神の花嫁(2/3)
朝起きた時に真っ先に私の目に飛び込んできたのは、ふわふわした薄物でできた見慣れない天蓋だった。
寝起きのぼんやりした頭で、その天蓋をそっと開く。外には板張りの部屋が広がっていた。
「ここは……どこ?」
私が暮らしているのは竪穴の小屋だ。床は地面で、藁でできたむしろの上で寝起きしている。何人かの奴婢と共同生活をしているので、小屋の中はいつも雑然としていた。
けれど、この部屋には誰もいない。私が横たわっていたのは、背の低い卓のような見た目の寝台の上だった。
体の下には、絹の敷き布団が幾重にも重ねてある。体にかかっていたのは衾という掛け布団だ。こちらも絹製である。
これってひょっとして、お姉様が使っているものより上等なのでは?
きっと夢を見ているのね。だって私は供物なんだもの。こんないい寝具が使えるわけがないわ。
そんなことを考えていると、部屋の入り口にかかっていた御簾を掻き分けて、誰かが入ってきた。
「お目覚めですか」
身なりからするに侍女だろうか。丸顔で清楚な見た目をしており、髪にはかんざしを挿している。材質は翡翠。先が葉の形になっている。これと同じものを、どこかで見たことがあるような気がする。
それにしても、翡翠は高級品なのに、どうして一介の侍女が持っているのだろう。彼女が仕えている主人からもらったのだろうか。だとするなら、その人物は随分と気前がいいことになる。
「ぐっすり眠れましたか?」
侍女に問いかけられ、ハッとなった。小窓にかかった御簾を透かして室内に差し込んでくる日の光は明るい。もうすっかり日が高くなっているのだろう。
「た、大変……! 寝坊だわ……!」
私は寝台から転がり落ちるように飛び起きた。その際、床に膝を強打してしまい、痛みにうめく。
なんてことかしら……! これは夢じゃないんだわ!
しかも、布団に泥までついているではないか。私の貫頭衣が汚れていたせいだろう。体中から一瞬で血の気が引いていく。私は急いで床に額をこすりつけた。
「も、申し訳ありません、申し訳ありません……!」
寝坊しただけではなく、高級な寝具まで汚してしまった。これは、笞で嫌というほど打たれるのを覚悟しなければならないだろう。少なくとも、丸一日は食事抜きだ。
「え、ちょっと、どうしちゃったんですか?」
ひどい叱責の言葉が飛んでくるだろうという私の覚悟とは裏腹に、侍女はただうろたえただけだった。
「もしかして、お布団を汚しちゃったことですか? こんなの、洗えば落ちますよ。それに、お湯の用意もできていますし」
「お湯……?」
「昨日は、この館に着くなり寝てしまったと聞きましたよ。だから、食事を取ったりお湯に入ったりする暇もなかったとか。よっぽどお疲れだったんですねえ」
私のお腹が小さく鳴る。最後に何か食べたのは、昨日の朝のことだった。
私のお腹の音が聞こえたのか、侍女が少し笑いながら、「みそぎとお食事、どっちを先にします?」と尋ねてくる。
「では……お食事を……」
私は遠慮がちに頼んだ。
お湯を作る大変さは身をもって知っている。私のためにそこまでしてもらうのは申し訳なく思ってしまったのだ。
それに、せっかく身を清めても、着るものはこの薄汚い貫頭衣しかない。これでは、湯を使ったところですぐに体が汚れてしまう。
幸いにも、泥がついた布団はすぐに綺麗になると侍女も言ってくれた。あとで私が洗っておけば問題ないだろう。
「別に、大したものでなくて結構ですので。奴婢がよく食べる、稗か粟が少し入った汁物で構いませんから……」
「稗か粟ですか……」
侍女は目を丸くした。
「申し訳ないです。そういうのは、すぐには用意できないですね。家畜のエサ用にしか栽培していないので……。お米でもいいですか?」
「お、お米!?」
聞き間違いかと思った。
お米だなんて、なんて贅沢な! 普段は、お祭りで村人から施しがあった時くらいしか食べられないのに!
「よろしいのですか? 奴婢同然の私がそんなものをいただいてしまって。あなたが主人に怒られてしまうのでは?」
「まさか! それに、あなたは奴婢ではなく、残月様の供物じゃないですか!」
「残月様……」
いつも寝起きしている小屋とはまるで違う室内の様子に少々混乱気味だった私の頭も、侍女と話している内に、段々と冷静さを取り戻してきた。
昨夜、私は供物としてこの神域へ来た。そして、そこで残月と名乗る神域の主と出会ったのだ。
その後、残月様は神域に来たばかりの私を気遣って、「疲れただろう?」と言いながらこの館まで案内してくれたのである。
「ここは……残月様の御殿ですか?」
「はい、そのとおりです」
「それなら、少し聞きたいことがあるのですが……」
昨日の出会いを思い出した私の胸に引っかかっていたのは、「あと十日で体が消えてしまう」という残月様の発言だった。あれはどういう意味なのだろう。
けれど、質問をする前に、高坏と呼ばれる高い足のついた器を持った侍女が部屋に入ってくる。器からは、湯気がもくもくと立っていた。
中に入っていたのは、お米たっぷりのお粥だ。私は信じられない気持ちになった。
「ひょ、ひょっとして、これを食べてもいいのですか……?」
「はい、もちろんです」
私は差し出された木の匙を、夢見るような気持ちで受け取った。
匙をゆっくりお粥に浸し、中身を一口すする。しっかりしたお米の感触と、舌を喜ばせるほんのりとした塩気。ほかほかの汁は、体を内側から温めてくれるようだ。
「美味しい……!」
村でお姉様に衣装を取り上げられた時のように、服の類いならあとで返せと言われるかもしれないが、食べ物であれば一旦お腹の中に入れてしまえば、そういう目にも遭わないだろう。
私は夢中になってお粥を食べた。
最後の一口を飲み込み、久しぶりに味わった「お腹がいっぱいになる」という感覚に酔いしれていると、リィン、という涼しげな音がした。
御簾を掻き分け、室内に入ってきたのは残月様だ。侍女がさっと部屋の隅に控える。私も跪いた。
「寝床どころか、お食事まで、本当にありがとうございます」
私は感謝しているのが伝わるように、なるべく気持ちを込めてお礼を言った。
「このご恩は必ずお返しいたします。水汲みでも、たきぎ拾いでも、何でもお申しつけくださいませ」
「そんなことはしなくていい」
残月様の声が少し怒っているように聞こえたから、私は思わずドキリとなった。さらに姿勢を低くする。
「も、申し訳ございません。奴婢の分際で出過ぎた真似を……」
「なぜ謝る。お前は奴婢ではないだろう。……頭を上げろ」
私はおそるおそる言われたとおりにしたものの、残月様はこちらではなく、侍女のほうを見ていた。
「どうして彼女は汚れたなりのままなのだ。湯と着替えを用意するように命じたはずだろう」
私に怒っていたのではなかったのね。
意外に思いつつも、私は急いで残月様と侍女の間に立った。私のせいで誰かが叱られるのは忍びない。
「私がいいと言ったのです。私なんかのために、そこまでしてもらうのが申し訳なくて……。私など、奴婢とほとんど変わらない身分ですから」
「だからお前は奴婢ではないと言っている」
残月様が眉根を寄せて侍女を見た。「もういい、行け」と命じる。侍女は空になった高坏を持って退場していった。彼女が大して怒られなくて良かった。それに、あとで笞で打たれたりすることもなさそうだ。
「そこに座れ」
椅子代わりにもなる寝台を残月様がほっそりした指で差す。
また敷き布団を汚してしまわないか心配になったけれど、貴人の命令に正面切って逆らうわけにもいかないので、私は大人しく言われたとおりにした。
「隣に座って、手を握っても?」
「え……? 別に構いませんが……」
どうしてそんなことを聞かれるのだろう、と思いつつも私は頷いた。
残月様は私にピタリと体を密着させて、横に腰かけた。それから、私の荒れた手を引き寄せ、すべすべした自分の手のひらで包み込む。
無駄に近い距離感に戸惑った私は思わずうつむいた。その拍子に、残月様の袴の膝下をくくる紐に鈴がついているのに気づく。残月様が動く度に聞こえてくる音の正体はこれだったのね。
「なぜお前は自分を奴婢だと言う? お前は私の供物だろう」
下ばかり向いていた私は、急に残月様に話しかけられて我に返った。「はい、そうですが……」と慌てて応じる。
「神の供物ということは、神の妻ということだ。つまり、お前は私の花嫁だ。違うか?」
「え、そうなのですか……?」
質問に質問で返してしまった。私は空いているほうの手を口元に当てる。
供物は神の花嫁。村では供物の役割について色々な噂が飛び交っていたけれど、その真相をあっさりと明かされ、すぐには二の句が継げなくなる。
昨夜の残月様も言っていたけれど、お姉様は間違っていたのね。私は食べられるためではなく、神に嫁入りするために神域に来たんだわ。
「私が……残月様の妻……。だから、こんなにも良くしてくださるのですか? 美味しいものを食べさせていただいたり、寝台まで用意してくださったり……」
「当たり前だ。私の妻だぞ。丁重に扱う義務があるだろう。それに、私だけではない。この神域にいる者は、誰でもお前に敬意を払う。神の花嫁とは、そういう存在だ」
「そう……なのですか……」
私は呆然となった。
突然判明した事実は嬉しいものだった。けれど、本音を言えばまだ実感が湧いていなかったのだ。
立波村にいた頃の私は、確かに神の妻として大切に扱われることを夢見ていた。けれど、しょせんそれは淡い期待のようなもので、現実になるなんて到底思っていなかったのである。
そもそも、これまで皆から軽んじられてきた私にとっては、「大切に扱われること」がどういう状況なのか、具体的に想像するのはとても難しいことだった。ただ漠然と、「もう笞で打たれなければいいな」くらいしか考えていなかったのだ。
それなのに、いい食事と心地の良い寝床だけではなく、神域の民から敬意も払ってもらえるなんて! 私にはもったいないと思えてならなかった。




