身中の虫(3/3)
「な、何なのよぉ! この化け物はっ!」
お姉様は真っ青になりながらその場で腰を抜かしていた。恐ろしさのあまり涙を浮かべている。
「足りない……、血が足りない……」
蜘蛛は低い声で呟いた。まるで地の底から聞こえてくるようなおぞましい低音だ。お姉様が「ひぃぃ!」と竦み上がって、両手で頭を庇うような姿勢を取る。
「寄越せ……。生け贄を……!」
蜘蛛は近くの檻に飛び乗った。その檻は村人を十人以上入れてもまだ余裕があるくらいの大きさなのに、天井がすっぽりと蜘蛛の腹の下におさまってしまう。
「な、何だ、こいつは!?」
「明日香! どうなってるんだ!」
村人は全身が骨でできた蜘蛛の異様な姿にすっかり恐れをなしていた。加えて、自分たちがこれから危険な目に遭うのだということにも気づいており、血の気の引いた顔で叫んでいる。
蜘蛛は檻の天井に頭突きした。たった一撃で、天井板は真っ二つになる。針のような形の長い脚を器用に使い、蜘蛛は檻の中にいた村人を一人捕まえた。よく見れば、それは立波村の首長ではないか。
「い、嫌だ!」
村にいた時はとても威厳があるように感じられた首長は、土蜘蛛と並ぶと、なんともちっぽけに見えた。駄々をこねる子どものように喚き散らし、死にかけている虫を思わせる動きで手足をバタバタと振り回す。
「助けてくれ! たすけ……」
蜘蛛に頭を噛み砕かれ、首長はそれ以上言葉を発することができなかった。
蜘蛛は首長の体の残りの部分も、あっという間にバリバリと食べてしまう。
「どうしてよ!」
お姉様は喉が張り裂けそうな声で叫んだ。
「どうしてこんなことを……。あたしたちを守ってくれるんじゃなかったの!?」
お姉様が抗議する間にも、蜘蛛の食事は続く。村人は悲鳴を上げて必死に蜘蛛から遠ざかろうとするけれど、檻の中にいてはどこかへ逃げることもできない。一人、また一人と蜘蛛に捕らえられ、餌食になっていった。
「ねえ、どうしてなのよ! あんたは神様でしょう!?」
「……違いますよ、お姉様」
私は薄ら寒い心地で呟いた。あの骨でできた体は前に見たことがある。
「あれは神ではありません。あのものは隠り世の民。物の怪です」
「いかにもそのとおり」
食事を終えた蜘蛛が檻から飛び出してきた。口元のハサミから、まだ温かい村人の血が滴っている。
「我は土蜘蛛。死者の国より参ったもの」
土蜘蛛は不気味な声で笑った。
「今の我はただの物の怪だ。だが、神域の主として君臨すれば神にもなれよう。そのためには、まだまだ生け贄が必要だ」
土蜘蛛がこちらに飛びかかってきた。逃げるのが遅れた私は、一瞬の内に死を覚悟する。
だが、土蜘蛛が目をつけたのは私ではなかった。お姉様の腹部を土蜘蛛の脚の先端が貫いている。
お姉様は何が起きているのか分からないような顔で、自分の腹に刺さった太い脚に触れた。
「何なのよ、これ……」
お姉様の口から血が溢れ出た。巫女の服が段々と赤く染まっていく。
「放しなさい、汚らわしい……! あたしは巫女なのよ! あんたみたいな化け物なんかが気安く触れていい相手じゃないんだから……!」
普通の人間ならまともに動けなくなるような重症を負っているのに、お姉様は手にした儀仗で土蜘蛛の脚を強く叩いて抵抗していた。無意識の内に霊力を使って、痛みを和らげているのだろうか。
「うるさい娘だ」
土蜘蛛は呆れたように言って、脚に刺さったお姉様を、まるで串刺しの焼き鳥を食べるように一口で頭から捕食してしまった。
お姉様の悲鳴が途切れ、骨が砕ける音がする。なんとあっけない最期だろう。あまりにも唐突に訪れた姉の死に、私は動揺する暇もない。
土蜘蛛が脚についたお姉様の血をすする。
「だが、味は上々。巫者の肉は美味いものだ。……おや、お前からも馳走の匂いがするな」
土蜘蛛が私に迫ってきた。
逃げなければ、エサにされてしまう……!
そうと分かっているのに、私の足は台座に固定された円筒はにわのように固まっている。
お願い、動いて……! このままだと死んでしまう! お願い、お願いだから……!
けれど、私の祈りは通じない。土蜘蛛がこちらに脚を伸ばす。
だが、その動きが途中で止まった。
「いや、お前は新しい依り代にしよう」
「よ、依り代……?」
緊張状態から一気に解放されて、私は気の抜けた声を出す。助かったの……?
「前の依り代は、あの荒くれに首を落とされてしまったからな。もう使えん。我には新しい体が必要だ」
前の依り代とは、朱雀のことだろう。ほかの生き物の肉体を乗っ取って意のままに操る。土蜘蛛にはそういう能力があるということだろうか。
では、私を新しい依り代にするというのは、私の体を奪うということ……?
「強い霊力を持ち、巫者の血を引くお前は我の依り代に相応しい。本来は神の体が欲しいところだが……この際、贅沢は言うまい」
土蜘蛛は糸を吐いた。私はその糸に一瞬にして絡め取られてしまう。
「や、やめて……!」
私はジタバタともがいた。やっと足が動くようになったけれど、これでは逃げることもできない。
土蜘蛛が糸をたぐり寄せる。私はどうすることもできず地面を引きずられていった。
「嫌っ! 私は依り代になんかならない! 離して……!」
「安心しろ。すぐに手を出すつもりはない」
土蜘蛛の顔が間近に迫る。その頭蓋骨にはところどころ穴が空いていた。人間でいうところの目にあたる部分だろうか。
「なにせ、今の我は弱っているのでな。体を休め、生け贄を山ほど平らげ、さらに力を蓄えねば、依り代を作る儀式は行えん」
「儀式……?」
「お前の魂を食らうのだ。そして、その体をいただく」
「バカなことを言わないで!」
ぞっとなった私は大声を上げた。
「あなたには私の魂も体もあげないわ! 早く離して!」
「この期に及んでもまだ悪あがきをするのか。だが、無駄だ」
土蜘蛛には目がないはずなのに、視線が絡んだ気がした。物の怪は低い声で囁く。
「お前の名を教えろ」
「……!」
私の体が金縛りに遭ったように固まる。どんなに必死に動かそうとしても指一本すら思いどおりにならない。
そんな中、口だけが意思に反して勝手に開き始めた。
「私の……名前は……」
ダメ! 教えてはダメ!
土蜘蛛は私の名を奪おうとしているのだと直感した。名を奪われたら、相手の操り人形も同然になってしまう。私を生かすも殺すも土蜘蛛次第。もちろん、依り代にするのだって思いのままだ。
「名前は……」
この口、閉じなさい!
私は意思の力を総動員して土蜘蛛の術に対抗しようとした。体が自由に動くなら、舌を噛み切っていたかもしれない。こんな化け物に体を明け渡すくらいなら、自死したほうがマシだ。
「さすがに粘るな」
土蜘蛛は少し感心したように言った。
「だが、何をしても無意味だ。我は神ではないとはいえ、人知を超えた存在。たった一人のひ弱な人間ごときが、逆らい続けられる相手ではないのだ。さあ、名を教えろ……!」
頭がグラグラする。閉じかけていた口が開いていった。
ああ……もう終わりだわ……。
「む……す……び……」
喉の奥からかすれた声が出た。土蜘蛛が勝ち誇ったように笑う。
「結。お前の名、確かにいただいたぞ」
土蜘蛛が私を糸から解き放った。
やっと自由になれた。
それなのに、ちっとも嬉しくない。
それどころか何も感じなかった。立つことを忘れてしまったように、私はその場に倒れる。指の先から、ゆっくりと体温がなくなっていく感覚がした。私を形作っていたものが一つ一つ記憶から欠落していく。
土蜘蛛が残りの檻の中にいた村人たちを襲い始めた。けれど、私はどうとも思わない。瞳は辺りの景色を映しているけれど、その光景が何を意味するのか、聞こえてくる音が何を示しているのか、まるで分からなかった。
「た、大変だ! 物の怪がいるぞ!」
「あそこに倒れているのは奥方様じゃないか!?」
奥方様? それって何? どうして皆、あんなに騒いでいるの?
「誰か! 残月様と咲月様を呼んでこい!」
残月様? 咲月様?
どうしてかしら……。その言葉は知っている気がするわ。
確か、誰かの名前だった。私のとても大切な方の名前だった気が……。
けれど、それ以上のことは何も思い出せない内に、私の視界は暗転した。




