比べれば、奥方様の掟破りなど子どものイタズラのようなもの。土蜘蛛は、我らの王の頭痛の種でもあるのです。奴を捕まえるのに奥方様が協力したとなれば、王もことのほかお喜びになるでしょう。ささやかな罪で咎めようとはなさらないはずです」
意外な展開だ。けれど、死人の申し出は願ってもないことである。私は翡翠のかんざしを構えた。
「分かりました。お手伝いいたします」
「あなた様は隠り世から抜け出した経験もある手練れ。頼もしい戦力ですな」
「……供物よ、何を勘違いしてるのだ」
包囲網が段々と狭まっていく中、ようやく動揺が収まったのか、土蜘蛛が腹立たしそうに呟く。
「お前は我が依り代だ! 狩られる側から狩る側に回ったと思い、いい気になるなよ!」
土蜘蛛が糸を吐く。とっさのことで避けそこなった私の腕に糸が絡みついた。しまったと思った時には、私は土蜘蛛に引き寄せられている。
土蜘蛛は私を盾にして、死人たちを牽制した。協力関係を結ぶという約束をした以上、私に攻撃を当てるわけにはいかないと思ったのだろう。死人たちは武器を構えたまま、悔しそうに歯を食いしばる。
「離して!」
私は糸から逃れようと身をよじった。
幸いにもかんざしを持つ手は自由だし、何とか霊力を使ってこの場を乗り切れないかしら? たとえば、私を捕らえている糸を燃やしてしまうとか。
こんな至近距離で火をおこしたらヤケドをしてしまうかもしれないけど、依り代にされて魂を食べられてしまうよりはずっとマシだ。
私はかんざしを糸に当てる。
「結の名において……」
「咲月の名において命じる! 断ち切れ!」
針のように鋭い声がしたかと思うと、私の体に巻きついていた糸がバラバラになって地面に落ちる。
何が起きたのか理解する前に、私は温かな腕に抱きしめられていた。
「ひとの花嫁にベタベタ触るな。この不届き者が」
私を腕に抱きながら、骨まで凍りつきそうなほどの冷たい目で土蜘蛛を睨みつけているのは残月様だった。すぐ隣には、かんざしを構えた咲月様もいる。
「おふたりとも……来てくださったのですね!」
夫の顔を見た私は、隠り世から死人の軍団が来た時以上の心強さを感じていた。このふたりがいるならきっと大丈夫だ。そう思えたのである。




