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名もなき供物の幸せな神隠し  作者: 三羽高明


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名もなき供物は物の怪の贄(1/2) 

 パチ、パチ、パチ……。


 石で囲んだ炉の中で火の粉が()ぜ、灰色の雲で覆われた夕空にふわふわと舞って消えていく。


「あとどれくらいで、いっぱいになりそう?」


 水がめを頭に乗せた奴婢(どれい)に、たきぎを抱えた別の奴婢が尋ねる。水がめを持った奴婢は、その中身を船形の巨大な木製の湯桶に注ぎながら答えた。


「あと十往復くらいよ」


「そんな! 土蜘蛛様はもう起きてるのよ。すぐにでもお食事の用意をしなければならないのに!」


 奴婢はたきぎを落としそうなほど慌てている。


「供物、焼き石のほうはどうなってるのよ?」


 奴婢に話しかけられた私は、「まだです」と返事した。炉から、真っ赤に焼けた石を柄の長い(さじ)で取り出し、上から水をかけて灰を落とす。そして、水の張られた大きな湯桶の中に沈めた。じゅっという音がする。


 奴婢が湯桶の水に手を浸した。


「ぬるいわねえ」

「しっかりしてよ、供物!」


 奴婢が私を叱る。


 湯桶は寝そべった私の背丈よりも長く、そこには大量の水が溜められている。その水に焼けた石を放り込んで湯にするのは、途方もなく時間がかかる作業だった。


 そのことは奴婢も分かっている。私を叱責したのは、仕事が思うように進まないことに対するただの腹いせだ。


 そうと分かってはいたけれど、私は素直に「申し訳ありません」と謝った。


「ちょっと! まだ準備が終わってないの!?」


 まるで私が叱られる瞬間を見計らったように、沐浴場に虚ろな目の村人たちを連れた奴婢が現われた。


「仕方がないでしょう! 供物がノロマなのがいけないのよ」

「お陰でまだお湯がぬるくて……」

「ぬるま湯だって構いやしないわよ。汚れが落ちればいいんだから」


 村人たちはすでに服を脱ぎ始めている。裸になり、次々と湯桶に入っていく村人の体を奴婢がゴシゴシと乱暴にこすり始めた。


「あんたたちはいいわよねえ。土蜘蛛様の生け贄になるんだから」

「あたしも早く食べていただきたいわ!」

「無理よ! あんたみたいな小汚いのは後回しにされるに決まってるわ!」


 奴婢は何かに取り憑かれたような表情で、キャッキャと騒いでいる。


 小汚い、とは言っても、私には奴婢と村人の姿はそんなに変わらないように見える。もちろん、私も同様だ。すり切れた麻の貫頭衣と土ぼこりで汚れた体。肩より少し長いくらいの髪もボサボサだ。


「喋ってないで、手を動かしなさい」


 村人を連れてきた奴婢が腰に手を当てる。


「生け贄の儀式に不手際でもあって、土蜘蛛様の怒りを買ったらどうしてくれるの! この立波村が滅ぼされてもいいってわけ? 焼き石はこれ以上いらないから、供物も贄の体を洗うのを手伝いなさいよ」


「その必要はないわ。もう終わったから」


 汚れが落ちた村人たちが、湯桶から出る。彼らは乾いた布で体を拭き、洗濯したての貫頭衣を身につけた。


「じゃあ供物、今日はあんたがこいつらを土蜘蛛様のところへ連れていきなさい」

「はい」


 私は村人たちの先頭に立って歩く。引率が一人で充分なのは、村人が決して逃げださないと分かっているからだ。この村に生きる者にとって、土蜘蛛様の生け贄になることは最高の名誉なのである。


「失礼いたします」


 巫者(ふしゃ)の館にある一番大きな高床の建物の入り口で、私は立ち止まった。一言声をかけてから、すだれを手で押し上げて中に入る。


 室内は広いが、調度類は置かれていない。その代わりとでもいうように、床や天井や壁にはべっとりと血の跡がついていた。


「生け贄を連れてきました」

「よし、通せ」


 部屋の奥の暗がりから声がした。そこには骨の体を持つ巨大な蜘蛛がいる。


 外で待っていた村人たちに、私は入室の指示を与えた。彼らは抵抗することなく言われたとおりにする。


「失礼いたします」


 私は土蜘蛛様に一礼して部屋を出た。野外に続く階段をまだ降りきらない内に、背後から骨が砕け、肉が裂ける音が聞こえてくる。


 私は顔をしかめて、その場から足早に立ち去った。この音は大嫌いだ。もっとも、この村でそんなふうに思う変わり者は私だけなのだけれど。


 本当はまだ仕事が残っていたが、憂鬱な気分になってしまった私は、村はずれの小さな丘に足を向ける。


 草原にごろんと横になり、小さくため息を吐いた。


 私が住む立波村の伝統。それは、村人たちは村の守護者の物の怪、土蜘蛛様の生け贄に、巫者の一族の娘は土蜘蛛様の供物になるというものだった。


 供物と生け贄は似て非なるものだ。生け贄はただ食べられて終わりだが、供物は土蜘蛛様の依り代となることができるのである。


 今、その供物の大役を仰せつかっているのはこの私だった。


 ――素晴らしいお役目ねえ!


 皆はそう言って羨ましがった。


 でも、私は複雑な気分だ。私が土蜘蛛様の供物になる? それは本当に素敵なことなの?


 私は雲に覆われた空を見上げて呟く。


「今日は月……見えないのね」


 いつからだろう。暇さえあれば空を見上げて月を探すようになったのは。


 月を見ていると、なぜか心が安らぐのだ。この村とは違う別の世界にでもいるような気持ちになるのである。


 おかしなことだ。生まれた時からずっと土蜘蛛様の供物になる運命だった私は、立波村の外に出たことなんて一度もないのに。


 私が依り代になる時はすぐそこまで迫っている。今日、土蜘蛛様に生け贄として差し出したのは、村に残っている最後の村人だった。土蜘蛛様は、次回からは奴婢を食べるだろう。


 そうしてすべての奴婢をお腹の中に収めてしまったあとは、いよいよ私の番だ。私は体の代わりに魂を食べられ、土蜘蛛様の依り代になる。


 つまり、あと二、三日の内に私は私でなくなってしまうということである。


「そんなの、どこが素晴らしい役目なのかしら」


 そんなふうに思う私はどこかがおかしいのだろう。けれど、私はこの気持ちが間違いであるとはどうしても認めたくなかった。


 ガッ、ガッ、ガッ……。


 重いものを壊す音が聞こえてくる。土蜘蛛様の命令を受けた奴婢たちが、この丘の近くにある墳丘を破壊しているのだ。


 墳頂を飾るはにわは壊され、土が削られていく。羨道に繋がる入り口の横穴は、大岩で塞がれていた。


 やめて! その墳丘を壊さないで!


 私は心の中でそう訴えた。でも、声に出しはしない。土蜘蛛様の命令には逆らえないからだ。


 それにしても、どうして私はあの墳丘を守りたいと思っているのだろう。あの場所に特別な思い入れなんてないはずなのに。


 分からない、分からない、何も分からない。


 私は自分のことを何も理解できていない気がする。見えない月を見つめて、「助けてください」と頼んでみた。


「あなたは知っているのでしょう? 私の本当の居場所はどこにあるのですか?」


 私は唇を噛む。どうしてそんなふうに思ったのかすら、まったく分からなかった。


 当然、私の疑問に答える声はない。辺りに響くのは、奴婢が木槌を振り下ろす音だけだ。


 それからもしばらく月を探したあと、辺りが薄暗くなり始めたため、私は重い腰を上げて村に戻ることにした。

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