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名もなき供物の幸せな神隠し  作者: 三羽高明


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名前を忘れた者(1/3)

 沐浴場は、館の端のほうの区画にあった。


 木をくりぬいて作られた湯桶の大きさに私は目を見張る。形は真四角で、縦幅も横幅も私が腕をいっぱいに広げたよりずっと長い。


 神域には、こんなに大きな木が生えているのだろうか?


 湯桶には、すでになみなみと湯が入っていた。傍に立っているだけで暖かな空気が体を包むのが分かる。神域でもみそぎにはお湯を使うのね。うちの村だけかと思っていたわ。


 それはそうと、こんなに大量のお湯を作るのに、どれだけの焼き石を使ったのだろう。私のために奴婢たちの仕事を増やしてしまったのかと思うと、申し訳なくなってくる。


 けれど、湯の中を覗いた私は奇妙なことに気づいた。湯桶に石が入っていない。もしかして、焼き石を使っていないの? それなら、どうやってお湯を作ったのかしら?


 きっと、別のところでお湯を沸かして、それをこの湯桶に移し替えたのね。焼き石を使うより、そちらのほうが手間がかかると思うのだけれど……。


 こんなに大きな湯桶がいっぱいになるまでお湯を用意するのは、相当大変だったはずだわ。一体どれだけの奴婢を動員したのかしら? 


 残月様は、先ほど部屋にやって来た侍女に私の世話を任せ、去っていった。侍女は「もうすっかり仲良しさんですねえ」と笑う。


 仲良しさん? 私たち、傍目にはそう見えているの? 


「確かに、残月様は私のことを大切に思ってくれているようですね。けれど正直に言って、私は夫婦がどういうものかまだよく分かっていなくて……」


「きゃあ!」


 私が貫頭衣を脱ぐのを手伝ってくれていた侍女が小さく悲鳴を上げる。私は「どうしました!?」と首だけを背後に向けた。


「お……奥方様、これって……」


 侍女は私の背中を凝視している。し、しまった! 笞の跡が見つかってしまった……!


「べ、別に、何でもないんですよ、こんなの」


 私は慌てて湯に入り、傷跡を侍女の視線から隠した。


「最近は、跡が残るほど打たれることはぐっと少なくなりました。これは全部古傷です」


 無能だと思われないように、急いで言い訳した。侍女は青い顔をしている。


「奥方様……。前に暮らしていたところでは、一体どのような目に遭っていらしたのですか?」


「それは……ええと……普通の暮らしですよ。普通の奴婢のように暮らしていました」


 侍女の表情が曇る。


 やってしまった。どうやら残月様だけではなく、この侍女にまで、私が使えない小娘だとバレてしまったみたいだ。


「……お体、綺麗にしましょうね」


 気を使ってくれているのか、侍女が優しい声で語りかけてくる。彼女にそんな反応をさせてしまったことで、私の胸は少し痛んだ。


「お湯加減はいかがですか?」

「……ちょうどいいです」


 尋ねられて初めて、私は自分が肩まで湯に浸かっているということをはっきりと意識した。


 こんなにたっぷりの熱い湯に入るのは初めてだったので、その心地良さに驚く。つま先までポカポカと温まっていくようだ。


 今は春だからありがたさも半減しているが、これが冬なら天にも昇る心地だっただろう。


 あかぎれだらけの指先がじんじんと痛んだが、それを差し引いてもかなりいい気分だった。


「残月様の贈り物は、皆素敵なものばかりです」


 私は夢見心地で呟いた。侍女が「良かったですね」と嬉しそうに笑う。


「残月様も、奥方様から素敵な贈り物をもらって喜んでいますよ」

「私が贈り物を? 何もお渡ししていませんが……」

「そんなことないですよ! 奥方様の存在そのものが贈り物です!」

「私の……存在が……?」


 そんなふうに言われるなんて思っていなかったから、私は目を瞬かせた。


「そんな……。私など、大した価値もない人間ですのに……」


「だったら、価値のある人間になればいいんですよ! まずは、体をピッカピカに磨き上げましょうね~」


 侍女に促されるままに、私は湯桶から出る。傍に置いてあった木の腰かけに座った。


 侍女が私の頭や体に灰色の液体をかける。少しざらざらした感触。これって、植物を燃やした灰で作った灰汁(あく)? これを使って体や洗濯物を洗うと、汚れがしっかり取れるのよね。


 侍女が絹の布を使って、私の体をゴシゴシとこすり始める。大きめの灰の粒も混じっているから少し痛い。けれど、それが逆に気持ちよくて不思議な感覚だ。


 侍女がお湯をかけると、体や髪にへばりついていた汚れが面白いくらいに落ちていく。


 私って、こんなに汚かったのね……と呆れると同時に、綺麗になっていく体を見るのは楽しい気分だった。


「残月様、私が身綺麗にしていたら、喜んでくださるでしょうか?」


「もちろんですよ。でも、たとえ泥だらけだって、残月様は奥方様のことが大好きですよ。ずっと傍にいてほしいと感じているに決まっています」


「ずっと傍に……」


 ――放っておいたら消えてしまうのだ。


 そう言った時、残月様は苦しそうな顔をしていた。彼の中には、言いにくいことを語るのが申し訳ないと思う気持ちもあっただろう。けれど、それ以上に、私と死別することを嘆いていたのかもしれない。


 私はあと九日で死んでしまう。けれど、それは嫌だ。私はまだ生きていたい。


 残月様から話を聞いた時は、私の頭の中には純粋な生存本能しかなかった。


 けれど今は、かすかだけれどそこに別の想いも混じり始めている。残月様と過ごすために生き残りたい。そんなふうに感じる気持ちがどこからともなく湧いてきたのだ。


 今まで私をこんなにも必要としてくれた人は存在しなかった。私の生死を本気で心配してくれた人は誰もいなかったのである。


 誰かが私のことを本気で思ってくれている。そう考えるだけで、湯に浸かった時のように心の中がじんわりと温かくなるようだった。


 残月様の傍で生きていれば、この先もこんな感覚に包まれることが何度もあるのだろうか。


 だとするならば、ここで命を終わらせたくはない。


 この瞬間に、名前探しは私の中で最も重要な事柄になった。私は消えない。何があっても自分にぴったり合う名前を探し、この神域でこれからも生き続ける。


 そう固く誓ったのである。

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