神の花嫁(3/3)
「私からすれば、お前が奴婢と同類ということのほうがおかしく思えるのだが」
私の困惑を読み取ったのか、残月様が首を傾げる。
「一体何があった。立波村は神の花嫁でさえ、奴婢に混じって立ち働かなければならないほど困窮しているわけではないだろう? 服は粗末だし、手もこんなに荒れてしまって……」
残月様は私のささくれだった指先に気の毒そうに触れる。労りの気持ちが伝わってきて、胸の奥がじんと痺れた。
「村は豊かなところでしたよ。けれど、村内での供物の地位は決して高くはなかったのです」
私は村での暮らしを思い浮かべる。
「私は巫者の館で働いていました。毎朝、日の出前後に起きてみそぎのための湯を用意して、手が空けば田や畑の手伝い。ほかにも、料理をしたり、儀式の準備を手伝ったり、洗濯や掃除をしたり……。様々なお仕事をしていました」
「まるで下働きの雑用係だな。どうりでそんな格好をしていたわけだ」
「下働きよりもっと立場は下です。供物は奴婢と同格。人ではなく物なのです。物だから多少壊れても構わないということで、笞で打たれることも珍しくありませんでした」
「笞だって?」
残月様の声が気色ばむ。
「まさか、お前も……?」
「……はい」
恥ずかしくなり、私は束の間目を伏せる。
笞で打たれるということは、仕事をまともにこなせなかったということ。つまり、無能の証だ。私の背中には、そんな「無能の証」の跡がたくさん残っていた。
「なんということだ……」
残月様は絶句してしまった。ひょっとして、私が仕事のできないグズでノロマな娘だと分かって、呆れているのだろうか。そう思うと、なんだか惨めな気分になってくる。
「申し訳ありません。この神域では、今まで以上にしっかり働きますから……」
「だから雑用などしなくていいと言っている」
残月様は眉をひそめた。「仕置きがいるか」と呟く声が聞こえてきた。
ああ、ダメだわ。完全に私に失望していらっしゃる。握られた手にも力がこもっていた。この神域では、罰を与える時は笞打ちではなく手の骨を砕いたりするのだろうか。
背筋が冷たくなるのを感じていると、「それはそうと……」と残月様が話題を変えた。良かった。骨を折るのは思いとどまってくださったみたいだ。なんて心の広い方なのだろう。
「お前は名がないのだな。それはこの神域においては大問題だ」
「なぜでしょう?」
「ここが現し世と隠り世……つまり、あの世とこの世の境にある場所だからだ」
「現し世と隠り世の境……? それは、普通の場所とは違うという意味でしょうか?」
「そのとおりだ。お前は聡明だな」
残月様が空いている手で私の頭を撫でる。聡明などと言われたのは初めてだったので、私は心底驚いた。
……いいえ、そんなことを考えている場合ではない。私の髪なんか触ったら、残月様の玉のような手が汚れてしまう! 私は急いで体をのけぞらせた。すると、残月様は少し不満そうな顔になる。
「神域では、名前がない生き物は存在を保てないのだ」
残月様が話を戻した。
「名前とは、隠り世との境界線のようなもの。名がないのは、境界がないも同じ。存在が不安定になって、放っておいたら消えてしまうのだ」
「……十日後に?」
私はずっと引っかかっていた昨日の残月様の発言を思い出す。
――あと十日で体が消えてしまうぞ。
あれは、神域は名なしが住める場所ではないということだったの?
「そうだな。……もう一日過ぎているから、九日後かもしれないが」
「……消えるということは、死ぬと同義ですよね?」
私は恐々尋ねた。残月様は心苦しそうな表情で首を縦に振る。
「今のお前は、気力だけでこの世界に留まっているようなものだ。まだ消えたくないという強い気持ちが、お前を生かしている。だが、気力だけではいつまでも生きられない」
「私は長くは持たない。私の命はあと九日……」
元々神域に行けば死ぬと思っていたのだ。それが九日も生きられるなんて、とても幸運だわ!
そんなふうに喜べるほど、私は楽観的ではない。一度命拾いしたら、もっと長生きしたいと願ってしまうのが普通だろう。もちろん、私もそういう普通の人間の一人である。
「私……死にたくありません。どうすれば生き延びられるのでしょうか?」
「自分に名をつけるしかないな」
「それだけでいいのですか?」
案外簡単に死を回避できると分かり、拍子抜けしてしまう。だが、残月様の表情は深刻だ。
「どんな名前でもいいというわけではないのだぞ? 名は大切なものだ。適当につけるべきではない」
「そうなのですか……」
楽勝と思っていただけに、私は途方に暮れて目を泳がせた。
「ですが、自分に合う名前など、そう簡単に見つかるものでしょうか?」
「難しいからこそ価値あるものになるのだ。心配せずとも、まだ時間はある。九日は短いようで長いぞ。じっくり考えてみるといい」
「はあ……」
「だが、名なしのままだと呼びづらいな。……よし、仮の名をお前に与えよう。『まれびと』だ」
「まれびと……」
まさに仮の名前に相応しい言葉だ。「まれびと」というのは、客人のことである。「供物」以外に初めて呼び名をもらったけれど、どうもしっくりこない。「適当につけたものではいけない」と残月様が言った意味が少し分かった気がする。
「名前がなければ、私は正式にお前を妻として娶ることもできない。婚礼の後は、まれびとが自分の名を見つけたあとだな」
残月様が私の手の甲を、指で親しげにトントンと叩く。
「まずは湯を使い、身なりを整えてこい。正式ではないとはいえ、お前は私の妻だ。いつまでもそんな格好でいさせるわけにはいかない」
残月様が立ち上がった。その服に私の貫頭衣の汚れがついているのに気づいて、私は言うとおりにしようと決める。
残月様が私に部屋を出るように促した。どうやら話は終わりらしい。
けれど、私には一つだけ気になることがあった。
「あの……どうして先ほどは手を握っていたのでしょうか?」
初めの内は、話の内容に何か関係しているのだろうかと思っていたのだが、終わってみればそんなことはなかった。では、残月様が私と手を繋いだ目的は一体何だったのだろう?
そんなふうに思いながら尋ねたのだが、残月様は意外そうな顔をする。
「そんなもの、お前に触れたかったからに決まっているだろう」
残月様が私の肩に手を回す。服が汚れてしまうことなど、少しも気にしていないらしい。
夫婦って、こういうものなの?
これまで夫どころか、恋人すらいなかった私にはよく分からなかった。
けれど、こうして残月様と触れ合うことは、嫌いではないかもしれない。
……神域って、なかなか悪くないところね。




