雲隠れ(1/2)
「これは……コウモリ!?」
だが、どう見ても普通のコウモリではない。その翼は骨でできていて、ギャッギャッと気味の悪い声で鳴いている。恐ろしくなって、私は残月様に縋りついた。
「隠り世に住む物の怪め! この神域に何の用だ!」
残月様が私を胸に抱きかかえて庇いながら、コウモリに向かって非難の声を上げる。
「お前たちは今、神域の主とその花嫁の前にいるのだぞ! 礼儀をわきまえろ!」
「無論、礼節は尽くしますとも」
コウモリの中でもひときわ巨大な一匹が、船の上に降りたった。もしかすると、この集団を率いている長かもしれない。背丈は残月様より大きく、体はすべて骨でできている。
このコウモリの長は人の言葉を話せるようだが、その声は聞いているだけで鳥肌が立つような恐ろしい響きをしていた。
「何が礼節だ。神域に攻め込んでくるなど、非常識にもほどがあるだろう。事と次第によっては、隠り世の王に直訴してもよいのだぞ」
残月様が腹立たしげに吐き捨てる。コウモリの長は巨大な首を傾げた。
「はてはて……。確かに地上でも何か諍いが起きているようですが、それはこちらとは関わりのないこと。我々を責められても困ります」
「何だと……?」
残月様だけでなく、私も呆気に取られた。
コウモリの言葉で、やはり地上では何か騒動が起きているらしいと分かったけれど、てっきり隠り世の住民が、地上と空の両方から神域に攻め込んできたのかと思っていたのだ。
では、地上にいる敵は誰なの? そもそも、このコウモリたちは何をしに来たのかしら?
頭の中が疑問で溢れかえる。そんな私に対し、コウモリの長は礼儀正しく一礼した。
「お約束どおり、お迎えに上がりました。隠り世の王の御殿にて、奥方様を歓迎する宴の用意も整ってございます」
「待て。一体何の話をしている?」
残月様が私のほうを見る。けれど、身に覚えがなかったので、きょとんとするほかない。
「おやおや……これは何かの手違いがあったようですねえ」
コウモリの長は翼の先で顎の下を掻いた。
「ですが、これも我が君の命令ですので。どうかご理解ください」
コウモリたちの包囲網が狭まる。私は残月様の腕の中で竦み上がった。
「理由は何だ?」
残月様が私を抱きかかえ、辺りに油断なく目を走らせながらコウモリの長に尋ねる。
「いくら隠り世の王といえど、生者を死の国へ勝手に連行する権利はないはずだろう」
「理由ならございます。あなた様の花嫁は、掟を破ったのです」
「掟だって?」
残月様が意外そうに繰り返す。緊張状態に耐えられなくなった私は、つい大声を出した。
「私、そんなの知りません!」
私は残月様の腕の中でコウモリの長に抗議した。
「掟なんて言われても何のことか分かりませんし、隠り世にも行きません! だから帰ってください!」
「物の怪よ、お前が問題にしているのは遠見のことか? それならば掟の適用外のはずだ」
残月様も私の味方をする。
「まれびとは霊力を制御できていない。遠見はまれびとの意思に関係なく、勝手に発動するのだ。そういった場合は、掟の適用範囲外だろう」
「もちろんですとも。ですので、今回は遠見の件ではありませんよ」
コウモリの長は首を横に振った。
「奥方様、よく考えてみてください。あなた様は名を用いずに霊力を使用したことがおありなのではありませんか?」
「そんなこと……」
反論しかけて固まった。昨日のことを思い出したのだ。
――水よ、湯に変われ。
私は沐浴場の湯桶の水を湯に変えようとした。その際、名前を使わずに霊力を使用したのだ。
「わ、私、知らなかったんです!」
私はうろたえながら弁解した。
「掟のことを聞いたのはもっとあとになってからだったし、それに、その時はまだ自分の名前も見つけていなくて……!」
「それに、まれびとが名を用いずに霊力を使ったとしても問題ないだろう」
残月様が私を擁護する。
「まれびとは現し世の人間だ。神域の掟は適用されない」
「これはおかしなことを」
コウモリの長は苦笑した。
「ご自分の奥方様を神域の民ではないとおっしゃるのですか。もしや、離縁でもして彼女を現し世へ帰すおつもりで?」
「それは……」
「まあ、そのようなことをしても無駄なのですが。さあ、大人しく奥方様を引き渡していただきましょう」
コウモリの大群が襲いかかってくる。残月様がとっさに私の上に覆い被さった。
「残月様……!」
コウモリの攻撃を一身に受ける夫の苦しそうな顔を見て、私は悲鳴のような声を上げる。残月様は「大丈夫だ」とかすれた声で言った。
その時、ボキリと音がして、重たいものが船の床に落ちた。残月様の体の隙間から覗いてみると、それたコウモリの攻撃が当たったのか、日傘の支柱が折れて、横倒しになっている。
「こっちだ!」
残月様は私の手を引き、船の床に落ちた日傘の後ろに回り込んだ。前方は傘、後方は船縁で守られるように、支柱を引き寄せる。
けれど、日傘の耐久力では長くは持ちそうにない。異形のコウモリたちが体当たりを仕掛けるたび、粘土でできた傘布はひび割れ、小さな穴が空いていく。このままでは、すぐに突破されてしまうだろう。
「あのコウモリたち、霊力で追い払えませんか?」
私は表情に焦りをにじませる残月様に提案した。
「荒魂様は、死人や物の怪を霊力で隠り世へ追い返していましたよ」
「私は戦う術を持っていないのだ」
残月様が悔しそうに言った。
「だから、戦闘以外でこの場を切り抜ける方法を考えなければ……」
残月様の頭は目まぐるしく回転しているようだった。私は彼の思考の邪魔しないように黙っていることにする。
その間にもコウモリたちが空けた穴はどんどん大きくなっていった。
残月様が口を開いたのは、これ以上穴が広がれば、ここも安全でなくなってしまうのでは、と私が不安を感じ始めた頃だった。
「私がお前の身代わりになろう」
「身代わり……?」
何を言われたのかすぐには分からなかった。私は目を瞬かせる。
「私が霊力でお前に成り代わるのだ。……こんなふうに」
残月様が翡翠のかんざしを口元に当てて、「残月の名において命じる。まれびとの姿を映せ」と唱えた。すると、残月様の見た目が私そっくりになる。
まるで水鏡を見ているようだ。呆気に取られた私は、口をポカンと開けてしまった。
「これなら奴らも気づかないだろう」
残月様が自分の顔を触りながら言った。そのまま日傘の後ろから出ていこうとする。
私はそんな夫を慌てて押しとどめた。
「待ってください! 残月様は私の代わりに隠り世へ行こうとしているのですよね!? それはつまり、私の代わりに死ぬということでは……」
「妻を守るのは夫の役目だ」
残月様は頑なな口調で言い切った。けれど、私も譲らない。
「そんなことはさせられません。残月様を隠り世へ送るなんて! もとはといえば私が悪いのに……。ですから、責めは私が負います」
「お前は何も知らなかったのだ。責任はまれびとに掟のことを伝えておかなかった私にある」
「ですが……」
「分かってくれ、まれびと」
私たちは一歩も譲らなかった。コウモリの空けた穴はさらに大きくなり、今では外の様子がチラチラと見えるまでになっている。
このまま穴が大きくなれば、日傘の後ろに私が二人いることがコウモリにも分かる。そうしたら、残月様の入れ替わり作戦に彼らが気づいて阻止してくれるかもしれない。
……よし、この手でいこう。そのためには、時を稼がないと!
しかし、残月様も私と同じことを考えていたようだった。翡翠のかんざしを私の額に当てる。
「残月の名において命じる。しばし石になれ」
残月様が申し訳なさそうに言った途端に、私の体は動かなくなった。
「すまないな、まれびと」
体に力が入らなくなり、立っていられなくなった私を残月様が抱き留めた。私は船の床にそっと寝かされる。
「まさかこんな形で別れることになるとは思わなかったが……私はどこへ行ってもお前を想っているからな」
残月様が私の髪を撫でた。
「愛してる」
残月様が私の唇に接吻した。
その口づけがあまりにも儚くて淡雪が溶けるように一瞬で終わってしまったから、私の胸は張り裂けそうになる。
待ってください! 行かないで!
そう叫びたかったのに声が出ない。残月様はかんざしを船に当てて何事かを呟いたあと、日傘の裏から出ていった。
「お前たちの要求に従おう。どこへなりとも連れていくがいい」
私はそんなに威厳のある話し方はしないわ! お願い、気づいて! その方はあなたたちが引き渡せと迫った神の花嫁ではなく、残月様なのよ!
私は心の中でそう訴えた。けれど、その声はコウモリたちには届かない。
「では、失礼いたします」
コウモリの長が私に扮した残月様を大きな足でつかみ、巨大な翼を広げる。
「皆の者、帰還するぞ」
長に率いられ、コウモリたちが残月様を連れて船の上から引き上げていく。
私は小さくなっていく一行を日傘の穴から、なすすべもなく見ているしかなかった。
残月様は行ってしまった。遠いところへ。恐るべき隠り世へ。生者を死者に変える場所へ。
私たちは死に別れてしまったのだ。




