月の船で天の海へ(2/2)
私が見たのは、かつての夢の続きだった。崖の上で幼い私は四肢を投げ出して荒い息をしている。その胴体にはツルが巻きついていた。
確かこの時の私は、お姉様に突き飛ばされて崖下に落ちそうになっていたのよね。でも、あのツルを縄の代わりにして何とか這い上がってきたんだわ。
『はあ……はあ……』
幼い私は肩を大きく上下させながら、体に巻きつけたツルを解こうとする。けれど、手が震えて上手くできない。
『あなた、どうしても私から離れたくないのね』
ついに私は諦め、どこか愛おしそうにツルを撫でた。
『そうね。あなたは私の命を助けてくれたんだもの。あなたがいたお陰で、私は斜面の下に落ちないで済んだ。あなたが私を生かしてくれたのよ』
崖から落ちたら最悪の場合、死んでいたかもしれないのだ。そう感じてもおかしくはないだろう。
『じゃあ、今回だけじゃなくて、これからも私をこの世界に繋ぎ止めてくれる?』
幼い私の茶褐色の瞳に、うっすらと涙が溜まり始める。お姉様に「名なしはこの世界のどこにもいられない」と言われた時のことを思い出しているのだろう。
私はふらつきながら立ち上がった。その拍子に、あれだけ固く結ばれていたはずのツルが胴体から滑り落ちる。
私の顔が愕然としたものに変わったけれど、それは一瞬のこと。少女は何かに気づいたような表情になった。
『そうか……。あなたじゃないものね。私をこの世界に繋いでくれるのは「名前」なんだわ』
私はツルを手に取った。酷使され、すっかりボロボロになったその表面を、荒れ果てた小さな指で辿る。
『お姉様は私に名前をくれなかった。だったら私が自分で名前をつける。私は……私の名前は……』
手の動きが止まった。小さな指の下には、ツルを体に巻きつけた時に作った結び目がある。
『結』
幼い私はそよ風のようにささやかな声でそう言った。
『私の名前は結。この名前で私を世界に結びつけてほしいから、結……』
少女はぱっと顔を上げた。そして、空に向かってケラケラと笑いこける。
『あはは、変なの! 結だって! もっと違った名前でもいいはずなのに「結」だって!』
あははは、あはははは、と私は高い声を上げ続ける。
ひとしきり笑いが収まったあと、私の表情は穏やかになっていた。
『でも、今は「結」でいいよ。これが今の私の名前。私は結。私は結……』
そう繰り返しながら、少女は山を下って村へ帰っていった――。
「まれびと! しっかりしろ!」
肩を揺さぶられる感覚がして、意識が体に戻ってくる。目を開けると、残月様の顔が近くにあった。
「良かった、気がついたか」
私と目が合うと、残月様の表情から険しさが抜けた。
「いきなり気を失ったから、何事かと思ったぞ。船酔いでもしたのか? ほら、風に当たるといい」
残月様が私を船縁へ連れていく。「いえ、酔ったわけではないのですが……」と言いつつも、私は船の縁に寄りかかった。
興奮で火照った体に夜風が気持ちいい。私は遠見で見たものを思い返していた。
――この名前で私を世界に結びつけてほしいから、結……。
どうして忘れていたのだろう。私は昔、自分で自分の名前をつけていたんだ。
つまり、私は名なしのまれびとなんかじゃなかった。私の本当の名前は……。
「……あら?」
何かが聞こえた気がして、私は耳をそばだてる。どこか遠い場所……恐らく地上で、大きな音が鳴り響いていた。
ドンドンドン、ドンドンドン。
これは陣太鼓の音? だけど、どうしてこんな夜中に鳴っているの? 武人たちが夜間訓練でもしているのかしら。
気になった私は、船縁から眼下を覗き込んだ。
地上では、小さな炎のようなものが揺れ動いている。明らかに人家の明かりではない。松明だろうか? 誰かが照明を持って、陣形を組みながら移動しているように見えた。
「こんな時間に戦闘の練習だなんて、皆さん熱心ですね」
「……いや」
地上で明かりが揺れる様子を呑気に見ていた私は、残月様の声ににじむ剣呑さにハッとなる。残月様は眉根を寄せて眼下に目をやっていた。
「私は何も聞いていない。そもそも、あの明かりがあるところに訓練場などないぞ」
「え……? それはつまり……?」
「誰かが神域に攻め込んできたのかもしれない」
冷水を浴びせられたような思いがした。私は両手を口元に当てる。
「もちろんまだそうと決まったわけではないが……。なんだか嫌な予感がする。急いで館へ戻るぞ」
残月様は髪から翡翠のかんざしを抜き取る。
「本当に襲撃されているのなら荒魂に知らせを寄越して、神域の防衛に当たらせなければ。それにしても、神の治める土地を侵すなど、一体どこの罰当たりだ?」
「残月様、あれを!」
夜空に異様なものを見つけた私は、残月様の服の袖を引っ張った。
私が指差すほうにあったのは、一見すると黒い雲だ。
だが、普通の雲とは違い、徐々に形を変えながら急速にこちらに迫ってきている。残月様が霊力で船の速度を上げたが、振り切ることはできず、私たちはあっという間にその黒い物体に包囲されてしまった。




